玉置宏千の世界観

修行法

 

真我への道 修行法の伝授について         

                                (2011/10/26)

 ほんの一端ではありますが、真理の法則についてみなさんにお話してきました。真理というものがどういったものであるのか、みなさんに少しでもお伝えできているのなら、私としても大変喜ばしいことです。

 お話をしていく中で、実際に何か修行してみたいとお思いになった方はいらっしゃるでしょうか。そのような思いを持っていただいた方のために、基本的な修行法を四つご用意しました。今後も、少しずつ実践的なことは、お伝えしていきたいと考えています。

 サイト上での掲載ではありますが、私玉置宏千とあなたという一対一の関係での「伝授」になります。ですので、これからお伝えします修行法を、第三者にあなたから直接教えるのは差し控えてください。もちろん、このサイトのことを誰かに教えるのは結構です。これからだんだん説明していきたいと思いますが、それはエネルギーの流れが変わってしまわないようにするためです。その点は、どうぞご留意ください。

上記の留意点を了承いただきましたら、自分を変えたいと思われている方や真理についてもっと深く知りたい方は、下の「修行法」をクリックしてください。

 

修 行 法

 

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真我への道 修行法の伝授と漏洩の違い 

(2012/01/10)

 指導者から伝授された修行法を弟子が第三者である他者に漏洩するということは何を意味するのでしょうか。

 まず、修行法というものがどういうものであるかということを説明しなくてはいけません。指導者から修行法を与えられた弟子はその行法を実践することにより、急速に自己の穢れを昇華することができます。修行法を実践することにより、指導者と弟子の間で非常に強くカルマの交換が生じるからです。その修行法が真理の法を伝えるものであるならば、真理の叡智が弟子の潜在意識に入ってきます。その分、指導者には弟子の持つ迷妄なる地獄のカルマが入っていくことになります。穢れの昇華というものは、このように自分より高い意識にある方とのカルマ交換によってのみ可能なのです。師が自分の穢れを引き受けてくれることによってのみ、弟子は穢れを昇華できるのです。弟子が一生懸命修行すればするほど、このカルマの交換は強く起こり穢れは昇華されます。

 弟子が修行法を第三者に漏洩するということは、弟子とその漏洩の相手である他者との間でカルマの交換が起こるということです。相手の地獄のカルマが移行し弟子にその地獄のカルマが現れたり、あるいはそのカルマが蓄積されます。その無智なる地獄の経験、迷妄地獄の経験はとてつもなく恐ろしく強烈です。大抵の人はその恐ろしさを真っ向から受け止めることができないでしょう。ですから、絶対に伝授された修行法は漏洩してはいけません。相手が家族や親しい友人であってもです。

 では指導者が、自分の師によって与えられた秘密の修行法を自分の弟子に伝授をした場合、漏洩ということに当たらないのでしょうか。弟子と第三者、指導者と弟子、両方ともカルマの交換が行われることは何も変わりません。教えた者に地獄のカルマが必ず移行します。違いは、指導者には初めから弟子の地獄のカルマを受け取る覚悟があるということです。弟子に代わって地獄の経験をするつもりで修行法の伝授や勧請(かんじょう)を施しているのです。指導者はその強い意志によって、現象に対して捕らわれない心によって難なく地獄の経験をすることができるのです。これが漏洩と伝授の違いです。

 やはり慈悲の太陽神の加護なくしてはすべて漏洩にあたると考えられますので、修行法を第三者に漏らすことは決してすべきではありません。

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真我への道 蓮華座について

                                         (2011/12/28)

修行の際、組める人は蓮華座(結跏趺坐)を組んでください。蓮華座が難しい人は簡単に片足だけを太ももに乗せる組み方(半跏趺坐)でも構いません。蓮華座は、自分の組みやすい方の足を下にしてください。足が途中で痛くなったら途中で左右の足を組み替えてください。

半跏趺坐

 

真我への道 蓮華座について(2)

                                         (2012/01/04)

 なぜ修行中、蓮華座を組んだ方がいいのかといいますと、それはエネルギーと関連しています。

アパーナ気という、足裏から下に向かって放出されるエネルギーがあります。蓮華座を組むと両方の足裏が天井を向きます。そうしますと、足裏から放出されるアパーナ気が頭のほうに向かうことになります。つまり、下方に向いていたアパーナ気が上昇のエネルギーに転ずるのです。そしてアパーナ気がクンダリーニ・エネルギーを上へ上へと押し上げるようになります。ですから修行中に蓮華座を組めば、より効率的にエネルギーが上昇するのです。

蓮華座とは別の座法ですが、シッダアサーナという座法があります。蓮華座と同じように両膝を曲げ、それぞれの踵(かかと)を会陰と恥骨において性器を挟むようにします。これは踵から出るアパーナ気を性器に連動させ、クンダリーニを上昇しやすくさせます。

次に難易度は高いのですが、両足裏を合わせ、その両足の踵を会陰に付けるようにする座法もあります。これも同じように、アパーナ気を会陰から上昇させクンダリーニを上昇させます。

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真我への道 無常 

                                         (2011/12/23)

 この人間界というものは、苦しみ多き世界です。想像してみてください。あなたが優しい家族の中で愛されて成長し、良い大学を出て良い仕事に恵まれ、素晴らしい恋人を得てその人と家庭を持ち、やがて可愛い子どもにも恵まれたとしましょう。この世の喜びを謳歌しています。しかし、その時こそ自分の心を見てください。果たして自分は家族に、仕事に、名誉に、幸福そのものに執着していないだろうか、と。いつの日か、自分は愛するものと必ず引き離される。その時、自分は苦しまないでいられるだろうか、と。

 生き別れになるのか、死によって引き裂かれるのか、それはわかりません。しかし、いずれにせよ自分が執着すればするほど、愛するものとの離別の苦しみは大きくなります。

 例えば、あなたが誰もが羨むもの、素晴らしいものを持っていると想像してみてください。それは豪華な家でしょうか、高価な車でしょうか、それとも高性能の機器、有名な美術品・骨董品、素晴らしい音を奏でる楽器、あなたが好きなものなら何でもいいのですが、それを所有しそれを眺めたり触れたりすることで、あなたは喜びと楽しみを十分に味わっているとしましょう。毎日磨いたりきれいにしたりメンテナンスを欠かさないで大切にしていたとしましょう。しかし、その時にこそ考えてみてください。今自分に喜びを与えてくれているものはいずれ壊れたり、色あせたり、傷ついたり、盗まれたりする。その時、自分はこの執着によって苦しむことになるのではないか、と。

あなたの愛する恋人、その人はスタイルも良く、顔も美しく、声も美しい。心優しく誰からも愛されるような性格であったとしましょう。友達に自慢できる、素晴らしい恋人であったとします。しかし、考えてみてください。果たして、その人の素晴らしさ・美しさは永久に続くものだろうか、と。男性も女性も年齢とともに容姿は色あせ、シミやシワができ髪の毛も薄くなります。若いころのスタイルは崩れ、肉が落ちギスギスになるかもしれませんし、おなかだけがぽっこり出るかもしれませんし、どんどん太ってしまうかもしれません。年齢を重ねなくとも、不慮の事故に遭って顔や身体に傷や火傷を負い、美しさを失うこともありえます。性格さえ変化するかもしれません。もしくは、もともとの性格に裏表があったけれど、それにあなたが気付かないだけだったのかもしれません。それでも、あなたは醜くなった恋人を以前と同じように愛し続けられるでしょうか。

 そんなことがなくても、その恋人に心変わりがないと言い切れるでしょうか。死の瞬間まで自分だけを愛してくれるなんて保証はどこにもありません。あなたは、裏切った恋人が自分以外の人間と愛し合う姿を直視できるでしょうか。逆に、あなたがより美しい人やふさわしい人に出会い、現在の恋人を疎ましく思うようになるかもしれません。

 どんなに素晴らしい家庭であっても同じです。家族と和気あいあいと楽しく暮らそうと、それを災害や事故・事件で一瞬にして失うかもしれません。そんなことがなくとも、家族の中で利害が相反すれば、家族であろうと相手を邪魔に思うかもしれません。それが骨肉の争いに発展しないと誰がいえましょうか。

 どんなに素晴らしいものであっても、あなたの心がそこから絶対離れないなんてことはありません。そのものに飽きたり、新しいものに目移りしたりします。そうなってしまえば、今まであなたに多くの喜びと満足をあたえていたものであっても、現在のあなたにとっては見劣りするものになり下がります。

素晴らしい経験、例えばあなたが今まで味わったことのないほど美味しい食べ物を食べたとしますね。こんなに美味しいものが世の中にあったのか!と思って、それを食べ続けたとしたら、そこに必ず執着が生じます。そして「もっと食べたい、もう一度食べたい」という思いが湧き上がります。これが渇愛です。状況が変化しその食べ物をもう二度と食べられないとしたら、あなたは渇愛によって苦しむことになります。

喜びの裏には、必ず苦しみがひそんでいます。私たちは喜びだけを純粋に味わうことはできません。なぜなら、この世界は変化し続けているからです。

あなたに幸福をもたらしているものがこの先ずっと変わらない、そしてあなたの心も変わらない、そうであれば私たちは苦しみを経験せずにいられるでしょう。しかし、現実には現象は刻一刻と変化し、全く同じ現象を経験することはありません。この世が変化する限り、私たちは苦しみから逃れることができません。これを仏教では、無常といいます。

 私たちは生まれてから「煩悩は喜びである」「喜びを追求することで幸せが得られるのだ」という情報ばかりに接してきました。この情報を周りからどんどん取り込み、煩悩を肯定する観念を構築し潜在意識を穢してきました。しかし、真理は「煩悩は苦しみそのものであり、煩悩的な喜びを手放すことで本当の自由と幸福を得る」ということを教えています。

自分のエゴを全うしようと欲望を追求する限り、人は苦しみから逃れることは出来ません。喜びを求めているつもりが、実際には苦しみを引き寄せているのです。

 煩悩を断ち切ることはその時は苦しいでしょうが、それにより潜在する煩悩も減少していくので将来自分が経験する苦しみも少なくなります。それはちょうど、喜びを追求し煩悩を増大させ、結局自己の苦しみを増大させる、苦しいがゆえにまた喜びを求めるという悪循環の真逆の道です。

あなたが自分の苦しみに集中すると、その意識があなたの周囲に連動します。しかし、逆に自己の苦しみを乗り越え、他者の苦しみを引き受けたいという意識であれば、その意識が周囲の人々に連動します。あなたの周りの家族や友人、同僚の意識を慈悲の意識に近づけることができるのです。そのようにして、日本中が慈悲の意識になればよいと思います。それがこの日本を浄土に変えるということなのです。

 

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真我への道 修行のプロセス、六波羅蜜とは  

                                         (2011/11/8)

 

基本的な実践についてお話していきましょう。六波羅蜜という言葉は、ご存知でしょうか。 “波羅蜜”とは、サンスクリット語の“パーラミター(Paramita)”「彼岸」の漢訳です。日本では「お彼岸」は死後世界ぐらいの意味で使われていますが、本来はお釈迦様が最終的に到達された涅槃、つまりニルヴァーナという最高の境地です。すべての魂が何度も転生を繰り返しやっとたどり着く、真の故郷ともいうべき場所です。波羅蜜は、この彼岸という「最高の境地に至るための修行法」という意味です。お釈迦様が説いた六波羅蜜とは、その「六つの修行法」であり修行体系が六つのプロセスから成り立っていることを示しています。この六つのプロセス通りに自己の修行を進めていけば、間違いなく高い世界に行けるという筋道をお釈迦様は確立されたのです。


六波羅蜜

  1. 布施(ふせ)
  2. 持戒(じかい)
  3. 忍辱(にんにく)
  4. 精進(しょうじん)
  5. 禅定(ぜんじょう)
  6. 智慧(ちえ)

 

 では、六波羅蜜の一段階目である布施波羅蜜からご説明しようと思います。最初の布施ですが、初めの一歩からハードルが高い、難しい内容かと思います。布施には、財施・法施・無畏施・奉仕の四つの種類があります。

 財施とは自分の財産(お金・品物)を差し出すことです。寄付や義援金なども含まれます。困っている人に対して布施をすると、同じように自分も困窮している時には誰かに援助してもらえるというカルマを積みます。

 法施とは、真理の法をまだ知らない人や自分より理解が浅い人に、真理の法を教え伝えることです。これによって、自分自身もさらにより深い真理の法則を理解できるようになります。

 無畏施は、恐れ迷う人々に「恐れることはない」ということを教え、安心とやすらぎを与えることです。真理に出会いその実践を極めていく人は自分自身でそのよう恐れを克服していくわけですから、無畏施は一般の人に対してだけ行われます。

 奉仕とは、文字通り自分の身体や時間を使って奉仕をすることです。当然、ボランティアも含まれます。また、本式のヨガにはバクティ・ヨガ(奉仕行)というものがあります。呼吸法や瞑想、アーサナをするわけでもなく、ひたすら師への奉仕に専念します。そうすることで、おのれを捨て精神的な飛躍を果たします。

 一般の人に対して布施や奉仕を行なうことは、善業のひとつと数えられます。真理に対して布施や奉仕を行なうことは、功徳となります。功徳とは、修行を進める原動力です。
これらの布施に共通していえることは、相手が困難に直面している時ほど、布施をすれば大きな善業になります。また、自分が困っている時にこそ無理して布施をすることで、より大きな善業につながります。このように布施による善業は、その背景にある人の心によって大きく変化します。しかし、それ以上により大きな、布施の効果が存在します。

 それは真理を掲げる個人や団体に布施をすることです。その効果は目に見えませんが多大なものです。功徳の項目のところで詳しい説明をしましたが、真理をひとりの人が実践すれば、その周りの多くの魂が利益を得ることが出来ます。ですから、真理の実践者ひとりに布施をしても、その背後にいる、多くの魂がその恩恵を受けるので、布施の効果である功徳は何倍、何十倍、何百倍にもふくらむのです。その功徳によって自己の世俗的な願望をかなえることも、真理の修行を進めることも可能です。布施の効能がどちらに作用するのかは、結局のところ布施をする人の心がどこを向いているかによって変わってくるのです。

 真理に対する布施をすれば多大な功徳を積む以外に、相手との縁を作ることになります。真理と縁を作り、実際に自分が真理を探究していくためのエネルギーを蓄えさせてくれるのです。例えば真言(しんごん)を唱えるだけでも自己の浄化が進むため、そのための功徳が必要になって来ます。効果的な修行であればある程、功徳の消耗が激しいのです。ですから、修行をして自己の穢れを昇華する一方で、布施や慈愛の思念を怠らないようにして、なんとしても功徳は積み続けなくてはいけません。功徳が底をついてしまえば、真理をもう信じられなくなってしまうからです。

 また、布施という行為自体が自分の貪欲を削ぎ落すという意味があり、自己の煩悩を縮小させてくれます。自己の煩悩(欲望)を満足させるための原動力であるお金を布施すれば、当然煩悩は満たされることなく、いずれ減退していきます。このように、布施は大切な修行の第一歩なのです。

 さらに驚くべきことに、もしあなたが真理の実践をする人に布施をした場合、相手のエネルギーが連動してきて、あなたにそのエネルギーが入ってきます。相手が浄化されていればいるほど、あなたには穢れなきエネルギーが入って来ます。逆に、相手には布施をしたあなたのエネルギーが入って来ます。布施に限らす相手と関わることで、こういったエネルギーの交換は必ず起こります。私たちは実はそういった世界に生きているのです。特に布施のような、見返りをもとめず自分の大切なお金やものを差し出すということは、強烈にエネルギーの交換が起こります。よくいいますね、ただより怖いものはないと。本当にその通りなのです。

 実は布施をする人と布施を受け取る人を比べたなら、布施をする人のメリットの方がずっと大きいのです。しかし、目に見えない真理の効能に対して大切なお金を差し出すというのは誰しも二の足を踏むことです。真理の実践を始めるのに、そこが非常に難しいハードルだなあと感じています。

 それでも実際に布施をしたいという方は、先程申し上げた縁・功徳・エネルギーという三つの理由から、お布施する相手はよく見極めたほうがよいでしょう。あなたの持っている願望、特に世俗的・自利的願望を増大させてしまうような団体や個人にお布施することは、やはりお勧めできません。なぜなら、真理というものは、そういった願望への心の捕らわれを外しエゴを捨てたところに真の幸福があると教え導くものだからです。それに反するような、布施の見返りとして世俗的なご利益を謳うようなことには、私はあまり感心いたしません。

 私自身は、お布施はいただいておりません。今後もその予定はございません。お布施をいただいても、私は仏欲や性欲を増大させることもありませんし、贅沢をするわけでもありません。ひたすら、皆さんに法則を説くだけです。すべての僧侶がそのようであってくれば、彼らにお布施をした人も真理に触れられるのにと思うと、残念でたまりません。

 そうはいっても、真言を唱えるような修行をするだけでもかなりの功徳が擦り減ります。やはり、お布施をしたいという方がいましたら、このWEBサイトの存在を誰かに教えてあげてください。それでも物足りないと思われる方は、拙著『真我の料理教室』を購入していただき、お友達でも誰でも渡してあげてください。この二つは、法施として大きな功徳になりますから。
法施が出来る人も、出来ない人も“菩薩の発願真言”と“回向”を、心をこめて唱えてください。この二つを唱えることは、あなたの功徳となります。

 

 二番目は持戒波羅蜜です。これは戒を授けられるということです。
人間というのは、限りなく自由な存在です。カルマの法則や功徳というものに制約があったとしても、それを感知しなければ「そんなもの存在しない」と無視して生きることもできます。また、それらを活用して生きていくこともできるでしょう。自己責任において「どのように生きるか」は個人にすべて任されています。それですべてがうまくいけばいいのですが、残念なことに人間には煩悩(欲望)というものが常につきまとっています。自由に生きることで煩悩を雪だるま式に増大させ、それはどこまでも続きます。煩悩のままに生きている間は苦しみはさほど感じないでしょうが、いざそのカルマが返って来た時は必ず苦しみを経験させられます。結局、煩悩というものは自分の首を絞めるものに違いはありません。そして、煩悩を満足させることで、人は自分の穢れを昇華させるためのエネルギーをロスすることを余儀なくされています。つまり、戒によってその自由を制約しなければ、人間はエネルギーを上昇させることが難しいものなのです。戒を与えられて、ようやく人は自分のエネルギーの保全が出来るようになるのです。

 保全されたエネルギーを使って、クンダリーニの覚醒、そしてその後、自分が過去から連綿と積み続けた穢れの昇華が始まります。その際も、やはり戒を遵守することで強いエネルギーを保ち、効率的に穢れの昇華を行なうことが出来ます。逆に、戒が守れないようでは自己の穢れの昇華はあり得ないですし、意識の上昇も見込めません。

 そして、戒を守ること自体が貪り・怒り・無智から離れ、新たな悪業を積まないということです。二つ目のプロセス、持戒波羅蜜によって過去の穢れを浄化し、新たな悪業を積まないようにすることで、私たちの身体は急速に浄化されていくことになります。

 このように、クンダリーニ覚醒とその後の昇華、そして新たな穢れの発生を抑えるためには、持戒は欠かすことができません。非常に大切なプロセスです。最初は少しずつでもいいので、戒を守っていけるようにしていきましょう。

 あなたの心をいつも持戒に依存させることのできるように、持戒から心を離さないようにするために薬物やアルコール類・タバコはなるべく摂取しないようにした方がいいでしょう。穢れが増大されエネルギーをロスし易くさせるので、戒を守れなくなってしまいがちです。ですので、最初はなるべく控えた方が、エネルギーを上昇させるためにはよいのです。最終的には、必要な時以外は完全に止めることを目標としましょう。

 

 次は、3番目の忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)です。忍辱とは、耐え忍ぶということです。修行に取り組めば、眠気や怠惰さ・貪りなどの自己の穢れの猛襲に耐えねばなりません。自分の心の奥底に眠る穢れをあぶり出して、やっと穢れの浄化につながるのです。
また、持戒をかたく守ろうとすればするほど、真理を知らない一般の人々や、真理を阻害しようとする人たちによって阻害されることもあると思います。それに耐えて、真理の実践を続けていくことも忍辱に含まれます。

 

 4番目は、精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)です。精進とは、一心不乱に修行に対して奮闘努力することです。

 

 5番目は禅定波羅蜜といい、瞑想修行のことです。意識の穢れが取り除かれると雑念がなくなり、深い瞑想に入ることが出来るようになります。そして瞑想が極まってくると、三昧という深い瞑想状態に至ります。その三昧世界では、あらゆる世界を経験することになります。

 

 最後に、6番目の智慧波羅蜜(ちえはらみつ)についてご説明いたします。ここでいう智慧とは人間の頭脳を超えた、もっと高い意識で現象を見ることのできる、考えることの出来る智慧を指します。三昧に入ってすべての世界を経験することでこの智慧が私たちを素晴らしい解脱、悟りに導くのです。最終的には、このような智慧を身に付けて、自己の修行は完成されるのです。

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真我への道 修行のプロセス、十戒とは  

                                         (2011/11/14)

前回は六波羅蜜についてお話しました。今回は戒の具体的な内容についてお話していこうと思います。仏教的な十戒、十の戒めについてです。これは、キリスト教・ユダヤ教のモーゼの十戒と共通している部分があります。日々の暮らしの戒についてはキリスト教にも仏教と相通じる部分があります。

  また、仏教においては身体を使った実際の行動と、口から出る言葉、意識これらを分けて考え、身・口・意とそれぞれ言い表わしています。私たちは身の行為ばかりが重要であるかのように感じていますが、心のひとつひとつの動きも言葉もそれぞれが重要です。ですから、戒についても身・口・意の三つに分けて考えられています。

 

十戒

『行為における戒』(身業)

  1. 不殺生(ふせっしょう)  生きものを殺さないで、慈悲の念を持って接します。
  2. 不偸盗(ふちゅうとう)  あらゆる盗みから離れます。
  3. 不邪淫(ふじゃいん)  よこしまな性的関係から離れます。

『言葉における戒』(口業)

  1. 不妄語(ふもうご)  嘘をつきません。
  2. 不綺語(ふきご)  言葉を吟味(ぎんみ)して、意味をなさない言葉、無用な言葉を発しません。
  3. 不悪口(ふあっく)  悪口、暴力的な言葉を用いません。
  4. 不両舌(ふりょうぜつ)  第三者に他者の悪口など、仲たがいさせることを言いません 。

『心における戒』(意業)

  1. 不慳貪(ふけんどん)  貪りから離れます
  2. 不瞋恚(ふしんに)  瞋りから離れます
  3. 不邪見(ふじゃけん)  真理を否定しません。

 

 まずは「不殺生」ですが、これは生き物を殺さないということです。食べるためであろうと生き物を殺してはいけません。もちろん狩猟や釣りなどの趣味で生き物を殺してはいけません。戦争をしてはいけません、いじめをなしてはいけません、もちろん、殺人をしてはいけません。たとえ蚊やハエであろうと、それを殺す事は殺生になります。いくら害虫だからといって「邪魔、殺して当り前」という思いは、強い嫌悪の表れです。蚊が皮膚を刺していれば、反射的にたたきつぶしてしまいます。「蚊は殺して当り前」という思いが染みついているからです。この嫌悪は自分の冷淡さを増大させます。蚊にたいして腹が立つというのも、嫌悪を表わしています。 蚊であろうとハエであろうと、たとえ刺されようとも彼らを許さなくてはなりません。

 どんなに小さな生きものでさえ殺生することは、自分の排他的な心を増大させ、小さな生き物から徐々に大きな生き物の殺生へとエスカレートしていきます。ですから、どんなに小さな命でも大切にする心は非常に大切なことです。

  しかし、職業柄、どうしても魚や動物、虫を殺さなくてはいけない人もいるでしょう。 漁業・農業・食肉業に従事する方たちは、不殺生戒に対してどのようにしたらいいのでしょうか。 まずは、本当に必要最低限のものしか殺生しないように努めることです。いかに合法的であろうと、社会的に認められていようと、自分の殺生のカルマは必ず自分自身に返ってくるということを理解しなくてはなりません。人間以外の動物や虫に生まれ変わって人間から 殺される経験をするのだということを覚悟しなければなりません。このような覚悟があれば必然的に殺生も少なくなっていきます。

  そして、どうしても殺生しなくてはならない時には、その生き物に対して強い慈悲の念を持ってください。殺されることの苦しみをすべて自分が引き受けるんだ、自分が代わって苦しもうという心が大切です。その心があれば、自分が殺される立場になった時でさえ、その苦痛は軽減されるのです。 地球規模の意識変革(アセンション)の時代は、もうすぐそこです。この意識変革を果たすためには、無用な殺生をするようではいけません。無用な殺生からは、ただちに離れてください。生き物を殺さずに慈しむということを心がけてください。

  「不偸盗」とは「盗んではならない」という意味です。黙って人のものを借りることも偸盗に含まれています。これはかなり大変なことかもしれませんが、無断で他者のものを借用する事でいさかいが生じるかもしれないからです。 他者のものを盗むことは自己の盗まれるというカルマが生じるだけではなく、盗むことにより自己の貪欲のカルマがどんどんと増大してしまいます。このカルマを変えるためには、まず盗みから離れ、他者に自分の大切なものを施(ほどこ)すことを実践してみましょう。この実践によって、いつしか心は貪りから離れていき、心はどんどんと穏やかになって行きます。物欲も徐々になくなっていくでしょう。そして、逆に自分が誰かに盗まれたとしてもそれほど強い苦しみを味わうことはなくなります。

  「不邪淫」とは、配偶者以外との性的関係、配偶者のいる異性との性的関係を離れ、そして愛のない遊び優位な性的関係からも離れるということです。

  「不妄語」とは、嘘や曖昧なことを言わないという意味です。これらは、自己の周りに化粧を施し、事実をきれいに見せ物事を隠ぺいしようとすることです。妄語を重ねていくならば、化粧越しにしか対象を見ることが出来ないため、周りの事実が正しく映し出されなくなってしまいます。ですから、正しい言葉を語りましょう。

  「不綺語」は、意味を為さない言葉、不必要な言葉を離れることです。冗談も不必要な言葉に含まれます。このような不必要な言葉ばかりをしゃべることによって、自分の周囲に真理とはかけ離れた、不必要なものばかりが集まって来てしまいます。その場に応じて、適切な言葉を使うようにしましょう。

 「不悪口」とは汚い言葉や他者の悪口を言うことですが、たとえ事実であろうと、他者をおとしめるような内容を第三者に伝えることは避けるべきでしょう。

  「不両舌」とは、「あっちではああ言い、こっちではこう言う」といった、他者同士の仲を裂くような言葉を話さないということです。他者同士が仲良くなるようなことを話すように努めましょう。

 「不慳貪」とは、心による貪りから離れることです。心の中で「あれが欲しい、あれもしたい」など思いをめぐらすことも、厳密に言えば心で貪っているということです。

「不瞋恚」は、すべての怒りの感情から離れることです。

「不邪見」は、真理を否定しないことです。

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真我への道 殺生食は控えなくてはいけない

                                         (2011/11/21)

  先日、十戒について皆さんにお話しました。その時の不殺生戒について、もう少し深くお話しようと思います。不殺生とは「生きものを殺してはいけませんよ、いじめてはいけませんよ」という意味です。では、なぜ殺してはいけないのでしょうか。

 端的に言ってしまえば、たとえ小さな虫でも、生きものを殺すことは殺生のカルマを積むことになるからです。殺生のカルマは、必ず自分の苦しみとして返って来ます。小さな虫の一匹や二匹殺したってどういうこともないだろう、私たちはそう思いがちです。しかし虫一匹、一匹にも命があり、自分に与えられた命を精一杯生きています。人間とは違っても、それぞれに痛みや恐怖を感じています。その命を絶つことは殺生のカルマとなり、必ずあなたに地獄の苦しみをもたらします。その時に後悔しても、許しを乞いても、助けを求めてももう遅いのです。良いことも悪いことも、自分の為したことの結果は必ず自分が受けなくてはならないのです。

  今まで私たちは、生きるために、食べるために、快適な生活を守るために、楽しみのために一体どのくらいの生きものの命を奪ってきたことでしょうか。

 新鮮な魚介類を好む日本人ですが、エビや魚の踊り食いや魚の活け造りなどは殺生そのものです。そのカルマは生きたまま喰われる恐怖をもたらします。また、アサリやシジミなどは、ほとんどが生きたまま売っています。このような貝類は家庭で手軽に調理できますが、当然殺生になります。生きたまま焼かれる苦しみを貝は味わっているのです。その貝や魚の断末魔がこもった料理を、あなたは美味しいといって食べているのです。

 また、うなぎの専門店などでは自分が注文してから、いけすから生きているうなぎを出してさばき始めますね。実際にうなぎを殺したのは調理人ですが、注文した人間も殺生のカルマを積んでいます。自分のために殺されたうなぎの苦しみを経験させられる、私はそのことを知るようなってから、もううなぎ屋には行けなくなりました。

 東南アジアや中国を旅行すれば、料理店でお客さんが注文してから裏で鶏や子ブタを締めるなんて光景はよくあることです。知らずに注文しようが、それは例外なく自分のカルマになります。

  レストランでアサリのスパゲッティを注文しそれを食べると、私の場合しばらくすると顔が異常にほてってきます。これは、浄化の修行が進んでいる人なら誰しも経験していることでしょう。浄化された身体に急激に強い殺生の穢れが入って来たために、全身の気の管であるナーディーがいっぺんに詰まります。それを強い昇華のエネルギーによってサハスラーラ・チャクラに向けて上昇させるのです。その時、穢れを焼くように身体が異様に熱くなります。これをトゥモといいます。このトゥモは、穢れを焼き切るときに発生する熱だとお考えいただければいいかと思います。

 浄化の修行をしていない人は、いくらアサリを食べてもこのような経験をすることはありません。しかし、何も感じなくとも間違いなく殺生のカルマは積んでいます。浄化されていないために、自分がアサリの料理を注文しようが実際に自分でそれを料理しようが、大きな殺生の穢れが自分に入ってくることは分かりません。それが悪いことだとも思わず、殺生を繰り返します。気がついた時は、既に時遅しということになってしまうのです。これは何も殺生に限ったことではありません。煩悩的な行いは、全部穢れとなって自分の身に入って来ます。浄化が進めば進むほど、それがはっきり分かるようになり、それを浄化しようという働きも大きくなります。トゥモもより激しい熱として感じられるようになるでしょう。

 修行が進めば、あなたもトゥモを経験することになるでしょう。その時には、やはり自分が今まで何気なく行ってきたことの恐ろしさを知るようになるはずです。実は世界はこのような法則のもとで動いているのです。それでも、あなたは無用な殺生を繰り返すことができますか。

鯛の活け造  自分で外食したらメニューは選ぶことが出来ますが、どうしても欠席出来ない宴席の料理に活け造りのお刺身やアワビや生きた白魚が出てきたら、どうしたらいいでしょう。あなたのお膳にあるお刺身や白魚には手を付けない方がいいのでしょうか。

 あなたが食べなくとも、その魚たちはまず生き延びることは出来ないでしょう。あなたのために殺され料理されたという事実は、たとえあなたが食べなくても変わりません。そういう時は、慈悲の意識をもってそれらを食べるべきです。そして、その料理を味わうのではなく、その魚たちの苦しみに対して申し訳ないという気持ちと、殺された魚たちの苦しみを引き受けるんだという思いに集中しなくてはいけません。

 なぜそのような気持ちを持つ必要があるのか、それはここではごく簡単に説明させていただきます。詳しくは、また後で説明いたします。人は、死後その人が生前に行ったことのすべてを逆転の立場で経験することになっています。逆転の立場とは、死後自分の意識は生前の自分が対応した他者ひとりひとりとなって、他者の経験をするということです。例えば、自分がA君とけんかしてA君を殴ったら、死後は当時のA君になって生前の自分から殴られる経験をするようになっています。このような仕組みは何のためにあるのかというと、生前の自分の為したことを客観的に経験し理解するためです。

 殺生の話に戻りますが、やむをえない事情により殺生する時は、その殺されるものの苦しみを引き受けることによって死後自分が経験させられる逆転の経験がずっと耐えやすいものには変化します。憎しみを込めて殺生するのと慈悲をもって殺生するのでは、やはり大きく違います。慈悲の思いを持たずして先程までは生きていたような魚や貝を食べれば、自分が死んだ後、その殺された魚たちの苦しみを経験する時により一層苦しむことになるでしょう。ですから、慈悲を思うことは非常に大切なのです。そして、苦しい逆転の経験をしないためにも、一日も早く無用な殺生から離れるようにしましょう。

 

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真我への道 スーパーの野菜を切るだけでも殺生

 料理を作るとき、野菜に包丁を入れますね。人参を切ったり、大根を切ったり、キャベツを刻んだり。

 すると、どうでしょう。いきなり下半身、特に膝から下が厚ぼったくなるような感覚に襲われ、足の裏が真っ赤になることがあります。これは、野菜を切ることでアパーナ気という下向きのエネルギーが急速に増大し、血流を足元に押し下げているためです。このアパーナ気は、人の意識を低下させてしまいます。足は重くなり、身体も重くなり自己の修行は計り知れなく遅れてしまいます。

 もちろん、これはかなり修行が進んだ人に限って起こる現象です。普通の人は、そんなことはありませんよね。

 この現象が教えてくれることは、お店で買ってきた野菜を切るだけで殺生の一端となってしまうということです。つまり、殺生の業(カルマ)を積んでしまうことになります。これは修行している人にも、修行をしていない普通の人にも当てはまります。でも、私たちはこの世界に生きている限り、何らかの食物を摂取し続けなくてはなりません。つまり、殺生の業(カルマ)から逃れられないということです。

 野菜にも命があります。そして植物には、それぞれその成長を見守る植物の精がついています。殺生の業(カルマ)を積むということは、その生命を奪われる苦しみをいつか自分も経験させられるということです。

 野菜などを調理する時に大切なのは、彼らの生命を哀れみ、その苦しみを引き受けたいと思うことが必要です。それこそが慈悲の実践です。私たちに出来るのは、慈悲を思うことだけです。しかし食事の準備のような毎日の暮らしの中でも、このような慈悲の思念を持ち続けることが出来れば、慈悲の思いもいつしか本物になります。苦しみ自体にとても強くなります。

そして、その時は本当に他者の苦しみを肩代わりできるようになるはずです。

 

真我への道 功徳の原理

                                          (2011/10/24)

 功徳とは、「徳が高い」だとか「徳がある」だとかいう時の徳と同じものです。この功徳というものは実際に存在しています。それどころか、私たちはこの功徳の法則に実は支配されているのです。

 例えば、何をやっても上手くいく人、なぜか幸運ばかり付いてまわる人が世の中にはいますね。「なんで、この人はこんなにも恵まれているんだろうか。何が違うんだ」と思ったことはありませんか。その人は現世的な功徳を持っているために、そのような恵まれた現象が生じるのです。

 その逆に何をやっても上手くいかない人、不運にばかり見舞われる人、そんな人もいるものです。その人は現世的な功徳が足りないのです。その人がいくら頑張っても、これは乗り越えられないものです。さらにいえば努力することにすら、それだけの集中力があるという意味で功徳が必要なのです。ここまでいえば、功徳というものが何なのか大体お分かりになったでしょう。功徳とは物事を自分の思い通りに進めるためのエネルギーです。

 この功徳というものは、どのようにしたら身に着くのでしょうか。こんなに素晴らしいものならば、誰もが功徳をどんどん積みたいと思うことでしょう。それは、実はとても簡単なことです。自分以外の誰かに良いことをするのです。その人が喜んでもらえるようなことをするのです。これを善業といいます。善業をおこなう際には見返りを求めてはいけません。そこで代償を得ようとしたら、例えばお礼をもらったり優遇してもらったりしたら、功徳にはなりません。無償で誰かのために動くことができたのなら、功徳は自然に集まってきます。

 功徳について、もう少し考えてみてください。例えば、あなたの前にひとりの乞食とひとりの托鉢僧がいたとしましょう。その時あなたはいくばくかのお金を持っていたとしましょう。どちらかにあげるとする場合、どちらにあげれば、あなたのより大きな功徳になるでしょうか。

 いかにも食べ物も満足にとれていないような痩せた乞食の方でしょうか。いいえ、違います。その托鉢僧が本物の真理の実践者であるなら、托鉢僧に布施(僧侶にお金や品物を与えることです)することで得られる功徳は、乞食に布施する功徳の何倍、何十倍、何百倍にもなります。

 両者の違いは一体なんなのでしょうか。それは、真理の実践者に1000円でも布施をして、その1000円で真理の実践をする人が一日を暮らしたとします。その一日でその人が何をするのかといえば、慈悲に代表される四無量心の実践です。どれほど多くの魂がその恩恵を受けられるか。

 真理とは煩悩を減少させるものです。生きている間に煩悩に流され楽を求めても、楽の裏には苦しみが必ず存在していることを教えます。それを理解しても真理の実践によって煩悩から離れなければ、結局苦しみは増大します。生存の域を超えて、すべての魂を絶対世界であるニルヴァーナに導くために真理は存在しているのです。真理のバイブレーションは四無量心実践している本人のみならず、その周囲の人々に波及します。煩悩を減少させていく傾向になるのです。真理の実践者が単に瞑想を行なうことだけでもその場所の浄化が起こります。その場所固有の穢れというべきものが昇華されるのです。それほど真理というものは偉大であり、真理を実践している人とそうでない人の間には開きがあります。

 普通の人、つまり真理の実践者ではない人に布施しても、その人個人が恩恵を受けるだけです。多くても、その人の家族ぐらいのものです。真理の実践者への布施と根本的に違うのです。

 もちろん、これらのことは真理をしっかり実践している求道者にのみ当てはまることです。普通の人とさして変わらないような生活を送っているお坊さんやどこかの教祖ではいけません。同じような真理の功徳はとても望めないでしょう。

 真理の実践者に対して善業を行なうことは、真理の功徳を積むのと同時に、真理との縁を作ることになります。最初はわずかな真理との縁ですが、それをたどって真理の功徳を積みながら縁を強くし、すべての魂はニルヴァーナに向かっていくのです。ですから、本物の真理を掲げる人のために無償で善い行いをすることは非常に貴重なのです。

 普通の人に対して善き行いをする場合と、真理の実践者に対して善き行いをする場合は得られる功徳の量も違いますが、その質も同じではありません。功徳にもアーカシックレコードと同じように、真理と世俗という二つの面があります。究極の真理に向かってまい進していくためにも功徳のエネルギーが必要です。それとは別に、世の中を上手にやっていくための世俗的な功徳のエネルギーもあります。先程の上手くいく人いかない人は、こちらの世俗的な功徳の話です。

 普通の人に対して善業を行なえば、世俗の徳を積むことが出来ます。この世俗の徳は現世的な幸福しかもたらしません。真理の実践のためには使えないのです。一方、真理の実践者に対して善き行いをすれば、真理の功徳を積むことが出来ます。真理との縁によって魂は真理と巡り会い、この真理の功徳によって真理の実践を進めていくのです。真理の功徳は、実は世俗の功徳にも転用できます。つまり、その気になれば真理の功徳を世俗的な幸福を購うために使うこともできるのです。自分がこの世での幸福を求めるなら、功徳がそちらに流れ幸福をつかむことが出来ます。しかし、世俗の功徳は世俗のためだけしか使えません。世俗の功徳がいくらあっても、真理の功徳がなければ真理の実践は出来ないのです。

 真理の功徳をどのように使うかは、結局自分の意識がどちらに向いているのかということにつきるでしょう。自分という人間は究極の真理を極めんとするのか、この世の幸福を求めるのか、その二つに大別されます。私たちは自分のお金を何に使うのか選べます。同じように自分の功徳を何に使うのか、無意識に選択しているのです。人間は自由な存在です。どちらを選ぶも個人の自由意思なのです。ただ、功徳の使い方を決めるには、この世の幸福はすべて幻影であることと、幸福の裏には苦しみが存在するのだということを念頭に置いておかなくてはいけません。

 また真理の功徳が足らなければ、真理の実践を始めても修行を進めることが出来ず挫折してしまいます。功徳の法則は非常にシビアなのです。功徳をお金に例えるなら、金の切れ目が縁の切れ目です。真理から離れてしまうのです。一度真理から離れてしまえば、そこからまた真理の流れに入ることは非常に困難です。よって、エネルギー切れにならないように真理の実践をしながら、常に功徳を積み続けなければならないのです。

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真我への道 アセンション、真理の世界に向かうための功徳

 真理の実践者の中で、特にすべての人々を救うために真理の修行に心身を捧げた魂を、菩薩と呼びます。菩薩は自己の修行の完成よりも、すべての魂を救うことを目的としています。三十二の御魂とそれに続く14万4千人はこの時代の生きた菩薩です。

 菩薩は慈悲の実践として他者の苦しみを引き受けていきます。苦しむ人々を放っていけないからです。しかしそうすることで、自ずと功徳というものが集まってきます。自分が身代わりになって苦しみ多き人々の苦しみを背負うことで、真理の功徳を積むことが出来るのです。

 これからアセンションに向かって、楽のカルマが先に消化され苦しみのカルマだけが残るという話を前回はしました。この苦しみのカルマばかりになる人の存在は、ただ苦しみを与えられそれに耐えるだけの魂ということではありません。重要な役目も果たしているのです。他に功徳を与え、自分自身も功徳を積んでいるのです。

 それは、菩薩が慈悲の実践をするための対象になるということです。菩薩は他者の苦しみを見て、その苦しみを引き受けたいと願うようになるわけですが、菩薩の前に苦しむ他者がいなければ、その菩薩は慈悲の実践が出来ません。よって、慈悲の実践をすることによる真理の功徳を積むことが出来ません。真理の功徳とは、自己の修行を進めるために必要なエネルギーですから、これらの功徳が不可欠なのです。 

 自分の周りにいる菩薩に功徳を積ませるという意味において、苦しんでいる人々は善業を行なっていることになります。したがって、そこに功徳が発生します。しかも、その功徳は菩薩の修行を助けるという、真理に対する最高の功徳です。自己のカルマの返りに苦しみつつも、大きな真理の功徳を積んでいることになるのです。

 アセンションまでの準備段階において、三十二の御魂と14万4千人の真人(まさびと)が真理を極めていくためには苦しみにまみえる他者の存在はなくてはならないものです。両者が依存し合って、ともに真理の世界に変えていくのです。

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真我への道 功徳のちから

(2012/01/13)

以前、功徳というエネルギーが存在し、それを使って人生を思い通りに繰り広げられるということを話しました。しかし功徳の力はそれだけではありません。なぜなら、人生が思い通りに行かない人、不幸な人は功徳が全然ないというわけではないからです。その人も自分の功徳を持っているし、しっかり使っています。実は「生きる」ただそれだけで功徳はどんどん消費されているのです。

 例えば、無謀な運転をしても全く事故に遭わない人がいますね。そういう人は思いっきりスピードを出そうが、よそ見運転をしようが、安全確認を怠ろううが、事故を起こしません。その人は「自分は運転がうまいから」と思っているかもしれませんが、そうではありません。知らないうちに自分の功徳を思いっきり使って、事故を避けているだけなのです。そのまま功徳を浪費し使い果たせば、事故を引き起こすことになるでしょう。

例えば、歩道を歩いていたらいきなり車道から車が突っ込んできたとします。自分は寸前のところで助かったけど、前を歩いていた人は亡くなってしまったとします。きついことを申し上げるようですが、その 差は単に“功徳があったのか、なかったのか”それだけなのです。

それが事故などではなく故意の殺人であっても同じことです。誰かの恨みを買って殺人の対象にされる、それも功徳がないためです。私たちは生きているだけで、多大な功徳を使っています。功徳によって守られているのです。もっとはっきり言ってしまえば、功徳がなくることは死を意味します。ですから命を保つために、私たちは知らぬ間に多くの功徳を使い功徳の貯金をすり減らしているのです。功徳がいかに大切なものか、おわかりいただけたかと思います。

 なるべく功徳を浪費しない生き方とは、慎重に一番安全と思われる道を通ることです。そして、注意深く万事に当たるべきでしょう。自分の運を試すような生き方はするべきではありません。また、基本的に自分の事は自分ですることです。自分の使ったものは自分で片付けるべきですし、自分が必要なものは自分で用意すべきです。しかし、時間的に技術的に自分で出来ない場合、または相手がそうしたいのであれば、してもらったことに対してきちんと感謝することです。それに見合った報酬を渡すことです。

 生きるために使う功徳、その余剰分の功徳を使って私たちは人生の幸福をあがなっているのです。今「節約」が流行っていますが、節約すべきなのは時間でもお金でもなく、功徳なのです。すべての人が、功徳を意識して生きるようにならなくてはいけないと思います。もしそうなれば、人を騙(だま)して甘い汁を吸おうとする人も、身勝手な人もいなくなるでしょうから。

 真理に従って生きる者も同様です。常に功徳を意識して生きるべきです。自分の持つ功徳を無鉄砲な生き方をしてすり減らしているようではいけません。そんなことをしていれば、修行を進めるための功徳がなくなるのは必然です。真理を実践するために、実に多くの功徳が使われているのです。ですから自分の功徳というものを意識せずに修行を行っていくと、必ず真理が見えなくなります。どういうことかというと、功徳がある時はまず真理を信じることができます。例えば、功徳があれば私の語る言葉を「本当かもしれない」と思うことができます。しかし、功徳が尽きてくると強烈な疑念、「たわ言に過ぎない」という思いがわき上がってきます。そして、せっかくめぐり会った真理から離れてしまうのです。理性的に考え熟慮した上で「真理ではない」という結論に達したとしても、それすら功徳が切れた現象に過ぎません。こうして多くの人が功徳が尽きて真理から離れていきました。いったん真理の流れから離れたら、また真理の流れに戻ってくるのに、どれほど多くの功徳を積みなおさなくてはならないことか。それだけで無数の生が費やされることになるのです。

 私は、真理を実践してもらうにあたって、必ずその人の霊性を高めるような浄化の修行と、功徳を積めるような修行を組み合わせて伝えるようにしています。例えば、以前紹介しました「三宝帰依真言」は浄化を進めるものですし、「経験の構成」真言は利他を培い功徳が積めるようになっています。2つを一緒に実践していくことで、確実に修行を進めることが出来ます。浄化も大切ですが、慈悲を培っていくことのほうがより大切です。

 今日、こんなことがありました。私の本に出会い2ヶ月前から修行を始めてくれた女性から電話がかかってきて訴えられました。修行をすると浄化が起こって苦しくて、毎日の修行ができないでいる、どうしたらいいでしょう、そんな内容でした。この人はもともと霊性が高く、エネルギーにもかなり敏感でした。修行の効果、エネルギーの上昇も敏感に感じ取っているようでしたが、それで修行が出来ないというのは明らかに功徳が足りない状態です。その人には以前から功徳を積む必要がありましたから、そのようにアドバイスしていたのですが、なかなか実践出来ないでいました。“功徳を積む修行をしてください。日々誰かのために動いてください。慈悲を思念してください。”その他に“お友達でも誰でも、私の本(『真我の料理教室』)を渡してあげてください。”そのように伝えました。その人は、私との電話をきった後しばらくして、アドバイスにしたがって本屋さんに電話をかけ私の本を5冊注文したそうです。もちろん誰かに渡すためにです。

 その後、その女性からまた電話がかかってきて、興奮した声でこんなことを教えてくれました。本屋さんへの注文の電話を切ったとたん、急に強いエネルギーがやってきて、それが他では感じたことのないほど強いエネルギーだったこと、サハスラーラ・チャクラが開くような感じがしたことなど。そして最後に「いろいろやってきたけど、とうとう本物(真理)に会ったのね」そんな言葉が聞かれました。その人は思い切りがいい人で、その後も同じ本屋さんで3冊も注文してくれたそうです。

 今日のこの出来事は、法施(真理の法則を他者に伝えること)がどれほど素晴らしく、いかに多大な功徳を積めるかを教えてくれています。まだ本を誰かに渡したわけでもなく、そうしようと思って本を注文するという行動を取っただけで大きな変化がありました。そこで彼女自身が大きなエネルギーを感じたことで、急激に真理に対する信、私の言葉に対する信が生まれたのです。これが功徳のちからなのです。このまま功徳を積み続ければ、自然と真理の流れに身をゆだね、彼女は自分でも予想だにしなかったほどの高い世界にいざなわれることでしょう。

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真我への道 四念処とは

                                          (2011/10/14)

 仏法に四念処(しねんじょ)、または四念住(しねんじゅう)という法があります。これは、四つの心の住処という意味です。「身(身体)・受(感覚)・心(こころ)・法(すべての事物)」に対して私たちは誤った見解を持ち、対象への捕われ(穢れ)を増大させてしまっています。そうではなく、正しい見解とは何なのかを四念処は示しています。

 しかし、正しい見解とはいっても、一切の観念を超えた境地である真我にとって四念処ですら、本来住処とするべきところではありません。すべての観念をなくしていかなくてはいけないからです。自己の修行のために一度は住処とした四念処だけれども、究極の境地であるニルヴァーナに至るためには、やっぱりそこからも抜け出さなくてはいけません。



四念処

  • 身「我が身、之不浄なり」

 例えば頭を洗えば、埃や汗が流れてきれいになります。また足を洗えば、汗が流れそう快になります。私たちは全身を洗うことで、清潔できれいな身体を維持しています。そして、自分の身体を清浄なものであると思い込んでいます。

 しかし身体を一切洗わなくなったらどうでしょうか。汗や埃、汚れはついたまま、垢はどんどんたまっていきます。あっという間に、私たちの身体は匂いを放つ不快な代物に変化します。

 また、私たちの身体から分泌されるもの、排泄されるもので美しいものがあるでしょうか。みな清浄とは言い難いものです。そんなものを分泌する身体が果たして美しいものでしょうか。私たちの身体は、本来不浄なものなのです。

  • 受「受は苦なり」

 私たちの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身)は私たちに快感を与えてくれます。美しいものを見せきれいな音を聞かせ、良い香りをかがせ、美味しい味覚をもたらし、気持ち良い触覚を与えてくれます。それを表層意識がまとめ上げ「私が何をしているのか」を認識させます。

 その結果、良い感覚をもたらすものや行為に執着するようになるのです。逆に執着しているものの反対の感覚に対しては、苦しみを感じるようになってしまいます。そして、その嫌な感覚をもたらす行為やものを退けるようになります。心地良い感覚ですら結局はその裏の苦しみを増大させてしまう、総じて感覚は苦しみでしかないのです。

  • 心「心は無常なり」

 いくら愛し合い執着しようとも、また相手を信頼しようとも、他者である相手の心は変化し移ろいやすいものです。自分の心も同じように移ろいやすく、今まで好きであったものも嫌いになったり憎むようになったりします。もしくはすっかり冷めて、どうでもよくなってしまったりすることもあります。このように心は一定ではなく変化しています。

 すべての現象は、自分の心が認識して初めて存在するものです。自分の心が捕らわれているものによって形作られています。よって、自分の心が変化することで他者の心も変化するのです。この変化そのものを指して「心は無常なり」といいます。

  • 法「法は無我なり」

 この世のすべての事物は、ある条件のもとに成立しています。自分が存在するのは父母が存在しているからであり、その父母は祖父母がいなければ存在しないものです。その他多くの事物が関与して、今ある自分が形成されています。あなたの周りのものもその原材料があって、作る人がいて、運ぶ人がいて、あなたの周りに存在しています。この連鎖は際限なく続きます。

 このようにすべての事物は何かに依存しなくては成立出来ません。単体では成立しえないのです。この世界の事物のすべてが条件となり連鎖反応を起こして、私たちの目の前の現象はつむぎだされているのです。

 このようにひとつの条件が崩れたらその存在自体が変質、もしくは無くなってしまうものに実体があるといえるのでしょうか。実体とは、常に変化しないで真に存在するものを指すからです。他(条件)に依存することで成立しているものは、存在していないといえます。つまり、すべてのものに実体はない、ゆえに無我であり空性であるといえるのではないでしょうか。私たちは通常すべてのものを実体であるかのようにとらえて、それに執着していますが、実はそれらに実体などないのです。

 カルマの法則ですら、条件によって左右されています。カルマの法則とは自分の為したことが為されるという現象に変わることです。カルマというものは因果関係、因果応報という考え方で、それが現象化する時は必ず条件が整わなくてはなりません。ひとつのカルマは骨子となりますが、その肉付けである現象は条件によって決定されます。

 例えを使ってわかりやすく説明してみましょう。A君は幼馴染のBさんに恋をしたとします。A君には異性を求めるカルマ、つまり原因があったのです。しかし、相手がBさんでなくてよかったわけです。例えばクラスメートのCさんでも良かった。でも、そうならなかったのはBさんがたまたま女性として生まれた、A君の近くに住んでいた、年も近かった、たまたまA君のタイプだった。たくさんの条件があったのです。そして、その条件を満たすためには、また無限の条件が必要です。

 その条件がひとつでも満たされなかったならばA君はCさんを好きになっていて、BさんはA君の好きなアイドルだったかもしれません。二つの現象は、それだけを見るなら全く違う現象ですね。それでもA君の持っているカルマはきちんと現象化されているわけです。

 この条件について、もう少し考えてみましょう。ふたりの間の条件が同じであったとしても、ひとつの条件に対しての観念が全く違っていたらどうでしょうか。例えば、身近にいる幼馴染の女性は妹のようで恋愛感情が持てないという人もいるはずです。もしA君がそのような観念を持っていたなら、Bさんに恋するという現象にならなかったはずです。しかしA君はそのような観念は持っていないで、逆に良く知っているBさんに対し安らぎを感じていたかもしれません。よって、A君はBさんを好きになるという現象になったのです。

 ここでは「相手が身近な存在」という条件は同じですが、前者と後者のパターンでは結果が違ってきます。ひとつの条件に対して二つ以上の見解があるということは、人によってひとつの条件が変化して作用するということです。ということは、実体の定義である「常に変化しないで真に存在するもの」にあてはまりません。条件も実体のない無我、空性であるということです。このように、カルマの法則さえも諸法無我の下に置かれるのです。

 

 「これこそが私(世界)である。これこそ楽(喜び)だ」と錯覚しているものに対して、これら「身・受・心・法」の四つは「いや、実は違いますよ。それは苦しみなのですよ」と言っているのです。そのどちらも苦と楽という比べるものの存在する相対世界での話です。つまり、絶対的なものではないということです。

 冒頭で申し上げましたように、四念処は真我の住処でありません。この四つの住処とは苦楽という物差しで見ているため、相対的なものの極みなのです。にもかかわらず、すべての魂は本来真我であるべきなのに、自分はこのような相対世界に住んでいることが正しいと勘違いしてしまっているのです。苦や楽という相対の世界から離れなければ、絶対の世界である真我の境地には至れないのです。真我の境地は二元(相対)を超えたところに存在するわけですから、当然といえば当然なのかもしれません。

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真我への道 懺悔の薦(すす)め

                                         (2011/12/22)

解脱・悟りに至るために必要なもの、それは慈悲・帰依・慙愧の念です。慙愧の念についてはまだほとんど触れていなかったので、今回は慙愧の念、そしてそれを実際の修行法にした懺悔についてお話しようと思います。

 慙愧(ざんき)の念、慙は賢者の教え、あるいは真理に照らして自らの行為を反省することであり、愧とは道徳的な教えにのっとり悔い改めることです。私たちは真理のものさしと道徳的なものさしを使って常日頃から自己の行い・言葉・心をつぶさに観察し、真理や道徳にそぐわない部分は改めていく必要があります。しかし、人はどうしても自己中心的な思考に陥りやすく、事ある毎に「自分が、自分が」という意識が出てきます。その結果として自己と他者の区別を増大させてしまうことが多いものです。そういったエゴを拭(ぬぐ)い去るためには、懺悔を行い慈悲を培う必要があるのです。

懺悔というものは「私はこんな悪業を為してしまった」という経験や「私はこんな善業を為したんだ」という経験からくる、現象への捕らわれをなくすためのものです。たとえ良い思い出、素晴らしい出来事であっても、それに捕らわれることは、この世界に対する執着を増大させ解脱の障害となります。ですから、まずは悪業についての懺悔から始めて、それが出来るようになったら次に善業・良い現象に捕らわれてしまったことについて懺悔をしていったらいいと思います。

例えば悪業に対する懺悔の場合は、聖なる対象に自己の罪を悔い改めそれを告白します。しかし懺悔を行っても、その対象の方があなたの罪自体を引き受けてくれるわけではありません。因果(いんが)の法則によって悪しき行いの結果はあなたに必ず返ってきます。しかしながら懺悔を行うと、懺悔を受けてくださる対象の"捕らわれのない意識"が連動し、データとして自分の意識に入ってきます。つまり、懺悔をすれば現象に捕らわれなくなるために悪業の結果生じてくる業(ごう)の果報によって苦しむことはありません。そして、その業を乗り越えやすくなるのです。

善業に捕らわれた意識を懺悔した場合は、未来その善業の果報である喜びがやってきても、その喜びに頓着しなくなります。喜びに対する執着がなくなっているので、たとえその喜びが消えたとしも渇愛が生じず苦しまなくてすみます。

懺悔によって自分の行った行為の結果を受け入れ、それを乗り越えるだけの強い心を持っているのか、それともエゴに翻弄(ほんろう)され新たな捕らわれの原因を生み出し蓄積させてしまうのか、それは大きな違いです。その蓄積によって魂の方向性というものが決まってしまうのです。 

それでは具体的に懺悔の方法を説明します。まず大切なのは、懺悔を受けてくださる聖なる対象です。如来(にょらい)・仏陀(ブッダ)・菩薩(ぼさつ)あるいはそれらの意識を具現化している導師(グル)が対象になります。懺悔を受けてくださる対象が自分と同じ穢れを有していたならば、その穢れが移行するだけで懺悔が効果を発揮することはありません。懺悔を受けてくださる対象はお釈迦さまを始めとした聖者、如来といった方々、もしくは会員になっていただきました方については私がその役を務めようと思います。

 お会いしたこともない、どこにいらっしゃるのかもわからない如来方に対して、まるでその方が自分の目の前にいるように集中して懺悔する事は難しいかと思います。集中が少なければエネルギーの連動自体も少なくなり、したがって懺悔の効果も小さくなってしまいます。また、仏画や像に向かって懺悔することにはあまり抵抗はないでしょうが、生身の人間である第三者に自分の醜さや過ちを赤裸々に吐露するのは羞恥心が邪魔をし、かなり勇気が要ることです。しかし、それでも自分を守ることをやめ懺悔することで、より懺悔の効果が出ます(実際は、私はかなり現象への捕らわれが薄いので、何を懺悔されても全く気にしないのですが)。

 懺悔の具体的内容を声に出して告白します。包み隠さずなるべく細かく、より具体的に行うことで効果が出ます。申し訳ない、もう二度と同じ過ちは犯さないという強い気持ちで行います。告白の後「二度とこのような間違いは犯しませんのでどうかお許しください。そして、この悪業の結果としてどのような苦しみが自分にやってきても構いません」と宣言します。

懺悔を受けると、私はアナハタ・チャクラが詰まり呼吸困難で苦しくなります。アナハタ・チャクラは現象そのものに対する捕らわれを司っています。昔の悪業に対しての懺悔を受けると、懺悔をした人が現象に捕らわれ悪業を為したのですから、その当時の捕らわれの意識が連動するのです。このアナハタ・チャクラの穢れを昇華するためには、かなりの苦労を要します。こんなことを書くと懺悔しようという気持ちがなくなってしまうかもしれませんが、私が大変な思いをするということは懺悔をした人の修業が急速に進むということですから、それは私にとっても嬉しいことです。そして、懺悔を受けることは私自身の魂の器を広げることにもなるので、それは気にしないでください。

基本は仏典にある十戒(じゅっかい)に沿って懺悔を行います。次に、社会的あるいは道徳的に問題のある行為についても同じように懺悔を行います。あなたが心に引っ掛かっていることは、そこに捕らわれがあるということですから、大小に関係なく、たとえ良い思い出であったとしても懺悔してください。 
そうすることにより思い出にも残らないような小さな捕らわれさえも、どんどんなくなっていきます。本当に深くて強い懺悔ができるようになると、あなたは驚く程多くの現象が懺悔に値することに気が付くでしょう。ヨーガのポーズや呼吸法などでも、クンダリーニのエネルギーを上昇させることができます。しかし強い慙愧の念を伴った懺悔ができるようになるのなら、上昇するエネルギーはその比ではありません。そして懺悔は悔い改めの意識が強ければ強いほど、その行為の結果は早く返ります。行為の結果は早く返れば返るほど、乗り越えやすい形で返るという傾向があるのです。

しっかりとした懺悔ができるようになると、聖なる対象に深くおわびする気持ちがわきあがってくるものです。そして同時に、懺悔の対象となった行為に関わった他者に対して、自己の穢れをあぶりだしてくれたことに深い感謝の念がわきあがってきます。そして多くの他者によって自分が生かされていることに改めて気付くでしょう。これにより、現象自体が大きく変化していきます。

 

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真我への道 四預流支(真理の流れに心身をゆだねる、4つのプロセス) 

(2012/01/08)

  1. 三宝帰依の実践。
  2. 潜在意識の、自己本位なデータを真理のデータに入れ替えていくこと。
  3. 真理のデータに照らし合わせて自己の行為を思索すること。
  4. 実際に真理の実践をすること。

この四預流支の実践がしっかり出来るようになれば、たとえ死後、転生をしても真理の流れから離れることなく次の生も真理を実践することができるのです。

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真我への道 「私」とは何か

(2012/01/21)

「私」とは一体なんでしょうか。「私」というものは、どこからどこまでが「私」なのでしょうか。どこまでを指して「私」と認識しているのでしょう。私の肉体こそが「私」といえるのかもしれません。では、考えてみてください。私の腕だけを指して「私」といえるのでしょうか、私の足だけを指して「私」といえるのでしょうか、私の脳だけを指して「私」といえるのでしょうか。では、私の心こそが「私」なのでしょうか。

 この幻影球体世界において「私」なるものとは単なる主体を意味するものでしかありません。そして、この幻影球体世界においては身体さえもが、感覚器官よってのみ知覚されるだけの幻影なのです。感覚器官においてのみ「私」の存在は認識されます。

 なぜ、私たちはこの「私」なるものを必死に守っているのでしょう。果たしてその必要があるのでしょうか。なぜ「私」なるものは、かくまでに喜びを追い求めるのでしょうか。なぜ「私」なるものは、これほどまでに苦しみから逃れようとするのでしょうか。

 

五蘊無我(五蘊:5つのちり。これら5つの要素には実体が存在しない)

 五蘊というものは五つの集まりであり、この五蘊によって「私」は形作られている、このように私たちは感じています。しかし、はたしてそれが正しい見解なのか考えてみましょう。


これは主体である「私」、あるいは「私の身体」をいいます。この「私」なるものが実存していると感じるために、生きているというだけで喜びが生じます。


これは感覚器官を指します。私たちには眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官が備わっており、この感覚器官を使って感覚を認識し、私たちはそれに対して様々な喜びを得ているのです。


これはイメージです。何かの言葉を聞いたときにイメージが作られます。イメージすることを喜び、楽しいと感じます。


これは意志のことです。これは何かのイメージを持ったときに、そのものに対して「何かを為したい」という意志。そして「私は何々が出来る。とてもうれしい」と、この行為できることを喜び、楽しむ心の動きが生じます。


観念をさします。「こうすれば、こうなる。ああすれば、ああなる。あすこには何々がある、ここにはこんなものがある」このようにして色々な観念を潜在意識に蓄え、真理というものを知らず観念をどんどん固定化していきますます。そして、このように形成された自分の観念を用いて、「自分はとても素晴らしい世界に住んでいる」あるいは、「こんな時にはこんな感動を呼ぶ。だから、とてもうれしい」と喜びを感じるようになります。

 

 この五蘊、色・受・想・行・識は、私たちに喜びを与えてくれます。しかし、それは同時に苦しみも与えます。

 例えば、が与える苦しみとは、主体である「私」なるものを守ってきたが、それが守られない状態になったとします。逃れようと思っても逃れられない。「私」が存在する限り、それはとても苦しいことです。

 例えば、つまり感覚器官が苦しみを呼ぶこともあるのです。感覚器官を使って理解したものが苦しみを与えるのです。嫌なものを聞く、見る、味わう、触れる、あるいはいたみそのもの、それらはとても苦しいものです。逃げ出したくもなるでしょう。

 、イメージにしても同じです。イメージするものが気持ち悪いものであったり、吐き気がするようなものであったり、あるいは恐怖そのものであったり。イメージそのものに苦しめられます。

 次の、意志も同様で「何々をしたい」と思っても、それが出来ない状態であれば、苦しみが生じます。また、それが出来る状態であり、それが当たり前となっていたのにもかかわらず、突然それが出来ない状態となったとしましょう。そこで渇愛が生じ、苦しみに襲われます。

 最後のつまり観念ですが、例えば自己の観念が覆されるようなことがあればとても苦しい。自己の持っている観念にしたがって「これはこうなんだ、これは正しいことなんだ」と思っていても、それを正当に覆されることはとても苦しい。自分の観念が間違いだったことを知ることは、とても苦しい経験です。

この五蘊というものは、「私」を形成しているものと思われています。しかし五蘊は、私たちに苦と楽の両方を経験させます。この五つの集まりはある時は苦しみであり、あるときは喜びであるのです。このように条件によって変化するもの、本質ではないものには実体があるといえません。つまり、空であり無我であるといえるのです。私たちを形成するものに実体はないのです。五蘊というものは幻影であり、真我の領域には存在しないものなのです。

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真我への道 五下分結と五上分結から離れニルヴァーナに至る

(2012/01/24)

 

 ニルヴァーナに至るためには、自己が身にまとっている捕らわれをひとつひとつ外していかなくてはいけません。その無数の捕らわれ、一体どこから手を付けていけばいいのか。それはすでに古の聖人によって明らかにされています。私たちはこの法則にしたがって自己を縛っている捕らわれの意識を切っていけば、確実にニルヴァーナまで導かれるようになっています。

 それを五下分結(ごげぶんけつ)と五上分結(ごじょうぶんけつ)といいます。五下分結とは人間以下の下位世界に魂を結びつける、5つ捕らわれの意識であり、五上分結とは人間より高い世界に魂を結びつける5つの捕らわれの意識です。人間より高い世界とはいっても、ニルヴァーナまでの途中経過であり、無常の世界であることには変わりません。解脱のためには、やはり五上分結からも離脱しなくてはいけないのです。

五下分結

有身見(うしんけん) 無明により「自分」という存在が実在していると感じること。これにより自己保全の意識が生じ、排他的意識が生じる。激苦地獄を生む意識。
戒禁取(かいごんじゅ) 無明から生じた意識であり、真理ではない決め事を守ろうとする意識。例えばお百度参りなどが、これにあたる。これにより魂は低位の霊域にいざなわれる。
疑(ぎ)
真理の法則に対する疑念。これにより動物界が形成される。
貪欲(どんよく) 貪り。
瞋恚(しんに) 怒り。

五上分結

色貪(しきとん) 形あるもの、美しい形状・美しい容姿に捕らわれていること。
無色貪(むしきとん) 形なきもの、美しい心・美しい声・音楽にとらわれていること。
掉挙(じょうこ) 感動こそ素晴らしい、この人生を感動多きものにすることこそ正しく、素晴らしいのだとする心。道徳を守ることは正しい行為であるとする心。
慢(まん) 自分は完璧だと思い、満足する心。
無明(むみょう) 無智なるがゆえに真理に気付けないこと。または、自己の観念ゆえに真理を否定する心。二元の法則のすべてが幻影であることがわからないこと。


この順番に、捕らわれの意識をなくしていきます。下の世界に通じる道から断絶しなくてはいけません。よって、五下分結から切っていきます。

 特に、下から三つの「有身見(うしんけん)」「戒禁取(かいごんじゅ)」「疑(ぎ)」を合わせて三結といいます。三結とは、魂を三悪趣(激苦地獄・迷妄地獄・貪り地獄)へといざなう、悪しき要素です。この三結を完全に切ることができれば、いかなることがあろうと、志半ばで死を迎えようと真理から離れないようになります。ですから、真理に気付いた者はまずは三結から脱することに努めなくてはいけません。そして生死を越え、ニルヴァーナへと至る道筋を確固たるものにしていかなくてならないのです。

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真我への道 四如意足(四神足)

(2012/01/26)

 如意足(にょいそく)とは現象を意のままにする力、つまり神通力を手にするために、あるべき姿を示しています。四如意足(しにょいそく)と四神足(しじんそく)は同じものです。

欲如意足(欲願神足)
すべての魂を救済するために、ニルヴァーナに到達し仏陀になることを強く望むこと。それを決意すること。

勤如意足(精進神足)
自己の安穏を求めず、一心不乱に修行を進めること。

心如意足(心神足)
真理の法則を記憶することに日々集中し続け、潜在意識のエゴ本位なデータを、真理のデータに入れ替えること。これによりエゴを滅却していくこと。そして、修行の目的地であるニルヴァーナに到達することを思念し続け、それを確信すること。

観如意足(観慧神足)
この世界のすべては幻影である。なぜこのような幻影が生じているのか、真の智慧を持って思索し、幻影の意味を理解すること。現象に捕らわれている自己の意識を徹底的に思索し、真の智慧をもって目的地に到達すること。

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真我への道 五根五力

(2012/01/28)

 五根というのは5つの潜在性、ポテンシャルのことです。五力というのは5つの能力、アビリティーのことをいいます。このポテンシャルを大きくする努力が必要です。それは真理のデータを自己の潜在意識により多く蓄積するということであり、それにより多大に真理の実践ができるということです。例えば、10のポテンシャルを20のポテンシャルにしていく、そうすれば10の能力が20の能力としして顕現する、というように。


五根

信根(しんこん)  真理を信じられる潜在性

精進根(しょうじんこん)  不退転の決意をもって真理の修行に対し努力できる潜在性   

念根(ねんこん)   真理の法則を記憶し繰り返し、法則を自分のものにできる潜在性

定根(じょうこん)  深い瞑想に至れる潜在性

慧根(えこん)  真理の智慧を獲得できる潜在性

 

五力


信力(しんりき)  真理を信じることが出来る力

精進力(しょうじんりき)  不退転の決意をもって真理の修行に対し努力できる力          

念力(ねんりき)  真理の法則を記憶し繰り返し、自分のものにできる力

定力(じょうりき)   深い瞑想に至れる力

慧力(えりき)  真理の智慧を獲得できる力

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真我への道 七覚支(しちかくし)

(2012/01/30)

覚者(悟りに至った方)に到達するための、七つの土台のことをいいます。

念覚支(ねんかくし)
真理のデータを記憶し、潜在意識にあるエゴ本位なデータを浄化し、真理のデータと入れ替えていくという、覚者に至るための土台。

択法覚支(ちゃくほうかくし)
記憶した真理のデータをもとに、時と場合に応じた、最もふさわしい法則を選択し使いこなすという、覚者に至るための土台。

精進覚支(しょうじんかくし)
ゆるぎない心をもって真理の実践にまい進していくという、覚者に至るための土台。

喜覚支(きかくし)
真理を実践できることの喜びをしっかりと認識し、さらにそれを増幅させていくという、覚者に至るための土台。

軽安覚支(きょうあんかくし)
真理の修行を実践していくことで心身を軽快にしていくという、覚者に至るための土台。

定覚支(じょうかくし)
真理の瞑想修行を深めていくという、覚者に至るための土台。

捨覚支(しゃかくし)
すべての現象に執着することなく無頓着になり、平等心を強めていくという、覚者に至るための土台。

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真我への道 八正道(八つの聖なる道)

(2012/02/03)

八正道とは真理を実践する者が歩むべき、正しい道です。

正見   真理に基づいた正しい見解を持ち、あらゆる物事に対応していく、聖なる道。

正思惟  正しい真理の見解に基づいて思索していく、聖なる道。

正語   真理に基づいて正しい言葉を語る、聖なる道。

正業   真理に基づいて行為をしていく、聖なる道

正命   真理に基づいて、自己の人生をよき実践にしていく、聖なる道。

正精進  不退転の心をもって真理を実践していく、聖なる道。

正念   真理のデータを正しく自己の潜在意識に蓄積させていく、聖なる道。

正定   真理の実践を為すことにより深い瞑想を極めていく、聖なる道。

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真我への道 四正断(ししょうだん)

(2012/02/06)

四正断とは、 今現在為している悪業を断じ、未来これから為す可能性のある悪業の根を断ち切るように努力すること。また、今現在為している善業を増大させ、未来これからなす可能性のある善業の種子を増大させるように努力することをいいます。

 

真我への道 七科三十七道品

今までに紹介いたしました、四念処(しねんじょ)・四正断(ししょうだん)・四如意足(しにょいそく)・五根(ごこん)・五力(ごりき)・七覚支(しちかくし)・八正道(はっしょうどう)の7つを合わせて七科といいます。また、七科の中のそっれぞれの項目を全部あわせると37の項目となり、これを三十七道品といいます。

七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうほん)とは7つの修行法であり、さらに細分化すると37の項目に分かれるということです。

37の項目の中には、切り口を変えただけで内容が重複するものもありますが、それはその項目がそれだけ重要であるからといえましょう。

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真我への道 功徳と回向

(2012/02/09)

功徳の大切さについては、以前2回にわけて申し上げていたのですが、それに深く関係する回向についてご説明しようと思います。

 功徳を積むということは非常に重要であり必要なことです。そして法施(真理を伝えること)によって得られる功徳は多大であるということをお話しました。では、その功徳はどこからやってくるのでしょうか。

ブーメラン 例えばあなたが友人に真理の法則を伝えた場合は、それによってあなたは功徳が得られますが、伝え聞いた友人は逆に功徳を減らしたことになります。友人は真理のデータという利益を得たわけですが、それに対して功徳という目に見えない代価をきちんと支払っているのです。このように功徳は、お金のように人から人へと流れていくものなのです。しかも、魂を最高の幸福と完全な解放に導く道しるべが真理なのですから、その真理を知るということは魂にとっては最高の利益になるのです。ですから、真理を伝える者は大きな功徳を得るし、伝え聞く者はこの最高の利益を得るために莫大な功徳を渡しているのです。

 正直に言いますと、真理を知ることの出来るほどの功徳を持っている魂は本当に稀です。真理の実践を出来る者はさらにずっと少ない、これが私たち人類のおかれている現状です。私たちの回りにはほとんど煩悩を増大させるようなデータしかないのですから、当然といえば当然なのかもしれません。一度真理に出会ったならば、それを手放さないようにしっかり握っていなくてはいけません。そうでなければ、振り出しに戻って再び功徳を積みなおさなくてはいけないのです。

 せっかく誰かに真理を伝えても、そしていくらあなたが誠意と情熱をもって真理の素晴らしさを語ろうと、その人が真理を実践できるほどの功徳を持っていなければその人は真理を実践するまでに至りません。功徳というものは単にそれを有するか否かで、その魂の歩む道を決定してしまうのです。功徳が少なければ、真理の法則を聞くだけでその人に潜在していた功徳がつきてしまうこともあります。真理を伝える側はそれでも「真理を伝えた」ということだけで大きな功徳を得ることが出来ますが、究極のニルヴァーナに至るためにはすべての魂に真理の実践をしてもらいニルヴァーナに導かなくていけないのですから、それでは本末転倒になってしまいます。他の魂を犠牲にして自分だけ功徳を積んで抜きん出ても意味が無いことです。

 功徳の欠乏により真理が実践できないでは、その魂は救われません。真理の法則を単に知っていても、実際に実践しなくてはその魂は救われることがないのです。教える側にとっても、それは修行本来の目的ではありません。

 ではどうしたらいいのか、そこで功を奏するのが回向です。回向とは真理の実践、特に慈悲の実践や布施によって得た功徳を、他の魂に還元することです。自分のために功徳を使うことなく、他の魂にその功徳を分け与えるのです。その功徳を使ってもらい、どうかみんなが真理に気付き、その実践が出来るように願うことです。

 ここでいえば、対象がいなくては法施はできませんから「法施させてもらえた」ということで相手に感謝し、自分の得た功徳を相手に回向することです。相手は真理を教えてもらったことで大きな功徳を消費しましたが、同時に「あなたに法施をさせてあげた」ということで功徳を得ることことが出来るのです。

 法施のできる人は、必ずこのような意識をもって法施をすることが求められます。回向することによって自分の功徳がなくなってしまうかといえば、そうではありません。回向自体が大きな功徳を生む行為であるため、回向をすることによって自分の持ていた功徳は何倍にも増幅されるのです。このように功徳そのもの量は回向にやって増やすことが出来るのです。

 そして、法施をすることによって自分自身は、より高い世界の存在から新たな、より深い真理の法則を教えていただくというカルマと、そのための功徳を得ることが出来るのです。長くなってしまいましたが、このような理由で毎日の修行の最後には回向を欠かしてはならないのです。

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真我への道 功徳の流れ

(2012/02/14)

 真理に出会い、いざその実践を始めたようとする場合、六波羅蜜に従って布施の実践から修行は始まります。六波羅蜜のところでいいましたように、この布施によって真理を実践できる功徳と縁を築きます。また、大切なお金や品物を手放すこと自体が現象への捕らわれを薄くし、現象に捕らわれることで生じていた苦しみを軽減させ、精神的な飛躍となります。このように真理に対する布施は、真理の道を歩むための大切な土台なのです。

 しかし布施を始めた当初は、布施の功徳が自分のエゴを全うするために使われることがあります。例えば、布施をした金額よりはるかにたくさんのお金が入ってきたり、新規の契約が取れるなど仕事がうまくいったり、恋人ができたり、昇進したり、成績が向上したり。今までは停滞していた状況が急に改善される、そんな現世的な願いがかなう方向に功徳が流れることが実際あります。

 これはどういうことなのかというと、真理の実践を始めたばかりの頃はまだまだ自己の心が現世的な方向に向いているために、そちらに功徳が使われるのです。最初のうちは、これは仕方ないですし、それでも構わないでしょう。徐々に真理のデータが自分のものになっていけば、自然と功徳は自己の霊性を向上させる方向に使われていくことになるからです。

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