玉置宏千の世界観

 

著作『真我の料理教室』について

 

  『真我の料理居室』(霞ケ関書院)     
 

 この世界とは一体何なのだろうか。私たちの存在に意味はあるのだろうか。私たちは死後どうなるのだろう。輪廻転生は真実なのだろうか。筆者の卓越した霊的な眼力によって、そのすべてが明らかにされます。
私たちの身体の中心を流れる気、その通り道であるスシュムナー気道とチャクラは、実は私たちを取り巻く現実世界の現象と密接な関わりがあるのです。この書はあなたに真実の世界の仕組みをお伝えします。
アセンションに備えて私たちはどう生きるべきなのか。その精神的な指南書となるべき一冊です。

 『真我の料理教室』は、真の求道者のために書かれた本です。もしかしたら、そうではない人がこれを手にとっても「なんだ、この本」とお思いになって読まない、もしくは本気になさらないかもしれません。なぜなら、この本にはちょっとした仕掛けのようなものがあって、一見して何の本だかわからなくしてあります。タイトルにしても、精神世界について書かれているにもかかわらず、「料理教室」です。しかし、前述したように本当に道を求めている方なら、この本の真意を難なくつかめることでしょう。

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『真我の料理教室』より、一部を立ち読みしていただけます。

 

はじめに
私達は、日々の暮らしの中でいろいろなことに心を動かされながら生きています。楽しいこともあれば、辛いこと、いやなこと、悲しいこともあるでしょう。それらは、私達がその一つ一つに心を乗せなければ、とどまることなく淡々と過ぎ去っていきます。
現象はそれだけを見るならば、常に同じように流れては消えていくものです。

 しかし、私達はその一つ一つに心を乗せ集中することで、喜びと苦しみを得ています。他の人から見たら何でもないことでも、当人にとっては夜も寝つけないほどの大問題などということはよくあることでしょう。それは、その現象に対して「心が捕われている」ということです。どんなに小さなことでも心が捕われている限り、そこから離れることは大変難しいことでしょう。

 世の中には法律やルールがあります。同じように、心の世界にもルールといえるものがあるのです。もし、そのルールについて知ることができたのなら、今まで見ていた世界が全く違ったものとしてあなたの目に映ることでしょう。もしかしたら心に重くのしかかっていたことも、その時には何でもないことに変わっているかもしれません。そして、あっという間に過ぎ去ってしまうあなたの人生に、何か新しい意味を見出すことが出来るかもしれません。

  この本は「真我の料理教室」という題です。真我というものをご存知でしょうか。一般的に言われている真我のとらえ方と、私が瞑想によって導きだしたものとは実際かなり違うものでした。ですから、真我の本当の姿・とらえ方を皆さんにきちんとお伝えしておかなくては真の法則が伝わらないのではと危惧し、重いペンを取り上げました。

  「真我の料理教室」とは、「真我をどのようにとらえたらいいのかを学ぶ教室」という意味です。私にとっては生きること・生かされていること自体が、実は教室にいるようなものなのです。あなたが真我の本当の姿を理解されることであなた自身の本当の姿を見出していただけるなら、私にとってこれ以上の喜びはありません。

  それでは、本当のあなたに出会うため、真我の料理を私と一緒に作りましょう。

第一章 空性とは
私たちはなぜ存在しているのか、そして生きることの意味とは何なのか。私たちが生きている、この世界とは一体何なのでしょうか。この根源的な命題は、人の歴史の中で常に問われ続けてきたものです。今なお、多くの人がその人生のどこかで立ち止まる問題です。そして、この困難な時代の中で、多くの方がこの命題の答えを潜在的に求めているのではないかと私は考えています。生きることへの漠然とした恐怖と不安を多くの方が抱えていらっしゃるのではないのでしょうか。それらを紛らわすために自分の周囲に癒やしや楽しみを求めることもできますが、このような時だからこそ一歩前に進んで自分の中に答えを探してみませんか。やみくもに、外からもたらされる情報を信じ不安と不信を募らせることよりも、自分の心を見つめなおしてみませんか。ごまかしなどではなく、今感じている不安や恐怖をきっと取り去ることができるはずです。

  この根源的な命題に答えを出すために、まずお釈迦さまのいわれたことを考えてみましょう。この世界に立ち現れる現象に対して、お釈迦さまは「それは空である」とおっしゃっています。つまり実体がないということです。それは、この世界そのものに実体がないといわれているのと同じでしょう。突然、そんなことをいわれても、にわかには信じがたく「えっ実体がない?そんなばかな」とあなたはお考えになるかもしれません。それは、このような例を使って説明できると思います。・・・続く

 

第二章 変容菩薩乗
私たちは、日々、いろいろなことを体験しながら生きています。うれしいことや悲しいこと、腹の立つことなどさまざまです。しかし、よく現象を観察してみると起きてくることというのは淡々と起き、そして過ぎ去っていくばかりで、それに一喜一憂しているのは自分自身です。例えばあなたがどんなに怒るべき現象であると感じたとしても、同じような現象に対して怒りがわいてこない人がいるとするならば、それはやはりどこまでいってもとらえ方の問題といえるのではないでしょうか。この世という相対の世界に生きている限り、絶対的に悲しいことやうれしいこと・怒るべきことというのは存在しません。現象はそれをとらえる人の意識によって、つまりとらえ方によってどうにでも変わるものです。そこで大切なのが、現象に対して自己納得するのではなく何を習得できるのかということです。

  私は変容菩薩乗という修行の道を説いております。乗というのは大乗・小乗の乗と同じで、サンスクリット語でヤーナ(Yana)と訳されます。ヤーナとはもともと乗り物という意味ですが、変容菩薩乗とは変容というものに重点を置いた菩薩の乗り物ということです。

  何を変容するのかといえば、起きてくる現象のとらえ方を変容するということです。では、現象をどのようにとらえたらいいのでしょうか。それは利他、他を利する、すなわち慈愛・悲哀の念を背景にすべての現象をとらえるということです。・・・続く

 

第三章 魂の転生の真実
近頃は精神世界という分野も市民権を得たようで、テレビでも盛んに前世やオーラ、チャクラなどという言葉が聞かれるようになりました。「あなたの前世は戦国時代の武将です」とか「中世ヨーロッパのお姫様です」などという話がまことしやかに吹聴されています。このようなことが、魂の生まれ変わりという流れの中で本当に起こりうるのでしょうか。この章では、私の瞑想体験や心の奥深くに存在するアーラヤ識世界から持ち帰ってきたデータなどを踏まえ、死後の世界や転生というものについての本当の姿を知っていただこうと思っています。

 まず、前世は戦国時代の武将やお姫様だったなどということが実際にあるのかということですが、ある意味では、実際にありえることです。こういった前生についてのお話は、転生という考え方を背景にしています。しかし、通常一般に考えられている転生が魂の生まれ変わりの真実を表していないために、このよう曖昧ないい方しかできないのです。通常、転生とは死んでもまた生まれ変わるという価値観です。個としての魂は不変であり、その魂が宿る乗り物だけが変化するという考えです。難しくいえば、確固たる自分、すなわち個我が個我として転生する、ということです。結論を先にいってしまえば、そのように魂が個我として独立した形で転生することはありません。・・・続く

 

第四章 観念の構築
私たちの住んでいるこの世界は、すべて相対なるものから形成されています。相対とは、相対するものがある世界、つまり二元の世界です。そして、二元の極みであるところの主体・客体のうち、主体である自分(我)への執着を一番強く持っています。私たちが生きている宇宙、この宇宙そのものは、自然な流れとして二元を非二元に戻そうという働きを生じさせています。これは主体の経験だけではなく、客体の経験もすることで偏った状態を取り除き、相対的な世界そのものへの捕らわれを外していこうとする宇宙の摂理なのです。

 幻影世界の法則の中でこれは絶対というものはありません。幻影世界においてその世界を認識する時に、それぞれの生命体の持つ固有の観念が作用しています。

 私たちがこの人間世界に生まれてきた時に、私たちには人間としての一切の観念がないものとして、ここでは説明を進めます。まっさらな意識で生まれてきたとしましょう。私たちは自己に内在するデータによってさまざまな現象が生じるわけですが、それを外側からもたらされたものであると感じることによって、他者を認識し始めます。それから、他者に相対する自分という意識、「我」が生じます。この「我」に執着することによって、苦しみが生起します。その苦しみから逃れるために、今度は欲望が生じます。「我」というものに執着し守らんとするために、他者を押しのけようとしたり、物事を曖昧にしようとしたりします。これらは、実は自己保全のために生じた欲望なのです。すべての欲望は各チャクラに対応しており、深い意識の中から内在根がそのチャクラを通って“今この瞬間”という意識に流れ込んできます。内在根がスシュムナー気道に崩れ出てきた状態です。・・・続く

 

第五章 真我とは
真我とはニルヴァーナの状態であり、内・外や主体・客体という概念のない、また有我や無我とも違った、いわば非我の状態といえるでしょう。有我とは、すべてが空性なる、この現象界にあっても確固たる我が存在するのだという考え方です。また無我とは、そのような我というものは一切存在しないのだというものです。しかし真我とは「我に非ず」つまり我という概念そのものを超越した存在であるという表現が、最もふさわしいと思います。

 また三グナ(P231参照)という、この世界を形成するエネルギー、これに干渉される前の状態が真我です。それに対して真我が三グナに干渉された後のものを、一般に魂と呼びます。

 真我はもともと白い球体をしており、その真ん中には赤い球体が眠っています。この白い球は月を、赤い球は太陽をそれぞれ象徴しています。真我が三グナに干渉されると二極の方向性が生じます。この方向性を心素と呼びます。真我の白い球体が楕円に変形し、その先端が細くとがり、心素になります。

  真我の形は、見る人によってさまざまです。円錐を上下にまとめ二つの先端が細くなった形や、二つのピラミッドを上下に合わせた八面体などがあります。

  ここでいう二極とは、解脱と救済という両極です。解脱とは自己を浄化していく道ですが、自分がどんどん浄化されることで、浄化がまだ進んでいない他者と関わることを嫌がるということになりがちです。・・・続く

 

第六章 無常性 
私たちは、日々楽しみと苦しみを経験して生きています。プラス思考とかポジティブにものを考えるということは大事なことです。物事は心がどうそれをとらえるかによって変わってくるからです。あらゆる障害があったとしても、心のパワーを使って物事を自分の望む方向へ変えていくこと、これは訓練によって可能です。人はどんな環境にあっても希望を持って生きることができます。生きるなら前向きに明るく向上心を持って生きる、こういった姿勢によって、素晴らしい人生を送る可能性が生まれます。苦しみだけを見て苦しみに浸って生きるというのは、あまりにも悲しいものです。

  ところが、いかに知能・才能・容姿・財・人間関係に恵まれていたとしても、あるいは心のパワーを駆使したとしても、最終的に苦しみから逃れることができないように人はなっているのです。これは動かせない事実です。人は老いることから逃れられません。そして人は健康を常に維持することはできません。また楽しいこと、うれしいこと、喜ばしいことは永続しません。そして、あらゆることに恵まれどんなに楽しいことだらけの人生だったとしても、今の人間の英知をもってしても死から逃れることはできません。また、自分が愛している人、大事な人というものはいつか死を迎え、離別は避けられません。あなたが愛している人や物、環境そういったものすべては変化し続け、やがてあなたの前から消えてしまうものです。これを“無常”といいます。・・・続く