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玉置宏千の世界観

 

真実の世界とは何か

 

真我への道 この世界は自己の心の現われ

                                          (2011/10/14)

紀元前五世紀、仏陀釈迦牟尼は「諸法無我」を説かれたとされています。これは、お釈迦様の代表的な法則ですね。意味は、この世界の一切はすべて無我、「自分」という主体は存在しない、ということです。これだけを聞いても、ほとんどの方は一体何のこと?と思われるでしょう。

 この世界の現象すべては自己の心の現れであり、「私」という人間は自己の心の中を生きているに過ぎないのです。つまり、私たちの生きている世界は幻影に過ぎません。ちょうど映画『マトリックス』のように、すべてがマトリックス(仮想現実)の中の出来ごとなのです。ゆえに、この世界のすべてのものに実体は存在しないといえます。この仮想現実の世界に存在しているのは自分の意識だけであり、他者や他の事物、自分の肉体ですら幻影なのです。この世界は意識がすべてであり、あらゆるものは幻影なのです。

 幻影ゆえに思いこみの力・信念などによって引き寄せなどの法則が働くといえます。念力なども同じですね。この世界が幻影であるがゆえに、意志の力で現象を変えることが出来るのです。確固たる物質で構成されているとしたら、物理的な力のみが働くのではないでしょうか。

 なぜ現象イコール自己の心といえるのでしょうか。難しいのですが、例を使って説明してみます。もし自分の心に「怒り」というものが存在しなければ、「怒っている他者」を見ても、その人が怒っていることが理解できないということがいえます。つまり自己の心に「怒り」の要素がなければ、いくら怒っている他者を見ても「その他者が怒っていること」が理解できず、「この人はふざけているんだ」などと、勝手に自分が一番納得するように解釈してしまいます。そして、その解釈に基づいて実に巧妙にストーリーを作り上げてしまいます。結果、その人の見ている世界には怒っている他者など存在していないことになってしまうのです。怒っている人など、そもそも始めから見えないということなのです。

 このように、自分の持っている要素以外、人は見ることが出来ません。逆にいえば、自分の見えている現象の構成要素は、すべて自分の心にあるということです。つまり、自分の心が外側に映し出されたものが、自分の見ている現象なのです。

 あなたの周りの現象すべてが自分自身の心が映し出された世界であるということは、その人独自の世界であるということです。もし、他人というものが実在するのなら、その他者はあなたとは全く別の世界を生きているのです。年代も違えば国も違う、もしかしたら地球のことではないかもしれない…そのくらいかけ離れた世界を私たちは生きているのです。

 あなたの周りの他者はあなたの心の現われであり、心の産物でしかありません。それは、あなた自身の過去の姿であり、未来の姿でもあるのです。これについては魂の転生が関わってきますので、またいつか説明出来たらと思っています。すぐに知りたい方は私の著作『真我の料理教室』をご覧いただけたらと思います。

 もし誰かがあなたを苦しめるなら、過去においてあなたが同じように誰かを苦しめたということです。もし誰かがあなたを喜ばせるのなら、あなたが誰かを喜ばせたということです。もし誰かが愚かに見えるのなら、あなたの心の奥に愚かな部分が存在するということです。もし誰かが善良であり、その振る舞いが人の心を打つのなら、あなた自身の心に等しく素晴らしい部分、善良な部分が存在するということです。

 あなたの周りの他者はすべて、あなた自身に学びを与えるために存在しています。あなたが何者であるのかを的確に教えてくれています。ですから、自分自身と他者と比較して傲慢になることも卑屈になることも不必要なのです。

 映画『マトリックス』では、人類全体の意識がひとつの世界(マトリックス)を共有していましたが、真実は違います。この世界は自分ひとりのために存在し、世界には自分しかいないのです。

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真我への道 幻影球体世界

                                          (2011/10/14)

幻影球体世界 自分の心が映し出された世界を視覚的に説明すると、ひとりひとりが自己を中心とする、自分独自の小さな球体の世界に住んでいるといえます。この球体がどのくらいの大きさなのかは、自分がすっぽり入るくらいの大きさと仮定してよいでしょう。

私たちは左図のように自分は存在していると思っていますが、実際には下の図のように球体の中に存在しています。

 私はこれを"幻影球体世界"と呼んでいます。幻影球体世界の内側の面には、鏡のように自己の心が映し出されています。それを実体ある他者と錯覚しているのです。私たちはみな実体なき幻影に振り回され、右往左往しているのです。

 この世界は常に流動しており、固定されていません。それなのに、私たちはこの世界を固定化されたものとして感じています。それは五感で感じ取った感覚を総合し、脳が巧妙に矛盾や破たんしている部分を補っているからにほかなりません。例えば、遠近感も脳が勝手に作りだしたものです。なぜなら、その方がこの世界を生きやすいからです。心が球体の内幻影球体世界側に映し出されただけの世界ですから、奥行きも幻影です。

 自分という存在は常に幻影球体世界の中心にいます。この世界の中でどこに移動しようとも、自分の位置は変わりません。それは、ちょうどびっくりハウスと同じ理論なのです。びっくりハウスは部屋の壁が回ることで、自分が回っているように錯覚させますね。同じように、幻影球体世界の中であなたが歩いたり走ったりしても自分の意識が存在する位置は変化しないで、周りの風景だけが流れているのです。それを視覚だけでなく、風や地面をける感覚を感じ足音を聞くことによって、より強く「自分は走っている」と思いこんでしまうのです。

 あなたは、今自分の部屋にいらっしゃいますか。窓からは何が見えますか。外にはいつもの景色が見えていますか。では、試しに窓のカーテンを引いてみてください。これで外の景色は見えなくなりましたね。見えていないけれど、同じ風景は存在しているはずだと思いますよね。それは、あなたが今までの観念に従ってそう思っているだけに過ぎません。でも、真実は違うのです。

 カーテンの向こうには何もありません。あなたが見なければ、そこに風景など存在しません。あなたが見るからこそ、そこに物質が存在し景色が生まれるのです。あなたの認識を離れたなら、そこには何もなくなるのです。これが、あなたの生きている世界の真実です。

 中心人物である自分が誕生したことにより、この幻影球体世界は発生しました。中心たる自分が死を迎えれば、この世界も消滅してしまいます。よって、あなたの死後に残されるものなど何一つ存在しません。家族も友人も、あなたが愛したもの、親しんだもの、憎んだものすべては、あなたの死ともに泡のように消えてしまいます。そして、あなたの魂が別の幻影球体世界に再生すると、全く別の設定の世界が拡がっていくのです。また別の他者に囲まれ、あなたは新たな一生涯を経験することになります。

 この幻影球体世界はなぜ生まれたのでしょうか。それは、あなたが始まりとてないような過去からずっと自分のエゴを満足させ肥大化させてきたからです。自己と他者を区別し、自己の苦しみを他者のせいにし自己の喜びだけを追求してきた結果、自己の潜在意識を穢してきました。私たちの潜在意識は、エゴから生じた観念がぎっしりつまっているのです。

 これはいかに心の美しい人であっても、残念ながら同じです。潜在意識の穢れの蓄積はその人の一生涯だけで培われたものではなく、始まりさえわからない過去から魂が連綿と蓄積し続けたものだからです。しかも、いかに道徳的であろうと関係ありません。それを良いとするのはあくまでも人間としての観念です。

 潜在意識の穢れとは道徳を基準として生じるわけではありません。自分と他人をわけ隔てる意識によって生じます。私という幻影を見出し、それ以外を他人と区別して様々な行為をすることによってエゴ本位の、自分独自の観念を構築し、それによって幻影球体世界が生まれるのです。いいかえれば、幻影球体世界はエゴそのものといえます。

 この世界は自己の心の現われであり、他者など始めから存在しないという深い認識を得ない限り、魂は新たな幻影球体世界に再生し続けます。私たちはこの幻影球体世界の連続から抜け出すことは出来ないのです。

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真我への道 幻影球体世界からの離脱 

                                          (2011/10/14)

 私たちがこのような幻影球体世界で生を重ねることに、どのような意味があるのでしょうか。一生、一生を取り上げれば、そこに愛する家族がいてやりがいのある仕事があり、充足した人生を送ることが出来るかもしれません。しかし、そのすべてが幻影です。あなたの心の産物でしかないのです。あなたは長い夢を見続けているようなものなのです。

 しかも、自分の思い通りに生きていける人がどれほどいるでしょうか。病気や事故、経済的な困窮。多くの人は自分が思い描いていたような人生を歩めず、ストレスや不満をため不平不満をもらしながら生きているのが実情ではないでしょうか。

 あなたが周りの人やものをどんなに愛していようと大切にしていようと、必ず別れは訪れます。幻影球体世界の主人公である自分には必ず死がやってくるのです。その時、自分の存在が消されてしまう恐怖とともに、愛するものと引き裂かれる苦しみに悶え苦しむことになるのです。

 死はあなたの心を壊してしまうほどに残酷で苛酷な苦しみを与えます。しかし、死は私たちに与えられた恵みでもあるのです。あなたは死を知らなければ無常に気付かず苦しみを見ようとせず、幻影球体世界の中に安住することを選ぶでしょう。夢から覚めようとしないでしょう。死という強烈な苦しみを何度も何度も経験させられることによって私たちは無常を知り、この世界から離れることを望むようになるのです。

 多くの魂が夢からそろそろ覚めるときが近づいています。この幻影球体世界を壊して、真実の世界を見てみませんか。そこには、私たちを苦しめていた死は存在しません。私たちを抑圧していたものはなくなり、完全な自由を得られるのです。そして、壊れることのない完全な幸福と喜びの世界が待っています。

 この世界にいながらにして幻影球体世界を崩壊させる方法、それこそが解脱というものです。そのための道しるべを真理と呼びます。幻影球体世界は、エゴによって自分と他人を区別するために生じました。ですから、エゴをなくしていくこと、自分と他人の区別をなくすこと、この二つで幻影球体世界を崩壊させることが出来ます。お釈迦さまや他の仏陀方が説かれた真理の教えでは、この二つを徹底的に極めていきます。

 真理の教えは解脱と悟りのための教えであり、幻影球体世界を崩壊させ、すべての魂の故郷であるニルヴァーナに至るための、究極の道なのです。

 この世界に真理の教えが存在しているというのは、自分の心に真理に至るべき要素が存在しているということです。幻影球体世界を崩壊させる道が示されているということです。

 全く真理の教えの存在しない幻影球体世界も存在するのですから、私たち日本人がいかに恵まれているのかお分かりになるかと思います。

 今はまだほんの微かな道かもしれません。しかし、生き方をかえていくことで、ニルヴァーナに続くその道を太く確かなものに変えていくことが出来るのです。

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真我への道 私たちの世界の構造について

 私たちの住む世界は一体どんな世界なのでしょうか。私たちの目に映っている世界、感じている世界、これがすべてなのでしょうか。いいえ、残念ながら違います。それはほんの一部であり表面的なものです。この世界は色々な角度からとらえることができますが、私たちの人間界の位置づけから、まずは考えてみましょう。

三界ピラミッド構造図

 私たちの住む世界は人間界といい、欲界の一つとされています。欲界とは上から天界・修羅界・人間界・餓鬼界・畜生界(動物)・地獄界の六つの世界に分かれているとされ、別に欲六界ともいわれる世界です。人間界はちょうど真ん中に存在するわけです。この六つの世界が、ふつう私たちが死後に転生する世界です。この六つの世界のうち人間より下の世界を三悪趣といい、苦しみの境涯と定義しています。逆に、人間界より高い世界は善趣といいます。人間よりも徳のある魂の転生する世界であり、喜びや楽しみの多い世界でもあります 。

 人間には苦しみももちろんありますが、善趣の世界より少ないとはいえ楽しみもたくさんあります。人間はその人生において、苦しみを受けとめ戦うことも、苦しみを楽しみで紛らわせることもできます。また良いことをするのか悪いことをするのか、全部一人一人が自分で決められます。たとえ誰かに命令されたとしても、それに従うか抵抗するのかは自分で決めています。つまり人間というのは自由な存在なのです。人間界はそういった自由を行使できる世界なのです。
しかし、人間よりも下の世界ではそういう自由はありません。苦しみだけしかない世界なのです。ですから、この三つの世界に対して一般的な呼称である餓鬼界・畜生界・地獄界を使うより、三つの世界全部を地獄世界ととらえ、それぞれを貪り地獄・迷妄地獄・激苦地獄と呼ぶ方がふさわしいでしょう。

 

 

真我への道 激苦地獄界のとらえ方 

 三つの地獄の中でも一番下に位置する最も苦しい地獄、言ってみれば地獄の中の地獄、これはどのような世界ととらえたらよいのでしょうか。それに関して、非常に面白い考え方があるので、これからお話しましょう。

 突拍子もないことのようですが、私たちの目に入る景色そのものが激苦地獄だとお考え下さるとよいでしょう。この地獄は私たちと無関係ではないのです。自己の心に地獄の要素が存在するがゆえに、地獄世界が形成されているからです。人間界から切り離された、どこか別の次元に存在するというよりも、地獄は自分の目の前に広がっている。そのようにとらえますと、見えてくることもあるのです。

 人間が視力を使ってとらえる世界そのものが地獄である。これはどういうことかといいますと、一人の人間の視界全部を埋め尽くしている景色を非常に小さいドットが構成しているとご想像下さい。ちょうど新聞などの写真が細かい点によって構成され、その密度で画像が表現されているように、実際の人の視界全部が同じようにドットで構成されているとお考え下さい。新聞の写真のように密度の粗い、大きな点の集まりではなく、密度の細かい、もっとずっと微小なドットの集まりです。あまりに微小であるがために、私たちにはそのドットを認識することができないのです。例えば、点描画は近くで見ればそれが点で構成されていることが分かりますが、距離を置くとそれがごく普通の絵画のように見え、点で構成された絵であることが分からなくなります。私たちの視界も同じことがいえるのです。点描画を遠くから眺めている状態ですね。

 私たちの視界を構成するこの細かなドット、粒子一つ一つが地獄に生きる魂そのものということです。ゆえに地獄はあなたと関係の無い別次元の話としてではなく、あなたの目の前にあると言えるのです。

 あなたの前に広がる世界そのものがあなたの心を映し出したものと考えたとき、この世界の構成要素すべてが鏡に映った陰に過ぎないのなら、それが無機質な素粒子であっても意識を持ったドットであってもどちらでも同じことだと感じるのは、おかしいことでしょうか。私の考えでは、その一つ一つのドットである地獄の魂が自分こそが一番苦しい境遇にあると感じ、この苦しみから逃れたい、逃れたいと渇望しているのです。

 例えば1枚の紅白幕があったとしましょう。その赤い部分は燃えさかる炎に焼かれる灼熱地獄のような世界です。死という終わりさえない世界です。その赤を構成しているドットは自分の押し込まれている赤という灼熱地獄が苦しくて、苦しくて仕方がない。焼けただれのたうちまわりながらも、もうろうとした意識で「向こうに見える純白の雪の世界。あそこで白を構成しているドットになれたら、この炎で焼かれる苦しみから解放される。焼け焦げた体を冷やすことだって出来る。この痛みから解放される。あそこに行きたい、行きたい」このように白になれたら自分の苦しみは減少する、苦しみから解放される。そのように感じているのです。もしくは、今の自分の境涯からただただ変化したい、変化すれば少しは楽になる、大きく楽になる、そう考えがちなのです。自分が白のドットになれるのなら元の白なんてどうなってもいい、死んでしまえと、自分だけが苦しみから逃れたい、助かりたいと思っています。反対に白を構成するドットも赤に対して同じように感じています。旗を構成する無数のドットがそのような思念を持ち、その思念が集まることによって旗が風で揺れ動いたりするのです。あるいは、誰かによって動かされ形を変えます。そうなることによって、今まで赤であったドットが突然白いドットに変化します。しかし、それは穏やかな雪の世界ではなく、猛烈な吹雪の止まない極寒の地獄なのです。また同じようにそこから逃れたい、逃れられるなら他の者なんてどうなっても構わないという思いに捕われてしまうのです。 

 このように眼に映るすべてを構成するドット、地獄の亡者すべてが同じように変化を求めています。そのためにこの世の映像、あるいは現象そのものは変化するのです。この世が無常である理由はここにあります。「苦しい、ここから逃げたい」という地獄の亡者の思念によりこの世界は一定ではなく変化し続ける状態、つまり無常になってしまっているのです。

 この世界のすべては自己の心を現わしています。あなたに起こる、すべての現象はあなた自身の心が投影されたものです。ですから、自分の心の中に地獄の要素、怒り・嫌悪・憎しみがあるために様々な現象を自分の目で見せられ、またその現象は常に移り変わって行くのです。あなたが認識していないにせよ、この世のすべてに無常というものが背景にあるのは自分の心の奥底には邪悪心や苦しみから逃れるならどんなことをしてもよい、そういう気持ちが眠っているからなのです。

 もし、あなたがそういった気持の一切を取り除くことができたとしたら、心の奥の奥まで地獄の要素が一片たりともない、そんな状態になったとしたら、この世界は停止します。すべての現象が止まっている一切常、つまり無常でなくなるのです。その時自分自身はというと心が完全に静止した状態、ニルヴァーナの真我に至った状態になることができます。これこそ私たちの目指す、すべての魂の到達点なのです。

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真我への道 餓鬼界のとらえ方

 この人間界において、餓鬼の世界はどのようにとらえたらいいのでしょうか。

 餓鬼の世界を理解するためには、所有と放棄という概念をまず念頭に置かないといけません。餓鬼の世界においては、それがすべてだからです。

 個人差はあるけれど、人間は実に多くのものを所有していますね。自分の身体から家・名前・家財道具・車など。他にも公共のもの、電車や道路だって人間が作った、人間の所有物でしょう。形あるものがほとんどですが、中には記憶や感情など形のないものもあります。私たちの生活は多くのものを所有することで成り立っています。また、質の良い生活を維持するためには不要な所有物を捨てる、放棄することも必要です。

 また、動物にも同じように所有しているものはありますね。動物一匹一匹の身体や食べ物、住処などでしょうか。ペットならそれ以上にたくさん与えられていますよね。

 これら人間や動物が所有しているもの以外は、実は餓鬼が所有しているのです。どういうことかというと、人間が空き缶をゴミとして捨てるとしましょう。「ゴミとして捨てた」という意識を人間が持った瞬間からその空き缶は人間の所有を離れ、人の目には見えないのですが餓鬼がそれに群がります。その空き缶は餓鬼の所有に移ったことになります。人間や動物が放棄したもの、所有していないものしか、餓鬼は貪ることができないのです。

 それと同じことが風景に関してもいえます。日中、山や川の風景を見て人は「あぁ、きれいだなあ」と「あぁ、素晴らしいなあ」と思うことによって、視覚的にその風景の美しさや形状を漠然と所有しているのです。あるいは、その山や川の所有者であるならば、その風景を見て「これは私の土地である」「これは私の森である」といった意識をはっきりと持つでしょう。

 しかし、同じ風景を見ても夜の真っ暗闇の中であったならば、その景観を「きれいだな」「素晴らしいな」と感じる人間はいないでしょう。それは景色を所有していないということになるのです。土地の所有という意味ではなく、見えないためにその夜の真っ暗闇の景観を所有していないということです。人間の所有を離れた景観は、その瞬間から餓鬼界の住人の所有になります。至る所に餓鬼たちがはびこり、夜の暗闇を貪ります。昼間のうちは何でもないところでも夜になるとなんとなく恐ろしい、気持ち悪いと感じるのは、そこがすでに餓鬼の世界と化しているからです。私たちの意識は、知らずともそれを感じ取っているのです。夜の暗闇に紛れて幽霊が現われるというのも、その象徴でしょう。

 また、「余ったからもういらない」とまだ食べられる物を捨ててしまうことはよくあることです。そんな時、お年寄りに「餓鬼になるぞ」と戒められることがあります。そんな勿体ないことをすれば、死後にいくら空腹であろうと食べられない世界に生まれ変わるはめになるということでしょう。それは正しい部分もありますが、何も食べられる物を捨てることに限って、ではありません。人間が放棄をした途端に餓鬼の所有が始まるのですから、それが食べられる、食べられないに関係はないのです。

 人間が放棄したもので、餓鬼が貪れないものはないといってよいでしょう。これはつまり、人間が何かを捨てると、その瞬間に必ず餓鬼とエネルギー、カルマの交換が生じるのです。このカルマ交換が起こると、捨てた側の人間には餓鬼的な要素が強まることになってしまいます。必要以上にたくさん買い物をしたり多くのものを味わいたいと望んだりします。その欲求が満たされているうちはそれでもよいでしょうが、いざ欲求が満たされなくなればそのような欲求を持つこと自体が苦しみになります。餓鬼とカルマ交換することは、人間とカルマを交換することとは比較にならないほどエネルギーが下がってしまうのです。

 これは余談ですが、コンビニで賞味期限切れのお弁当を捨てているでしょう。若いころあれを拾って食べたことがあるんです。当時は出来る限り自分の時間は修行や瞑想にあてていたから本当に貧乏だった。それでいいとも思っていたけど、若いからお腹も空くしお金もない、どうしようかと思っていたところに家の近くコンビニがあって・・・あ、これだって。家で食べてみたら、傷んでもいないから味は何ともないのですが、顔が一気にどす黒く変化しました。これはどういうことかというと、餓鬼とカルマ交換したせいだと思います。コンビニの店員さんが賞味期限切れになってゴミ箱にお弁当を捨てると、その瞬間から餓鬼の所有に移りますよね。目には見えない餓鬼がゴミ箱の中でお弁当を貪っていたら、腹ペコの私がゴミ箱のフタをひょいと開けてせっかくのお弁当を横取りしていく。たぶん餓鬼はものすごく怒っていたでしょうね。かわいそうなことに、彼らには貪ることしか頭にないのだから。ともかく餓鬼から私に廃棄のお弁当の所有が移り、私と餓鬼の間でカルマの交換がされたことになります。私に餓鬼のエネルギーが入ってきたために、私の元々のエネルギーが下がって顔色が変化したという訳です。普通そんな顔色になる人はいないでしょうが、修行によってものすごく浄化されていたからその変化は劇的でしたよ。エネルギーがいくら下がっても修行は続けていたから、まただんだんに回復していきましたが。

 私は懲りない性質なんでしょうか。大変だったこともすぐに忘れてしまうんです。ある日、またお腹が空いてしまった、お金もやっぱりない。今度は迷わず、すぐにコンビニへ行きました。でも、今度は拾ってきたお弁当を温めてみようと思ったんです。どうせなら美味しく食べようという欲が出たんです。その温めたお弁当を食べたら、なんと顔が黒くならないんです。エネルギーがそれほど下がった感じもしない。それで初めて気付いたのですが、電子レンジには、表面的にカルマを飛ばす力があるようです。そのためにはその少なくとも600wで3分は必要かと思いますよ。でも、真似をする人はいるのかな。

 話が横道にそれてしまいましたが、修行を志す方はなるべく餓鬼とのカルマ交換を避けなければならないですね。エネルギーも下がるし、色々なものに対する欲求が増大してしまっては、瞑想に集中することも難しくなってしまいますから。

 まずは、捨てるということを出来るだけ避けることです。だからといって、捨てることがない代わりに所有が多すぎるというのも色々なものを貪っているという事ですので、やっぱり良くない。餓鬼のカルマを積むことになってしまいます。ですから厳しいようですが、初めからできるだけ所有するものを少なく、頭陀(ずだ)に徹した修行をやっていく方がいいかと思われますね。もちろん、拾い食いは避けましょうね

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真我への道 四念処とは

                                          (2011/10/14)

 仏法に四念処(しねんじょ)、または四念住(しねんじゅう)という法があります。これは、四つの心の住処という意味です。「身(身体)・受(感覚)・心(こころ)・法(すべての事物)」に対して私たちは誤った見解を持ち、対象への捕われ(穢れ)を増大させてしまっています。そうではなく、正しい見解とは何なのかを四念処は示しています。

 しかし、正しい見解とはいっても、一切の観念を超えた境地である真我にとって四念処ですら、本来住処とするべきところではありません。すべての観念をなくしていかなくてはいけないからです。自己の修行のために一度は住処とした四念処だけれども、究極の境地であるニルヴァーナに至るためには、やっぱりそこからも抜け出さなくてはいけません。

  • 身「我が身、之不浄なり」

 例えば頭を洗えば、埃や汗が流れてきれいになります。また足を洗えば、汗が流れそう快になります。私たちは全身を洗うことで、清潔できれいな身体を維持しています。そして、自分の身体を清浄なものであると思い込んでいます。

 しかし身体を一切洗わなくなったらどうでしょうか。汗や埃、汚れはついたまま、垢はどんどんたまっていきます。あっという間に、私たちの身体は匂いを放つ不快な代物に変化します。

 また、私たちの身体から分泌されるもの、排泄されるもので美しいものがあるでしょうか。みな清浄とは言い難いものです。そんなものを分泌する身体が果たして美しいものでしょうか。私たちの身体は、本来不浄なものなのです。

  • 受「受は苦なり」

 私たちの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身)は私たちに快感を与えてくれます。美しいものを見せきれいな音を聞かせ、良い香りをかがせ、美味しい味覚をもたらし、気持ち良い触覚を与えてくれます。それを表層意識がまとめ上げ「私が何をしているのか」を認識させます。

 その結果、良い感覚をもたらすものや行為に執着するようになるのです。逆に執着しているものの反対の感覚に対しては、苦しみを感じるようになってしまいます。そして、その嫌な感覚をもたらす行為やものを退けるようになります。心地良い感覚ですら結局はその裏の苦しみを増大させてしまう、総じて感覚は苦しみでしかないのです。

  • 心「心は無常なり」

 いくら愛し合い執着しようとも、また相手を信頼しようとも、他者である相手の心は変化し移ろいやすいものです。自分の心も同じように移ろいやすく、今まで好きであったものも嫌いになったり憎むようになったりします。もしくはすっかり冷めて、どうでもよくなってしまったりすることもあります。このように心は一定ではなく変化しています。

 すべての現象は、自分の心が認識して初めて存在するものです。自分の心が捕らわれているものによって形作られています。よって、自分の心が変化することで他者の心も変化するのです。この変化そのものを指して「心は無常なり」といいます。

 

  • 法「法は無我なり」

 この世のすべての事物は、ある条件のもとに成立しています。自分が存在するのは父母が存在しているからであり、その父母は祖父母がいなければ存在しないものです。その他多くの事物が関与して、今ある自分が形成されています。あなたの周りのものもその原材料があって、作る人がいて、運ぶ人がいて、あなたの周りに存在しています。この連鎖は際限なく続きます。

 このようにすべての事物は何かに依存しなくては成立出来ません。単体では成立しえないのです。この世界の事物のすべてが条件となり連鎖反応を起こして、私たちの目の前の現象はつむぎだされているのです。

 このようにひとつの条件が崩れたらその存在自体が変質、もしくは無くなってしまうものに実体があるといえるのでしょうか。実体とは、常に変化しないで真に存在するものを指すからです。他(条件)に依存することで成立しているものは、存在していないといえます。つまり、すべてのものに実体はない、ゆえに無我であり空性であるといえるのではないでしょうか。私たちは通常すべてのものを実体であるかのようにとらえて、それに執着していますが、実はそれらに実体などないのです。

 カルマの法則ですら、条件によって左右されています。カルマの法則とは自分の為したことが為されるという現象に変わることです。カルマというものは因果関係、因果応報という考え方で、それが現象化する時は必ず条件が整わなくてはなりません。ひとつのカルマは骨子となりますが、その肉付けである現象は条件によって決定されます。

 例えを使ってわかりやすく説明してみましょう。A君は幼馴染のBさんに恋をしたとします。A君には異性を求めるカルマ、つまり原因があったのです。しかし、相手がBさんでなくてよかったわけです。例えばクラスメートのCさんでも良かった。でも、そうならなかったのはBさんがたまたま女性として生まれた、A君の近くに住んでいた、年も近かった、たまたまA君のタイプだった。たくさんの条件があったのです。そして、その条件を満たすためには、また無限の条件が必要です。

 その条件がひとつでも満たされなかったならばA君はCさんを好きになっていて、BさんはA君の好きなアイドルだったかもしれません。二つの現象は、それだけを見るなら全く違う現象です。それでもA君の持っているカルマはきちんと現象化されているわけです。

 この条件について、もう少し考えてみましょう。ふたりの間の条件が同じであったとしても、ひとつの条件に対しての観念が全く違っていたらどうでしょうか。例えば、身近にいる幼馴染の女性は妹のようで恋愛感情が持てないという人もいるはずです。もしA君がそのような観念を持っていたなら、Bさんに恋するという現象にならなかったはずです。しかしA君はそのような観念は持っていないで、逆に良く知っているBさんに対し安らぎを感じていたかもしれません。よって、A君はBさんを好きになるという現象になったのです。

 ここでは「相手が身近な存在」という条件は同じですが、前者と後者のパターンでは結果が違ってきます。ひとつの条件に対して二つ以上の見解があるということは、人によってひとつの条件が変化して作用するということです。ということは、実体の定義である「常に変化しないで真に存在するもの」にあてはまりません。条件も実体のない無我、空性であるということです。このように、カルマの法則さえも諸法無我の下に置かれるのです。

 

「これこそが私(世界)である。これこそ楽(喜び)だ」と錯覚しているものに対して、これら「身・受・心・法」の四つは「いや、実は違いますよ。それは苦しみなのですよ」と言っているのです。そのどちらも苦と楽という比べるものの存在する相対世界での話です。つまり、絶対的なものではないということです。

 冒頭で申し上げましたように、四念処は真我の住処でありません。この四つの住処とは苦楽という物差しで見ているため、相対的なものの極みなのです。にもかかわらず、すべての魂は本来真我であるべきなのに、自分はこのような相対世界に住んでいることが正しいと勘違いしてしまっているのです。苦や楽という相対の世界から離れなければ、絶対の世界である真我の境地には至れないのです。真我の境地は二元(相対)を超えたところに存在するわけですから、当然といえば当然なのかもしれません。

真我への道 宇宙人は、実は神様!?

 ここでは、私の友人(弟子?)であるT君からの質問をご紹介したいと思います。T君は、私のもとに来るようになって一年余りです。まじめな性格ですが、まだ特筆すべき瞑想体験などはないようです。でも、なぜかUFOをこの頃見るんだそうです。

T君:僕は以前UFOらしきものを見たことがあるんです。やっぱり宇宙人はいるんですか。

玉置:それは人間のような文明を持った宇宙人はいるかということですよね。結論から言ってしまえば、宇宙人はいます。以前お話しました欲六界、この欲六界を構成している六つの世界は、宇宙人の世界なのですよ。上位二つの世界に住んでいる宇宙人はUFOで地球にやってきています。仏教でいわれるところの修羅天と欲天、神様ですね。

T君:すごい話ですね。どうして玉置さんはそんな別の世界や宇宙人について知るようになったのですか。

玉置:それは、アーカシックレコードという大宇宙のデータバンクからインスピレーションとして必要なデータを知ること    が出来るようになったのですよ。あまり自分に必要のないことは教えてくれないようだけど、真理について理解    する必要のあることは教えを受けることができるようになっているみたいです。これは自分でも何故かはわから    ないけど。

T君:それもまた、すごい話ですね。あの、話を戻しますね。何星に神様はいるのですか。

玉置:この星と限定できる神様の星もありますが・・・。天の川銀河に関していえば、基本的に銀河の中心、星が密集している天の川の中心に 近づくにしたがって、高い位の神様が住んでいらっしゃる星があります。外側の方が低い位の神さまの星になります。欲天は六階層になっていて、下から第一天界、第二天界と続き第六天界まであります。銀河のほぼ中心に近い星には第六天界、第五天界が存在します。そこから遠ざかるにしたがって、第三、第四天界となります。最後の修羅天の星は人間界、つまり私たちが住んでいる地球のある太陽系から銀河の中心までの間にあちらこちらに点在します。それだけではなく、修羅天の星は天の川銀河の中心からみれば地球よりもさらに外側の宇宙にも存在しています。

T君:他の貪り地獄と迷妄地獄と激苦地獄は、どのあたりの星にあるのですか?

玉置:太陽系よりずっと外側の星に散らばっています。その中で中心に近いのは貪り地獄、次が迷妄地獄、一番遠いのが激苦地獄です。下の 世界ほど中心から遠ざかってしまうのです。そして、それぞれに非常に過酷な星でね、そこには苦しみしかない。だから苦しいばっかりで高度な文明を築くとかそういう余裕や自由はないのです。だから、修羅天や欲天の神様のように地球に飛来してくることもない。そう考えると、地球には自由があると言えますね。未熟だけど、宇宙基地やロケットを持っていますからね。

T君:神様の世界はどんな世界なんですか。

玉置:欲天の神様も修羅天の神様も人間よりずっと徳がある魂で、ずっと長寿です。人類よりはるかに進んだ文明を持っているし、意識や世界の仕組みについての理解もずっと深いのです。それは私たちが動物よりずっと多くのことを理解し高度な文明を持っていることと同じです。 それより大きな差があるかもしれないけど。驚くべきことに彼らの食べ物は地球人類の意識なのですよ。

T君:神様って人間の意識を食べるんですか!?なんだか、それって人間は神様の家畜みたいじゃないですか・・なんだかいやです。

玉置:まあ、そういわずに。最初は神様だって自分の世界で自給していたのだけど、人間の意識を食べてみたら意外にもおいしかったと。私たち人間なんて他の生き物の命をとって食べているのだから。神様から見たら、「人間はなんて野蛮な生き物なんだろう」ということになってし まうよね。欲天の神様はね、私たちの「誰かのために何かしようとか」そういった美しい感情や「ああ楽しいな」という感情を吸い取って食糧 としています。第一天界・第二天界と上へあがっていけばいくほど、善業を行うときの感情や楽しみの感情を好んで召し上がります。逆に修羅天の神様は、人間の悪しき感情、主に嫌悪・貪り・恐怖なんかが好きなんですよ。だから、もともと闘争本能が強い神様なんだけど人間が戦争したりケンカしたりしてそういった悪い感情が増大するのを喜ぶのです」。もし人間が何の感情もまったく持たなければ、天界の住人の糧にはならないということです。

T君:すごい話ですね・・・。

玉置:もし君が「神様の家畜みたいなのは嫌だ」と思うなら、一切の現象から離れ心の動きを止めることでしょうね。そうすることで欲天の神様よりはるかに高い世界ニルヴァーナの境地、つまり真我の状態にいたることができるんです。それはすべての魂が目指さなければならない 最高の境地なんだよ。人間は確かに欲天の神様から見たら野蛮ではかない生物かもしれないけど、生き方次第で欲天の神様さえ超えられる、素晴らしい可能性を持った存在なんだ。私たちは、今人間の生を生きていることを感謝し本当に大事にしなくてはいけないと思いますよ。

T君:どうしたら神様を超えられるんですか。心の動きを止めるとはどういうことなんですか。

玉置:欲天以上の高い世界は静マナ識世界といいます。この世界は欲天よりもさらに宇宙の中心に存在しているんです。静マナ識世界に進めば、どんどん心が止まっていき、苦しいことがあっても楽しいことがあっても心が動じなくなるのです。それよりも何よりも「他者をどれだけ助 けてあげられるか」これが欲天以上の世界では大切なのです。つまり神様を超えるには、まず苦しみや喜びにとらわれず自分の心を静かに保つこと、そして他者の苦しみを自分のものとして行くことが必要なんです。そうすれば自ずと高い世界にいけるようになっているのですよ。

T君:自分のためではなくて、他のために生きるということですね。欲天の神様には、そういう意識はないんですか。

玉置:そう。自分を捨てて他のために生きるという自己犠牲の意識は希薄ですね。大事なことを君に伝えましょう。静マナ識世界において「他者を助ける」ということの本当の意味はね、命を助けてあげたり苦しみを取り除いてあげたりするということではないのです。それはね、生死を超えた価値のある生き方があるんだと、そして、それはこのように生きることなんだと身を持って教えること。私たちが慈悲を持ってすべての魂に愛を降り注ぐだけではだめなのです。すべての魂が同じように他をみて愛するように、無償の愛を他に施せるように、自分が頑張ってみんなにそうなってもらわないといけないのです。それが本当の救済なんです。人間はね、それに気付くことができる。そして自分が気付 いたなら、それをみんなに教えてあげることができる。その時から自分の人生を変えていくことのできる、本当に素晴らしい存在なのです。その生き方は、なんでも自分の思い通りになる第六天界の神様さえ羨む最高の生き方なんだよ。この欲六界から抜け出す本当の道だか ら。宇宙の中心に近づいていく、唯一の道だから。君はそれに気付きはじめたのだから、どうかこの道を歩み続け多くの魂を救ってほしい。心からそう思っていますよ。

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真我への道 功徳の原理

 功徳とは、「徳が高い」だとか「徳がある」だとかいう時の徳と同じものです。この功徳というものは実際に存在しています。それどころか、私たちはこの功徳の法則に実は支配されているのです。

 例えば、何をやっても上手くいく人、なぜか幸運ばかり付いてまわる人が世の中にはいますね。「なんで、この人はこんなにも恵まれているんだろうか。何が違うんだ」と思ったことはありませんか。その人は現世的な功徳を持っているために、そのような恵まれた現象が生じるのです。

 その逆に何をやっても上手くいかない人、不運にばかり見舞われる人、そんな人もいるものです。その人は現世的な功徳が足りないのです。その人がいくら頑張っても、これは乗り越えられないものです。さらにいえば努力することにすら、それだけの集中力があるという意味で功徳が必要なのです。ここまでいえば、功徳というものが何なのか大体お分かりになったでしょう。功徳とは物事を自分の思い通りに進めるためのエネルギーです。

 この功徳というものは、どのようにしたら身に着くのでしょうか。こんなに素晴らしいものならば、誰もが功徳をどんどん積みたいと思うことでしょう。それは、実はとても簡単なことです。自分以外の誰かに良いことをするのです。その人が喜んでもらえるようなことをするのです。これを善業といいます。善業をおこなう際には見返りを求めてはいけません。そこで代償を得ようとしたら、例えばお礼をもらったり優遇してもらったりしたら、功徳にはなりません。無償で誰かのために動くことができたのなら、功徳は自然に集まってきます。

 功徳について、もう少し考えてみてください。例えば、あなたの前にひとりの乞食とひとりの托鉢僧がいたとしましょう。その時あなたはいくばくかのお金を持っていたとしましょう。どちらかにあげるとする場合、どちらにあげれば、あなたのより大きな功徳になるでしょうか。

 いかにも食べ物も満足にとれていないような痩せた乞食の方でしょうか。いいえ、違います。その托鉢僧が本物の真理の実践者であるなら、托鉢僧に布施(僧侶にお金や品物を与えることです)することで得られる功徳は、乞食に布施する功徳の何倍、何十倍、何百倍にもなります。

 両者の違いは一体なんなのでしょうか。それは、真理の実践者に1000円でも布施をして、その1000円で真理の実践をする人が一日を暮らしたとします。その一日でその人が何をするのかといえば、慈悲に代表される四無量心の実践です。どれほど多くの魂がその恩恵を受けられるか。

 真理とは煩悩を減少させるものです。生きている間に煩悩に流され楽を求めても、楽の裏には苦しみが必ず存在していることを教えます。それを理解しても真理の実践によって煩悩から離れなければ、結局苦しみは増大します。生存の域を超えて、すべての魂を絶対世界であるニルヴァーナに導くために真理は存在しているのです。真理のバイブレーションは四無量心実践している本人のみならず、その周囲の人々に波及します。煩悩を減少させていく傾向になるのです。真理の実践者が単に瞑想を行なうことだけでもその場所の浄化が起こります。その場所固有の穢れというべきものが昇華されるのです。それほど真理というものは偉大であり、真理を実践している人とそうでない人の間には開きがあります。

 普通の人、つまり真理の実践者ではない人に布施しても、その人個人が恩恵を受けるだけです。多くても、その人の家族ぐらいのものです。真理の実践者への布施と根本的に違うのです。

 もちろん、これらのことは真理をしっかり実践している求道者にのみ当てはまることです。普通の人とさして変わらないような生活を送っているお坊さんやどこかの教祖ではいけません。同じような真理の功徳はとても望めないでしょう。

 真理の実践者に対して善業を行なうことは、真理の功徳を積むのと同時に、真理との縁を作ることになります。最初はわずかな真理との縁ですが、それをたどって真理の功徳を積みながら縁を強くし、すべての魂はニルヴァーナに向かっていくのです。ですから、本物の真理を掲げる人のために無償で善い行いをすることは非常に貴重なのです。

 普通の人に対して善き行いをする場合と、真理の実践者に対して善き行いをする場合は得られる功徳の量も違いますが、その質も同じではありません。功徳にもアーカシックレコードと同じように、真理と世俗という二つの面があります。究極の真理に向かってまい進していくためにも功徳のエネルギーが必要です。それとは別に、世の中を上手にやっていくための世俗的な功徳のエネルギーもあります。先程の上手くいく人いかない人は、こちらの世俗的な功徳の話です。

 普通の人に対して善業を行なえば、世俗の徳を積むことが出来ます。この世俗の徳は現世的な幸福しかもたらしません。真理の実践のためには使えないのです。一方、真理の実践者に対して善き行いをすれば、真理の功徳を積むことが出来ます。真理との縁によって魂は真理と巡り会い、この真理の功徳によって真理の実践を進めていくのです。真理の功徳は、実は世俗の功徳にも転用できます。つまり、その気になれば真理の功徳を世俗的な幸福を購うために使うこともできるのです。自分がこの世での幸福を求めるなら、功徳がそちらに流れ幸福をつかむことが出来ます。しかし、世俗の功徳は世俗のためだけしか使えません。世俗の功徳がいくらあっても、真理の功徳がなければ真理の実践は出来ないのです。

 真理の功徳をどのように使うかは、結局自分の意識がどちらに向いているのかということにつきるでしょう。自分という人間は究極の真理を極めんとするのか、この世の幸福を求めるのか、その二つに大別されます。私たちは自分のお金を何に使うのか選べます。同じように自分の功徳を何に使うのか、無意識に選択しているのです。人間は自由な存在です。どちらを選ぶも個人の自由意思なのです。ただ、功徳の使い方を決めるには、この世の幸福はすべて幻影であることと、幸福の裏には苦しみが存在するのだということを念頭に置いておかなくてはいけません。

 また真理の功徳が足らなければ、真理の実践を始めても修行を進めることが出来ず挫折してしまいます。功徳の法則は非常にシビアなのです。功徳をお金に例えるなら、金の切れ目が縁の切れ目です。真理から離れてしまうのです。一度真理から離れてしまえば、そこからまた真理の流れに入ることは非常に困難です。よって、エネルギー切れにならないように真理の実践をしながら、常に功徳を積み続けなければならないのです。

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真我への道 アセンション、真理の世界に向かうための功徳

                                          (2011/10/24)

 真理の実践者の中で、特にすべての人々を救うために真理の修行に心身を捧げた魂を、菩薩と呼びます。菩薩は自己の修行の完成よりも、すべての魂を救うことを目的としています。三十二の御魂とそれに続く14万4千人はこの時代の生きた菩薩です。

 菩薩は慈悲の実践として他者の苦しみを引き受けていきます。苦しむ人々を放っていけないからです。しかしそうすることで、自ずと功徳というものが集まってきます。自分が身代わりになって苦しみ多き人々の苦しみを背負うことで、真理の功徳を積むことが出来るのです。

 これからアセンションに向かって、楽のカルマが先に消化され苦しみのカルマだけが残るという話を前回はしました。この苦しみのカルマばかりになる人の存在は、ただ苦しみを与えられそれに耐えるだけの魂ということではありません。重要な役目も果たしているのです。他に功徳を与え、自分自身も功徳を積んでいるのです。

 それは、菩薩が慈悲の実践をするための対象になるということです。菩薩は他者の苦しみを見て、その苦しみを引き受けたいと願うようになるわけですが、菩薩の前に苦しむ他者がいなければ、その菩薩は慈悲の実践が出来ません。よって、慈悲の実践をすることによる真理の功徳を積むことが出来ません。真理の功徳とは、自己の修行を進めるために必要なエネルギーですから、これらの功徳が不可欠なのです。 

 自分の周りにいる菩薩に功徳を積ませるという意味において、苦しんでいる人々は善業を行なっていることになります。したがって、そこに功徳が発生します。しかも、その功徳は菩薩の修行を助けるという、真理に対する最高の功徳です。自己のカルマの返りに苦しみつつも、大きな真理の功徳を積んでいることになるのです。

 アセンションまでの準備段階において、三十二の御魂と14万4千人の真人(まさびと)が真理を極めていくためには苦しみにまみえる他者の存在はなくてはならないものです。両者が依存し合って、ともに真理の世界に変えていくのです。

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 真我への道 「真我に至る」ということ

(2012/02/01)

 本当の私そして本当のあなたとはなんなのでしょうか。体?心?それとも魂、近いかもしれませんが正解ではありません。本当の自分とは真我です。私はこの本の中で心のそして魂のさらに奥深くに存在する真我の本当の姿をみなさんに知って頂こうと思っております。そこには本当の安らぎ、そして平安があります。

 人生において楽しいことや喜びは、すべての人が経験するものです。喜びや楽しみを味わい、そして苦しみを乗り越えていく、それこそ人生の在り方だと多くの方が考えているのではないでしょうか。そして誰もがそれぞれの人生の中でもっともっと幸せになりたいと望んでいます。そのために喜びや楽しみは多く、苦しみは少なくと思われる選択を積み重ねています。

 しかし、そういった心の働きは喜びや苦しみに対するとらわれを増大させてしまいます。そしてそういった喜びや苦しみにとらわれることは、実は人間として生きることの意義というものを見えなくさせてしまうのです。

 なぜ自分が人間として生まれ存在しているのか、それは日々の喜びや楽しみ、苦しみを超越したところで理解できるものです。もし、あなたが真剣に魂の存在の意義を求めるならば、目の前の苦しみや楽しみに捕われるべきではないでしょう。

 魂はなぜ存在するのか―それは本当の自分、真我の境地に到達するためです。始まりとてわからないほど遠い過去から魂が求め続けているものです。当然お金をいくら積もうと与えられる類のものではありません。たとえ苦しみや楽しみに捕われず人生のすべてを費やしその追求にあてても、真我の境地はなかなか理解できるものではありません。

  たとえば、魂を堕落させる悪しき三つの要素、三毒といわれるものが存在します。この三毒は私たちの心の深い部分に根差しており、通常の魂は三毒に導かれるままどんどん悪い方向に落ちてしまうのです。ですから、これを断ち切るだけでも大変なことです。人間に生まれた魂がその生涯を修行に投じ、自己の浄化に努めたとします。そして、この三毒から脱却できたとしても、真我の境地に到達するためには最低でも人間として七回生まれ変わり、より一層修行に専念しなくてはならないのです。真我に至る道はそれ程困難であり貴いものなのです。

 この世の現象は自己の心を投影したものです。そのような心の世界において重要なのは社会的に成功することでも巨万の富を築くことでもありません。生きている間、どんなことを繰り返し繰り返し行為するのか、またはどのような意識を反復するのか、どんな業(カルマ)を積んでいるのかが問題なのです。自己の欲望を超えて、あらゆる宗教を超えて真理というものを体得することがすべてなのです。ここでいう真理とは究極の真理であり、菩薩としての真理を指します。自己の修行がただ単なる自己の浄化のための修行であってはいけないのです。

 涅槃、つまりニルヴァーナの境地とは真我の境地のことです。真我はすべてのパワーの源として存在しています。その境地とは相対的二元世界に非ず、絶対的非二元の境地です。そこは内も外もない、明も暗もない、これらの要素を超越しているのです。

 真我の世界を体感してください。そこには生きる上でのすべての疑問や問題を解く鍵が隠されています。そしてきっとあなたの心の奥深くに存在するたくさんの宝物に気づくことでしょう。

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真我への道 修羅天と人間界はどちらが上位か

(2012/02/12)

UFO 人間の一番の特質である情、これを人間社会では尊びます。しかし真理の教えにおいてはこれを穢れとします。それは何故なのかといえば、情によって人は盲目になるからです。

 例えば自分の家族と、全くの他人との間に争いが生じたときに、人は情によって家族の味方をしてしまいます。たとえ身内の者に明らかな非があろうと、心情としては身内の人の立場を擁護してしまうでしょう。さらには身内の者の非を認めることすら出来ないということになります。このように、人は情によって現象をありのままに捉えることができない、真実が何たるか見えなくなるのです。これが人間界を象徴するアナハタ・チャクラ(胸)の穢れです。

 一方、人間よりひとつ上の世界である修羅天においてはどうでしょうか。修羅天は闘争本能が強く、特に自分より目上の者に対して闘争本能をむき出しにします。しかし、彼らは家族と赤の他人との二人が争っていても、人間のように情によって自分の家族の味方をすることはありません。自分の家族の肩をもって闘争するということはありません。両者の間に争いが生じたとしても、どちらが正しいかどちらが正しくないかを正確に判断します。そこに一切の私情は挟みません。

 彼らの闘争本能は、ただ単に自分より明晰である、自分より優れている者を打ち負かしたい、そのことのみを目的として働くのです。これが修羅天を示す、のどのヴィシュッダ・チャクラに生じる穢れです。修羅天にこのような闘争本能があるのは、その裏に他人から自分を理解して欲しい、認めて欲しいといった欲求が常時あるからなのです。

 欲界の各世界は、額のアージニャー・チャクラ以下のチャクラと対応しています。胸のアナハタ・チャクラは人間界に対応し、そのひとつ上にある、のどのアージニャー・チャクラは修羅天に対応しています。つまり修羅天は人間界より上位の世界とされています。これはチベット仏教の見解です。しかし日本の仏教では、修羅天は人間界より下位の世界であるとしています。この違いは、日本の仏教は「他人に危害を加えるという悪業」に重点を置いており、チベット仏教はあくまでも「一人の人間の心がどのような部分に捕らわれているか」ということに主眼を置いているからです。チベット仏教の見解からすれば、物事を歪めることなく相手と自分の力を正確に比べて判断しそれにより闘争に明け暮れるほうが、情によって物事を正しく見極めることが出来ないことより高等な捕らわれ(穢れ)であるとしているのです。

 このような二通りの見解は、もっと深いアーラヤ識のデータが存在しているために生じています。そのデータとは銀河系の中心から見て、修羅天の生存領域が人間の内と外に広がっているということです。この銀河系は、その中心に欲界の中で最も意識が高い帝釈天が存在し、そこから遠ざかるにつれ下位世界になるという構造をしています。つまり、修羅天の生存領域が我々の住む太陽系の外側にも内側にも存在しているということは、人間界の上位にも下位にも修羅天は存在しているということです。このアーラヤ識の根本データがチベット仏教的世界観と日本仏教的世界観を生んだのです。

 そして、人類の発する、良くない感情に基づく行為の中に三悪趣の世界は存在しています。この三悪趣の魂の意識は、それぞれに独自の幻影球体世界を持ち、独特な宇宙空間を作り出しています。

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真我への道 生存の目的とは何か

(2012/02/13)

 私たちはなぜ生まれてきたのでしょうか?何の為に生まれてきたのでしょうか?
真理の眼をもって見るならば、それは前生までに蓄積させたカルマを昇華させるためです。カルマを清算し、フラットの状態に戻すために魂は生まれてくるのです。これこそ、魂が生存する真の目的です。

 しかし、ひとつひとつの魂にはエゴがあり、そのエゴが自分が生まれてくる本来の目的を見えなくさせています。そして「自分はエゴを満たすために生まれてきたのだ」と、いつの間にか生の目的をすり替えてしまうのです。ここでいう「エゴを満たす」ということの核にあるのは「自分の存在を認めてほしい」という欲求です。この欲求を満たすために私たちは生まれ、生存の中にあっては「生きていたい」と欲求するのです。あるいは、エゴがより拡大し「自分は楽しむために生きている」と思いこんだ魂は、楽を貪り苦を忌み嫌いながら生きるのです。エゴを行使するために生きているともいえます。それによって、新たなカルマを蓄積しているということは言うまでもないでしょう。

 エゴは「自己の存在を認めてほしい」と思っているのですから、当然のことながら死を恐れます。自分の存在が消されるからです。存在の中心である肉体を失うことを、エゴは特に恐怖するのです。

 では、自殺はどうなんだと思う人もいるかもしれません。確かに自殺する人には生存欲求はありません。しかしエゴがないかと言えば、そうではありません。自殺はエゴの最たるものです。彼らは「あらゆる他者を完全に遠ざけたい」と願うのですが、それが出来ないために、逆説的な方法として「自分がこの世にいなければ良い」と考えるのです。

 人はエゴを行使するために生まれてきたのですが、まれにそうではない魂がいます。その魂たちは他者を愛する故に、慈悲を増大させんがためにこの世に生まれてきます。そういった魂は「菩薩」といわれます。菩薩にとって、この世での目的は自己のエゴを満足させることではなく、自己の慈悲を強め他者を救済することです。

 一方、自己のエゴを満たすために生まれてきた魂を「凡夫」といいます。これは世間一般に言われる、さげすむような意味合いはなく、単に「普通の人、一般の人」という意味です。また真理以外の教えなどを信じる人たちを「外道」と呼びます。凡夫と外道のどちらの人々も菩薩にとっては救済の対象なのです。

 アセンションを目前にひかえた今現在、待ち望まれる魂は、菩薩の中でも特に真人(まさびと)と呼ばれる人々です。真人とは真理を実践しエゴを極端に減少させることの出来る人のことです。文字通り、真の生きる目的を体現している人々です。彼らは、欲天の第二天界(帝釈天)にいる三十二の御魂が、人類を救うために人間界に降りてきたときに分裂し生じた魂なのです。(詳しくはこちら)

 

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真我への道 真我(1)

(2012/02/16)

 真我とは私たちの旅の目的地である。真我とは主体と客体が渾然一体となったものである。真我とは私たちの内的気づきである。真我とは私たちの社(やしろ)である。真我とは私たちを導き入れるものである。 真我とは太陽のような光そのものである。 真我とは本来の私たちそのものである。 真我とは純粋無欠の存在である。 真我は打ち寄せる波のように、その存在を私たちに知らしめる。 真我とは無償の愛である。

 真我とは二極の心素(しんそ)という鞘(さや)で覆われている。真我とは極限の意識である。真我は思索することもない。真我は淡々と正見解を持つ。真我は空と無を超越している。真我は時と場所という概念を超越している。真我はれっきとした領域として存在する。真我とは絶対の存在である。

 真我とは何ものにも変えがたい、すべてを包含する実体である。真我とは意識の拡大に由来する。真我とはあらゆるものに共鳴を起こす。 真我とは固有のものであり、全体を把握する。真我はこちらとあちらという概念で割り切れない。

 真我は燃えるような赤い眼を持つ。真我とは朝日のようなものである。真我は鼓動さえ持たない空間である。真我は私たちの胸の高鳴りと似ている。真我とは一瞬のきらめき。真我は三グナを内在させる。真我とは龍が持っている玉(ぎょく)である。真我は牙をもつ。真我は私たちの心臓に眠っている。真我とは亀の甲羅(こうら)にも例えられる。真我とは雨上がりの虹のように実体のないものにも見える。真我とは思いやりである。真我とは泥の中に埋もれた宝石のようなものである。真我とはどこまでも澄み切った大空である。

 真我は宇宙全体を包含する。真我とは硬い巌(いわお)のようなものである。真我とは渓谷を流れる水のようなものである。真我とは俗から離れた境地である。 真我とは不空成就の境地である。真我とは本当の私である。真我とは目覚めである。

 真我はこの領域とあの領域を自由に渡り歩く。真我とは幸いなる福田(ふくでん)である。真我とはサハスラーラと同一のものである。真我とはかつてない至福の時である。真我とは「全体」を意味する代名詞である。真我とはピラミッドの頂点である。真我とは人間としての概念が出来上がる前の存在である。真我とは引き金を引いたあとの弾丸のようなものである。真我とは空間を切り裂く刀のようである。真我とは割れる前の、陶製の壷(つぼ)のようなものである。真我とは泥を塗ったような存在でもある。

 真我は本来の自己をさらけ出す。

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