玉置宏千の世界観

世界を変える三十二の御魂

真我への道 三十二の御魂とは

三界構図ピラミッド

 三十二の御魂とは、一体何なのか。まずは、それを説明しなくてはいけないのですが、その前にこの世界の構図を少しお話ししなければなりません。

 私たち人間の世界、これを人間界といいます。人間界は六識世界(欲界)の中に含まれています。六識世界とは、下から地獄界・畜生界(動物)・餓鬼界・人間界・修羅界・欲天(天上界)の六つに分かれています。別に欲六界といいます。これらの世界は、仏教を奉じる僧侶や団体が「悪い行いをすると、死んだら地獄に落ちるぞ」また逆に「良いことをすれば天国に行ける」と信徒を戒めるために考え出した架空の世界ではありません。この人間の世界があるのと同様に、他の五つの世界も存在するのです。人間の世界の存在を否定できないように、これらの世界の存在についても完全に否定はできません。

 深い瞑想に入ると、これらの世界を自由に旅することができます。実際にこれらの世界の経験をすることができるのです。ただ傍観するのではなく、実体験としてその世界の住人の経験をします。地獄についていえば、地獄の亡者として獄卒から責めさいなまれる経験をするのです。このように、瞑想によって自分の死んだ後にどのような経験が待っているのかを理解することができます。瞑想上でこのような経験をすることで、死後に対する準備、生き方の修正ができるようになります。ですので、なるべく早くこのような深い瞑想の経験をした方がいいのです。

 六識世界の別名を欲界といいます。欲界の魂すべては、その名が示すようにそれぞれ自分本位な欲望を有しています。六識世界にいる魂はその主たる欲望の種類によって、六つの世界に振り分けられています。怒りや冷酷さを持つ人は激苦地獄へ、貪欲な人は餓鬼界へ、他に愛を施し喜びを与えた人は天国へというように、それぞれの世界は欲望に特徴づけられています。普通は人が死を迎えると、自分の欲望に応じてこの六つ世界に転生します。

 人間界より下位三つの世界、餓鬼界・畜生界・地獄界を苦しみの世界とし、三悪趣といいます。人間より上の世界である修羅界・欲天は人間界より喜び多き神の世界であり、善趣といわれます。二つの善趣のうち、上位にある欲天はさらに六つの階層に分かれており、下から第一天界(四天王天)・第二天界(?利天)・第三天界(夜摩天)第四天界(兜率天)・第五天界(化楽天)・第六天界(他化自在天)となっています。欲天の頂点に存在する第六天界の神は、魔神(マーラ)であるといいます。実は、私たちの世界のトップは悪魔なのです。この魔神は絶大な徳を持ち、欲界においてすべてを思い通りにすることができるとされています。私たちの欲望を満たすことで、この六識世界に私たちを縛りつけているのです。これらの世界が、私たちの人間界を含む欲界の構図です。

3もし、私たちに自分本位な欲望が一切なくなったとしたらどうなるでしょうか。そうなったら、私たちはこの欲界に存在するわけにはいきません。死んでも、人間界にも地獄にも天界にも生まれ変わることがありません。その時は欲界を超えた高い世界に移行することになります。色界(マナ識世界)というイメージの世界、さらには無色界(アーラヤ識世界)というデータのみの世界に続きます。いずれも神々の世界であり、高い世界に行けば行くほど長寿と、真実の世界を理解するための智慧が得られます。

 この無色界を超えたところに存在するのが、ニルヴァーナです。いわゆる解脱・悟りの境地であり、お釈迦様が達した最高の境地、涅槃のことをいいます。それまでのニルヴァーナより下の世界はどこまでいっても二元の世界であり、比較する対象の存在する相対の世界でした。どういうことかといいますと、悪いものがあるから良いものがあるという世界であるということです。熱いものがあるから冷たいものがある、長いものがあるから短いものがあるということです。一つのものに対して比べるものがあるから、それが長いだとか熱いだとかいえるのです。そのもの単体だけを見て、長いや熱いだとは判断できません。それは、絶対的に良い・素晴らしいものなどないということです。もちろん絶対的に悪いものなどということもありません。

 しかし、ニルヴァーナは唯一絶対の世界、比べる対象のない一元の世界です。そこには比べることの出来ない幸福と自由、壊れることない幸福と自由が存在します。ニルヴァーナとはすべての魂の最終的な目的地なのです。私たちがこの世界に生きているのは、いつの日かニルヴァーナに行くためなのです。この世界で経験するあらゆる苦しみと喜びは、そのための学びに過ぎないのです。今は気付かなくとも、すべての魂はいずれ気づきを得てニルヴァーナを目指すように定められています。

 私たちの住む六識世界から最高の境地ニルヴァーナまでが、この世界を構成しています。

 三十二の御魂に話を戻します。みなさんは「帝釈天」という言葉はご存知かと思います。天界の下から二つ目、第二天界に位置する神様の名前です。サンスクリット語では「インドラ」といいます。この帝釈天はスメール山(須弥山)の頂上に三十二の神々とともに住むとされています。須弥山とは、この欲界の中央に位置する神々の住まう聖なる山です。その山頂の中央に帝釈天の住む城があり、それを囲むように四方に八つずつ城を配しそこに三十二の神々は住んでいます。帝釈天とそれにつき従う三十二の神々を合わせて、三十三天といいます。三十二の御魂というのは、ここに由来します。帝釈天に従う三十二の神々の尊き魂です。スメール山

 信じられないでしょうが、このスメール山は架空の話ではありません。スメール山とは銀河系の中心を指しています。銀河系の中心に帝釈天と三十二の御魂は実際に存在しているのです。宇宙の分布図では、高い意識の生命体ほど銀河の中心に存在しています。

 2012年を前に、三十二の御魂が銀河の中心からこの地球に転生してきているのです。

 帝釈天は第二天界に位置付けられてこそいますが、実は神々の真の王なのです。なぜそのように言えるのかというと、この欲界より高い世界であるマナ識世界に行くためには帝釈天の道案内がいるのです。この欲界の頂点に君臨するのは第六天界の魔神ですが、たとえ第六天界に登りつめてもそこから欲界を超える世界には行けないのです。第六天界は最高の喜びと満足のある世界ですが、「これ以上の世界はないのだ」という驕りもあるため魂の成長がはかられない、行き止まりの世界になってしまっているのです。ですので、第三天界以上の神々であっても静マナ識世界に移行するためには、帝釈天に従うよりほかはありません。このような意味で帝釈天は真の王であり、この六識世界全体の魂を静マナ識世界に導く救世主でもあるのです。

 帝釈天帝釈天がこの地球の魂を救済する時が近づいています。帝釈天( 左の図は「帝釈天騎象像」東寺蔵 ) は自らの化身をこの地球につかわそうとしています。第六天界の魔神から人間までのすべての魂を高次の世界である梵天へ導くためです。梵天は静マナ識世界に存在します。この魂すべての移行こそがアセンションなのです。アセンションとは個人の意識が変容することではありません。すべての魂の運命の分岐点なのです。このアセンションが無事に行われるのか、失敗に終わるのか、それは逆説的ですが個人個人の意識にかかっていいます。

どうして三十二の神の御魂が地球に転生してきているのか、おわかりでしょうか。それはこのアセンションのために帝釈天の化身である救世主が人間界に降り来られるように「地ならし」をするためなのです。救世主がその役目を果たすために、この地を浄化しなくてはいけないのです。
キリストがなぜ磔(はりつけ)にされなければならなかったのか、それは民衆に救世主を受け入れる準備がなかったからかもしれません。もし、当時の民衆にキリストの言葉を受け入れ、その言葉通りに生きるような心の準備ができていたら、どうでしょうか。間違いなく、世界は今と違ったものになっていたでしょう。

 同じように今地上に救世主が現われたとしても、現在の人々の心にその言葉が届くでしょうか。救世主があらゆる奇跡を起こさない限り、人々は聞く耳を持たないのではないでしょうか。しかし、運命がそのようなシナリオを用意してくれるか、それはわかりません。ただ確実なのは今出来ることを淡々と行っていくことでしょう。それは、すべての人々が少しずつ意識を変えていくことです。アセンションを前にすべての人が自分の意識を変革し生き方を変えなくては、救世主がその役目を果たすのは難しいでしょう。

 三十二の御魂は、自己の欲望だけに忠実である人々のエゴを壊していかなくていけません。すべての魂に多くの愛を注ぎ、この世界から残忍さ・冷酷さ・無慈悲をなくしていかなくてはいけません。そして、すべての魂が同じように他の魂を愛せるように、慈悲の心を教えなくてはいけません。すべての魂の意識を、高い世界の神々の意識に近付けなくてはいけないのです。私たちはこのアセンションを単なる意識上昇、意識変革にしてはなりません。この人間界に神の世を現わしてこそ、私たちの使命は完成したといえるのです。

 

 

真我への道 三十二の御魂の目覚めを待つ

 三十二の御魂がどのような役目を持っているか、およそお分かりいただけたでしょうか。この世界全体の運命を担う、非常に重要な役目を持つ人々なのですが、残念ながらその三十二人のほとんどが未だ自分の役目に気付いていないようです。

 アセンションはもう間もなく訪れます。2012年にアセンションが起こると多くの方は信じていらっしゃるようですが、私の予想では2012年はアセンションに向かって時代が大きく変革する時であって、実際にアセンションが起こるのは、それから5年以内のことではないかと感じています。それでも、私たちに残された時間は多いとは言えないでしょう。おそらく2012年から、日本をはじめ世界は今より一層暗い時代を迎えることになるでしょう。アセンションに向けて高い世界に飛躍するために多くの苦しみのカルマが解放してくるのです。この地が浄土となるためには、多くの苦しみを経験しなくてはなりません。夜明け前の闇が一番暗いのです。

 私は、約束された三十二の御魂の目覚めを心から待っています。何年も待ち続けていましたが、いよいよ残された時間もわずかになってしまいました。

 未だ覚醒していない彼らは、おそらく虚しい日々を過ごしていることでしょう。この世の楽しみは、いずれも彼らを真に満足させることはありません。高い神の世界から降りてきた彼らにとって、何も覚えてなくともこの世の楽しみや喜びは色あせたものに感じられてしまうのです。いかに友達や家族とともに楽しもうが、心の底から楽しみを味わうということがなかなかできません。いつも虚しさが心の奥に横たわっているのです。

 そのためでしょうか。三十二の御魂である人たちは自分自身の楽しみを追求するより人の役に立ちたいという思いが強く、奉仕やボランティアに参加している、もしくはそうしたいという思いを日頃から抱いているのです。しかし、果たしてボランティアすることが本当に人のためになるのでしょうか。一時的に人を助けられても、その人たちの死の前後に訪れるであろう苦しみを取り除くことは出来ません。彼らを一時的に助けることがその人たちの死後の苦しみを増大させる、そんなことはありえないことでしょうか。それよりも何よりも、生死を超越した、苦しみを超える生き方を教える方がよりその人のためになるのではないでしょうか。あるいは、人のためではなく自分の心を癒すためにボランティアをするということもあるのでしょう。その場合でしたら、結果的に自己満足ということになってしまいます。

 何を求めてこの世界を生きていけばいいのだろうか。三十二の御魂のひとりひとりが、このような問いかけの答えを待っているでしょう。もっと心から納得できる、自己を成長させるような、そんな道があってもいいのではないだろうか、と。

 もし、あなたがそのように感じていらっしゃるのでしたら、まずはあなた自身が謙虚であらねばいけません。傲慢になっていては、決して道は見えてきません。また、人の道を逃れるようなことがあってはいけません。人の嫌がることも為してはいけません。そうすれば、必ずや自分の歩むべき道は開けてくることでしょう。これは、三十二の御魂とその他のすべての人々にいえることです。

 

 

真我への道 三十二の御魂の役目

 三十二の御魂の役割は、およそお分かり頂けたかと思います。彼らが実際に担うことになるのは、第一が真理の伝播です。

 真理、この言葉は使いふるされた感があります。あらゆる宗教が「我こそが真理である」と主張しています。また政治・経済や恋愛などの分野でも、一つのセオリーに対して真理という言葉は使われています。真理という言葉の多用は、真理そのものの意味を希薄にしているように感じます。本当の真理の意味とは、一体何のでしょうか。

 真理とは真の理法、この宇宙全体を支配する普遍的な法則をいいます。ということは、一つの分野、狭いカテゴリーにおさまるものではありません。真理は宗教の枠を超越したところにあり、ある特定の人々にだけ通用するものでは決してありません。それは人類のためという枠すら超えています。真理はすべての魂のために存在するものです。

 私は仏教用語と哲学用語、その他の新しい概念に対しては私の造語を用いて、いろいろな法則の説明を行っています。一見したところ仏教を説いているようですが、そうではありません。私がここで皆さんにお伝えしようとしているのは真理です。仏教という一つの宗教の枠におさまっていません。

 しかし、私が仏教用語や仏教概念をもちいて法則の説明をするのは、お釈迦様が説いた法則、原始仏教が真理であるためです。お釈迦様は深い悟りを得て、その生涯でニルヴァーナに到達しておられます。そして、ご自分が経験された精神の飛躍のプロセスとそのための方法をしっかりと説いていらっしゃいます。同じようにその方法を実践していけば、誰もが必ずニルヴァーナに到達できますよと、お釈迦様はこのようにおっしゃっているのです。

 有史以来、お釈迦様を除いてニルヴァーナまで到達した魂はいません。ですから、他のいかなる宗教と比べても比較にならないほど、仏教は魂を最終目的地であるニルヴァーナに到達させるための智慧をたずさえています。なぜなら、他の宗教が魂の最終的な目的地に設定しているのは欲天の天界であったり静マナ識世界であったり、どれもニルヴァーナに至るための途中経過に過ぎない世界なのです。ですから、仏教以外の宗教には原始仏教にあるような、ニルヴァーナに至るための法則は存在しないといってもよいでしょう。

 実は、この法則こそが真理なのです。すべての魂がニルヴァーナに達するために必要な法則を真理と呼ぶのです。

 このような意味において仏教は他の宗教よりずっと優れているといえます。しかし、もしキリスト教が深い真理の法則を説いていたならば、私はキリストの言葉を使って法則を説いていたことでしょう。それはイスラム教だろうとシーク教だろうと神道だろうと、同じことです。私の中に宗教の一切の区別はありません。ただ、究極の真理であるか否かということだけです。

 仏教以外の宗教でも、人間より高い世界に移行するという最初の入り口は同じです。そのため、常に同じプロセスが必要とされるということが言えます。それこそが十戒です。仏教の十戒とモーセの十戒の半分は同じ内容です。仏教における戒とは、いわば神の生活習慣なのです。神は盗みません、嘘をつきません。むやみに他の生き物を殺すことはありません。同じように、人間が戒を守ることで神の生活や意識に近付けていくのです。この戒律の順守により自己の欲望を抑え、意識を高い状態に保ちます。戒律こそがすべての基本なのです。真理とは欲望や煩悩を肯定するものではなく、それらを乗り越えることで苦しみから自己を解放していく道なのです。

 三十二の御魂ひとりひとりは、間もなく真理に気付き真理を実践することになるでしょう。また、三十二の御魂の奉ずる真理のもとに多くの人々が集い、真理は多くの人々の実践するところとなります。三十二の御魂のもとに、それぞれに縁ある者が4500人ずつ集うことになっています。彼らは真人(まさびと)と呼ばれ、いわば三十二の御魂それぞれの弟子のような存在です。

 現在の彼らは、三十二の御魂以上に真理から遠い存在であるかも知れません。それがより大きな苦しみになるとも知らず自分の欲望を満たすことを追求するだけで、自己の欲望に翻弄されていることでしょう。今を生きる人々のほとんどがそのような生き方をしているからです。真理は欲望や煩悩を離れることで苦しみを乗り越えていくことであると申し上げましたが、真理に出会う前の彼らが自己の欲望や煩悩のままに生きていることは決して否定すべきことではありません。逆説的ですが、究極の真理のためには煩悩が役立つということがあるのです。

 まず念頭に置いていただきたいことは、自己の煩悩は自分を苦しみの世界に縛り付け、また修行を遅らせ真理そのものを見えなくさせてしまうもの、よって断ち切るべきものであるということです。真理に気付いた後は、そのような煩悩が立ち現われることに対して「申し訳ない」という思いを生じさせなくてはなりません。

 あなたの魂の成長は宇宙の意思であり、すべてのものがあなたを見守っています。それなのに、あなたが自己本位な煩悩に捕われ立ち止まっていることに対して申し訳ない、そのような思いは絶対に必要です。そうでなければ、立ち止まるどころかエゴをますます増大させ、あなたの修行は大きく後退してしまいます。ですから、通常の仏教では煩悩を絶ちきるのは当然とされています。仏門に入ったならば、異性や豪華な食事や華美な服装などは煩悩を呼び起こすものとして一切遠ざけて生活するわけです。

 これは全く知られていないことですが、そのような煩悩には実は多くの人々との縁を作るという側面もあるのです。

 例えば、人と争い競うことも煩悩ですが、その先には必ず競争相手がいます。競争相手が存在しなければ、そのような煩悩も存在しないと思いがちですが、真実は違います。自分の心に闘争心という煩悩が存在するからこそ、何もないところに競争相手や敵を作り出しているのです。もともと、そのような相手はいないのです。あなたの心から闘争心という煩悩がなくなれば、ライバルの存在も消えてしまいます。もしくは、その存在はまったく違ったものに変化するかもしれません。

 ここで申し上げたいのは、あなたは闘争心というものを仲立ちにしてライバルとつながっているということです。もし、あなたに闘争心という煩悩がなかったならば、ライバルと縁を持つことはなかったでしょう。ライバルの存在すらなかったことでしょう。このようにすべての煩悩は自分と相手をつないでいるのです。ですから、真理の教えに忠実に従って煩悩を断ち切っていくと、他者との縁も切っていってしまうということになります。こうすることで自己の浄化は急速に進めることはできますが、果たしてそれがよいことなのでしょうか。

 私たちの役目は多くの魂を救済することであり、自己の煩悩を切り捨て、自分だけを浄化することではありません。私たちの行うべきことは、他に慈悲を施すことです。アセンションを目前にして、いかに慈悲を多くの人々に広げなければならないか、ということです。そのためには自己の煩悩が役に立つのです。煩悩とはいわば衆生との縁をつなぐ道具です。

 煩悩が立ち現われた時は同じ煩悩で苦しむ人々に思いをはせ「自分が未だこのように煩悩を持っているから、同じように煩悩で苦しむ人々がいるんだ。その人たちに対して本当に申し訳ない」または「自分を導いてくれている神やすべての魂にお許しください」と思わなくてはいけません。そして、これが非常に重要なのですが、思念の上で同じ煩悩で苦しむ人々の苦しみを引き受けるということです。自分の中に彼らの苦しみが入ってくることで、彼らが煩悩そのものと煩悩から生じる苦しみから解放されるんだと信じなくてはなりません。

 修行の初期の段階では、「煩悩は退けなくてはならない」という観念を形成することは必要でしょう。それまでは煩悩を満たすことばかりをして生きてきたわけですから、「煩悩こそ苦しみの根源なのだ」という新たな観念はしっかり根付かせなくてはなりません。

 しかし、私たちはなんのために修行するのか、それはすべての魂を救うことにほかなりません。この慈悲の心こそが、この欲界を離脱しそして上位の静マナ識世界へ飛翔する手がかりなのです。ですから、煩悩とは単に断ち切ればよいものというわけではないのです。自己の煩悩さえも救済に利用していく手がかりにしていくのです。これこそ真の菩薩行なのです。

 

 

太陽

真我への道 天体の運行はアセンションのきっかけ

 地球は太陽の引力で引っ張られています。この引力がなければ、地球は太陽系のはるか外に放り出されてしまいます。そうなれば、地球が今あるような生物の生存に適した環境は当然失われてしまいます。 

 太陽とは慈悲の太陽神そのものなのです。隔たりなく、すべてのものに光を降りそそぎ、慈しんでいます。太陽の引力は太陽神の慈悲の力を意味します。太陽の引力は天体にだけではなく、地球上にいる私たちにも影響を及ぼしています。太陽の慈悲の力は、私たちの心の内在している慈悲の力を強めます。

  私たちに影響を与える天体として、最も知られているのは何と言っても月でしょう。月の引力は私たちのバイオリズムに影響を与え続けています。月の運行によって引力は変化し、人の行動に一定の傾向が生じるのです。例えば、満月の時は出産率が高くなることや突発的な犯罪や自殺の件数が増加することなどは、よく知られています。アメリカのニューヨーク市警は満月の日はいつもより警戒態勢を取るそうです。

 このような影響はなぜ起こるのでしょうか。それは、満月というのは太陽・地球・月という順番で三つの天体が一列に並んだ時に見られます。その時、月が太陽と反対方向にあるために、月の引力が反対方向に働き太陽の慈悲の引力を弱めてしまいます。月の引力は慈悲の反対方向、つまり自己の欲望・煩悩を満たそうというエゴの方向に働きます。これは、意識を下降させるアパーナ気という下向きのエネルギーが増大する結果になります。よって、満月の日は人々の衝動的・攻撃的な感情が高まり、したがって犯罪件数も増加するのです。

 反対に新月の時はどうなるかというと、太陽・月・地球の並びになることで、地球から見ると太陽と月が同じ方向になります。よって、太陽の引力に月の引力が足されることで、太陽の慈悲の力が増大します。意識を下降させるアパーナ気は、上昇のエネルギーに転じます。よって、新月の時は満月と同じように引力は強いのですが、全く逆の作用を発します。満月

 人の出産率も新月の時が最低になるそうです。出産では下に向かうエネルギーが働くのですが、その下向きのエネルギーが減少するからだと考えられます。また多くの人々が精神的・内向的になる傾向があることもわかっています。一般的には月の引力が私たちのホルモンバランスに影響を与えて、このような変化が生じるのではないかとされています。しかし、それも含めて、太陽と月の配列は私たちの霊的な部分、つまり慈悲の意識や生命エネルギーに影響を与えているのは間違いありません。

 太陽系は円盤状の銀河系の中に含まれています。銀河系の内側である地球から銀河系を観た場合、天の川として見えます。そして、天の川の一番明るく、一番太く観える部分が銀河系の中心にあたります。太陽系は銀河系の中心から約2万5千光年離れた位置に存在しています。そして、太陽は銀河系の中心を公転しています。つまり、銀河系の中心から引力はこの地球にも及んでいるということです。

 何度も申し上げましたが、銀河の中心に近い場所ほど、高い意識の神が住んでいます。その中心に引っ張られるということは、意識が上昇し神の意識に近付くことを意味します。つまり銀河系の中心に向かう引力が増せば、新月の時のように慈悲の意識が上昇します。

 夏は地球が銀河系の中心に最も近付く時です。では夏が一番意識の上昇が起こるのかというと、実はそうではありません。夏以上に冬の方が意識の上昇は起こります。夏は銀河の中心・地球・太陽の順に並びますが、地球は太陽の周りを公転しているため、冬は銀河の中心・太陽・地球の並びに変化します。冬には地球は太陽を挟んで銀河の中心から遠ざかってしまっています。地球の軌道上で銀河の中心から一番遠い位置にいるのにもかかわらず、慈悲の意識は増大します。

 これはどういうことかといいますと、銀河の中心・太陽・地球の並びになった時は、地球から見ると銀河の中心と太陽の方向が同じであるため、銀河の中心方向に向かう力にさらに太陽の引力が加わることになります。そのために銀河の中心から一番遠いにもかかわらず、物理的にも最も強い力で中心に引っ張られるのです。これは、新月の時に太陽・月・地球という配置になることで、太陽に向かう引力が増し地球人の意識が上昇するのと同じ理論です。

 また、地球が太陽よりも外側の宇宙に向かうことは、太陽の光の届かない、地球より濃い暗闇の世界へ救済に乗り出すという意味合いがあるのです。銀河の中心に近づけば近づくほど高い意識の神々の世界になるのですから、その逆に銀河の中心から遠ざかれば遠ざかるほど、低い意識の生命体の世界になってしまいます。そこは同時に苦しみの世界であり、そこに住む生命は苦しみから逃れることだけに集中しています。

 ここで地球を自分自身であると思ってみてください。そのようにお考えいただけると、苦しみだけの暗い世界に光を与えるべく銀河の中心に背を向け遠ざかる、そんな冬季の地球は自己犠牲をともなった慈悲の象徴ともいえるでしょう。それが地球人全体に影響を与え、慈悲の意識を増大させるのです。

 このように銀河の中心・太陽・地球の並びになった時は物理的・精神的にも銀河の中心に向かう力が働くといえます。

 2012年の冬至をかわきりに慈悲の引力が上昇し、その後最高潮に達するでしょう。この時にアセンションは起こるはずです。

 冬至の時三つの天体の並びは、最も人々の意識の上昇を招く、銀河の中心・太陽・地球の配列です。この時を起点に、大いなるアセンションのために時代は大きく変わっていきます。三つの天体の配置は、そのきっかけとなる要因のひとつです。

 地球人全体の意識が銀河系の中心に向かって引っ張られ意識が上昇し、真理に目覚めていくのです。人々に真理をつたえる役割を果たす三十二の御魂にとって、これは大きな追い風になることは間違いありません。そして例年通りであるならば、春に向けて三つの天体の配列は崩れ人々の意識は低下していくはずですが、2012年からは地球人全体の意識は低下することなく、逆にさらなる上昇に向かっていきます。

 真理を行じ慈悲の行いをする人々がますます増えるはずです。それこそ、人類が神の意識に近づくことを意味しています。このような世界になって、初めて救世主は私たちの前に現われることでしょう。

 

スメール山

真我への道 アセンション、銀河の中心に帰れ

『阿毘達磨倶舎釈論』(世親)によると、仏教の宇宙観というのは右の概略図のようになります。海の中に浮かぶ四つの大陸と中央のスメール山(須弥山)とその周囲の山から構成されています。(スメール山以外の山は、この図では省略させていただきました。)スメール山は神々の住む聖なる山であり、その山頂には第二天界の帝釈天(インドラ)とその弟子である32の神々が住んでいるとされています。また、スメール山麓には、第一天界の四天王天(してんのうてん)という人間界を守護してくれる神様が住んでいらっしゃるということです。私たち人間は、スメール山の周囲にある大陸に住んでいるとされています。中央に行けば行くほど、高い位の世界になっています。仏教ではこのような宇宙観を持っており、曼荼羅などでそれを表わしてきました。

 現在の私たちは望遠鏡で宇宙を丹念に観測し、また実際に観測機を打ち上げることで、宇宙の構造についてかなり多くのことを理解するようになりました。ですから、先程申し上げたような仏教の伝統的宇宙観をそのまま信じる方はいないだろうと思います。仏教的な宇宙観は単なる象徴です。しかしながら、このような象徴的宇宙観が実際の銀河系の分布を的確に現わしているという事実にお気づきになる方はいらっしゃるでしょうか。銀河系

 私たちの地球は太陽系の第三惑星であり、太陽系は銀河系の端に位置しています。左の図は、銀河系の銀河円盤です。黒い点で表わした辺りに太陽系があります。およその図ではありますが、銀河の中心からはかなり外れたところに太陽系が存在しているのがお分かりいただけるかと思います。

 意識の高い生命体ほど、この銀河系の中心近くに存在しています。私たちの銀河系の中心こそがスメール山の頂が象徴していた第二天界、帝釈天なのです。つまり、帝釈天は銀河系の中心に存在する地球外生命体、宇宙人なのです。そして、帝釈天の弟子である三十二の御魂も同じように宇宙人です。彼らは地球人よりはるかに高い意識と文明を持った宇宙人であり、神なのです。

 私がなぜこのような突拍子もない話を皆さんに延々とお話してきたのか、それは来るべきアセンションに関係があるからです。

 以前お話しましたが、2012年に始まるとされるアセンションを導いていくのは、帝釈天の化身である救世主です。救世主が私たちを高次の世界である静マナ識世界に導くのです。帝釈天の弟子である三十二の御魂は、救世主のためにすでにこの地球に転生してきています。来るべきアセンションのために、その準備段階として人間の意識を上げようとしているのです。そして、救世主が降りてこられるほど人々の意識が浄化されたあかつきには、アセンションが行われることになるでしょう。

天の川銀河

 上の図は地球から天の川、つまり銀河系の中心を観たものです。三十二の御魂の為すべきことは、まず銀河系の中心に戻ることです。スメール山の象徴である銀河系の中心を目指さなければなりません。そのために、地球に身を置きながら故郷である銀河の中心に意識を合わせるといきます。自らの意識を、神の意識である帝釈天の意識に沿わせていく必要があるのです。そして、自分の周りの人々、多くの人間の意識もそれに同調させ、帝釈天の意識に変化させていくのです。そして、多くの人々とともに実際に帝釈天である第二天界に昇るのです。そこから、帝釈天によってさらに高い世界である梵天に導かれていくのです。 

 帝釈天の意識とはそもそも一体どんな意識でしょうか。それは慈悲そのものであり、他のために自己を犠牲にすることすら厭わない意識です。他者の苦しみを自己のものとして、それを感謝する意識です。このような意識こそが、アセンションを動かす意識です。このような意識になるべく、今までの自己を形成していた利己的な思いを削ぎ落とし、魂を純化していかなくてはいけません。

 この夏、私は一冊の本を刊行しました。それは一人でも多くの方に慈悲の心を理解し、慈悲を心に宿していただくためです。著書の中でその具体的な方法も紹介しています。聞いたこともない法則かもしれませんが、実践していただければ確実に心の変化は訪れるでしょう。このサイトの中でも、具体的な慈悲の実践についていくつか紹介していこうと思っています。

 これを読む人々は間違いなく運命に導かれ、ここまでたどり着いた縁ある魂に間違いないと思っています。三十二の御魂のうちの一人、もしくはその弟子である真人(まさびと)であるはずです。アセンションまでもう時間があまり残されていません。そのよう人々に一日でも早く慈悲の心を築き上げていって欲しいのです。私は何の団体も持たず、力もありません。しかし、そのためには私に出来るすべてを行なうつもりでいます。どうぞ、少しでも興味をもたれた方は真理の実践を試してみてください。一月、二月と続けるうちに、何らかの心の変化は見られると思います。

 願わくは、これを読むすべての人々の心に慈悲の光が宿りますように。

 


真我への道 (1)アセンション、真の意味とは

                                         (2011/12/14)

 地球規模の意識大変革が2012年12月冬至をきっかけとしてその後5年半のうちに起こる、そしてその助走期間に人類は未曾有(みぞう)の苦しみを味わうことになるとお話してきました。このような発言は皆さんの不安をあおるようで申し訳ないとも思うのですが、この意識大変革が起こることは既に決定づけられています。

 できましたら、これを自己の意識変革のための素晴しいチャンスであり、それまでの暗黒期は自己の心の内奥に潜んでいた穢れが表に出る浄化期間であると肯定的にとらえていただきたいのです。実際にこの欲界全体(天界・修羅・人間・貪り地獄・迷妄地獄・激苦地獄)を巻き込んだ、壮大な地球規模の意識大変革計画は悠久の時をかけて少しずつ進められてきたものです。私たちがこの時代に生き、この意識大変革を我が事として経験できるのはあり得ないような僥倖(ぎょうこう)なのです。

 しかし、そうであってもアセンション自体はひとつの過程に過ぎず、通過点です。アセンションの後も絶対世界である究極のニルヴァーナへの道程はまだまだ続きます。アセンションして終わりということは、絶対にありません。

 しかも、最終地点であるニルヴァーナに到達するまでは私たちの経験する世界はすべてが幻影であり、いかなる出来事も幻影球体世界の中の物語でしかありません。もちろん、アセンションも幻影のひとつです。しかし、あなたの幻影球体世界の物語の中にアセンションが用意されているということは、何かしらの意味があるということです。この意識変革の時に自分がどのような立場でどのような役割を果たすかによって、アセンションの後の道程も全く違ったものに変化することでしょう。

 今これをご覧になっている方に、私は強く申し上げたいのです。あなたはアセンションにおいて、誰かに付随して受動的に意識変革を果たす魂ではないのだということを。あなた自身が多くの魂をひっぱり、彼らを意識上昇に導かねばならぬ魂であるということを。

 そのためにこのアセンションは用意されていると言っても、決して過言ではありません。そうでなければ、アセンション自体が形だけのものとなってしまうでしょう。この記載をご覧になっているあなたは、すべての魂を救うためにこの世界に生まれた三十二の御魂、もしくはそれに続く14万4千人の真人(まさびと)のいずれかであることはおそらく間違いないでしょう。

 今まで申し上げていましたように、アセンションは彼らによって口火が切られることになります。あなたに必要なのは「自分は救済のために生まれた魂であり自らの肩に多くの魂の命運がかかっている」という自覚です。あなたが目覚めることにより、あなたは多くの魂を救うことが出来るのです。

 

真我への道 (2)三十二の御魂と14万4千人の真人

 14万4千人という人数に既視感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。これは、新約聖書の最後にある、唯一の予言の書『ヨハネ黙示録』第7章に記さています。ざっと申し上げれば、このような内容です。

 ユダヤ12支族からそれぞれ1万2千人ずつ、つまり1万2千人×12で14万4千人が神に選ばれました。神の御使いの手によって、聖別された証として14万4千人は額にしるしを押されます。彼らは純潔な者、神に忠実なる者、そして口に偽りなき者、傷なき者でした。14万4千人以外の人々は神との契約を守らなかったことにより滅ぼされます。そして生き残った14万4千人は神とともに1千年にわたる神の御世を享受することを許される、このように記されています。

 これは何を意味するのでしょうか。本当に14万4千人だけが救われ、他の人々は自ら犯した罪によって滅ぼされるのでしょうか。多くの宗教がこの14万4千人に対して、様々な解釈を付けています。実際に額面通り14万4千人のみが救われるというものや、例えではないかというもの、また14万4千人の意識が変革することで地球の全体意識に連動しすべての人々が意識変革を果たす、最初の起爆剤としての最小人数であるというもの。

 諸説ありますが、私のインスピレーションはそのどれとも異なります。少しわかりづらいかもしれませんが、ご一読くだされば多くの方が納得されるのではないかと思います。

 これは例えですが、私達の身体はおよそ60兆個の細胞から構成されています。その細胞のひとつひとつが意思を持っているとお考えください。細胞は自分の魂を信じて疑わず、自分が単なる細胞のひとつであることが見えない状態です。そして肉体の主である「あなた」の存在(高次の存在)に気付かず、自分は完全な固体であると信じています。上から下を見ればその存在はわかりますが、下から上を見上げても高次の存在はわかりません。

 同じようなことが、人の身・口・意についてもいえます。実は自分が今生(こんじょう)培った身・口・意の行為、その集積によって三悪趣(激苦地獄・迷妄地獄・貪り地獄)が存在します。それらは私たちから見ると単なる感情や行為にしか見えないものですが、その集積の立場になってみると自己の魂というものが実在しているように感じています。感情や行為は、それぞれ一人前の固体であるという意識を持っています。先ほどの例でいいますと、意識を持った細胞にあたります。このように高次の世界から見れば、単に感情や行為という実体なきものに見えるものであっても、ひとつひとつの感情や行為という低い世界のレベルで見れば自分が実在しているように感じているのです。しかし、人間の方から彼らを見ても単なる感情や行為がそこにあるだけで、意識を持った魂というものは何ひとつ存在していないように感じます。

 ひとりの人間がその生涯でなす身・口・意の行為は無数にあります。実際に身体を使って行為することだけでなく、発する言葉のひとつひとつ、一瞬一瞬の思いも全部がひとつの行為であるとされます。その行為ひとつひとつが意識を持つと考えましたら、人間ひとりに対して無数の三悪趣の魂に枝分かれするということです。高い世界の魂は、それよりも低い世界に移行すると分化します。このように魂はこれ以上分けられないものではなく、低い世界にいけば分化していきます。

 この感情や行為は、三悪趣の世界の住人として位置づけられます。私達の身・口・意がそれぞれ意思というものを持ってしまったがゆえに、それらは周りの世界に実体を見出しています。すると、そこには苦しみが発生します。実体があると感じるからこそ、現象に捕らわれ苦しみを感じるのです。しかも、それらが感知するのは人間界とは比べ物にならない、恐ろしい苦しみであり、それが延々と続いているのです。

 さらにいいますと、これは人間より下の世界についてのみ当てはまることではありません。同じことが神と私たちの関係においてもいえます。私たちは、誰もが自分はこの世界に実在していると思い込んでいます。「自分はこんな外見で、こんな性格で、こんな好き嫌いがあって、こんな声をして、ここにいるんだ」と思っています。つまり、自分いう存在に実体を見出しています。しかし、人間以上の高い世界の神から見たら、実在している人間などありません。ただ、そこには神から見た「自分(その時の神)の意識」があるだけなのです。そして、神がこの人間界に降りてくるとしたら、神の御魂は複数の人間に分化することになります。

 ここまで申し上げればお分かりになる方もいらっしゃるでしょう。第二天界である三十三天(とうり天)に存在していた三十二神は自己の深い意識の中に苦しんでいる魂を見出し、彼らを救うために地球に降りてきました。その時、三十二神は真人として生まれ変わりました。三十二神のうちの一神が人間になった時、4千5百人の人類の魂となります。神である一つの魂が4千5百人の人間に分化したのです。つまり、三十二神全員で14万4千人の真人(人間)に生まれ変わりました。

 そして一神が4千5百人に分化することで、より多くの他者と関わり彼らと縁をつなぎました。おそらく、それは亡国の後世界中に離散したユダヤ人の如く、世界中に広がる必要があったのです。ユダヤ人は各地に根を下ろし、あるものはその地に同化し、あるものは民族のアイデンティティーを保ち続けました。同じように真人も世界中に広がり根を下ろし、その地で多くの魂と縁を持ちました。この縁によって、三十二神であった真人はこれから救済を始めていくのです。

 真人14万4千人以外の地球人に関してですが、この人たちの魂は実は本来三悪趣に生まれるべきものでした。それほど三悪趣のカルマの強い魂なのです。しかし、なぜ今生彼らがこの地球で人間としての生を受けたのかといいますと、三悪趣の魂がこの地球で真人と接点を持つようにするためです。14万4千人の真人と縁をつなぎ、彼らに救済されるためにこの地球に生まれてきたのです。

 このようにいうと非常に差別的に聞こえるでしょうし、誤解される方もいらっしゃるでしょう。しかし、先ほどの話を思い出していただきたいのです。本来三悪趣にあるべき魂というのは、実は人の感情や行為が意識を持ったものです。彼らは真人の魂がさらに分化したものに違いないのです。ですから、三悪趣に堕ちた哀れな魂を救うためというより、自己の心の奥深くに苦しむ魂を見出しその救済のために真人は地球に降りてきたといえます。アセンション自体がそのために用意されたのです。自己の身・口・意の悪しき要素、それによって苦しんでいる魂を救うためにアセンションという物語があなたの幻影球体世界に設定されたのです。

 そして真人であろうと煩悩に引きづられ悪業ばかりを積んでいれば、三悪趣は免れません。もちろん真人はそれを承知で降りてきているわけですが。結果論かもしれませんが、そのような運命になるのならその魂は真人ではなかったといえます。逆に、今は自己の幸福ばかりを追求し非常に煩悩的に見える人、十分に楽しんでいるような人でも、約束された魂である真人なのかもしれません。実は自分では気付いていないだけで、楽しんでいる振りをして自分を誤魔化しているだけなのかもしれません。運命の道筋は決まっていますが、実際にどのような現象になるかは未だ決定ていないのです。

 

真我への道 (3)真人のこれから

 真人は、このアセンションを成功させ多くの魂を救うという使命感を持って地球に生まれてきました。この地球に生を受けた後は、普通の人間として暮らしていたはずです。家族や友人、同僚に交わり、楽しみや苦しみを共にしてきたことでしょう。しかし、人生のどこかにおいて真理にめぐり合い、人生を転換する時が訪れます。その時から、自己の煩悩を削ぎ落とし、今まで多くの人と交わることで築き上げた縁を真理の縁に変えていかなくてはなりません。

 もう少し具体的にご説明いたしましょう。真理に目覚めるまでの人生の中で、私たちは楽しみや苦しみを仲立ちに多くの人と繋がってきました。例えば、家族とは情を仲立ちとし、恋人とは愛欲を仲立ちとし、敵というべき存在があったならばその人とは憎しみを仲立ちとし繋がっていました。この繋がりこそが縁であり、仲立ちとなってそれらを繋ぐものが煩悩です。私たちは、煩悩によって多くの人々と繋がっているのです。

 しかし一度真理に目覚めれば、煩悩が苦しみそのものであること、そして煩悩こそが私たちをこの世界に繋ぎとめる足かせであるという真実を理解するはずです。今まで築いてきた他者との縁も、煩悩を仲立ちにしたものから真理を仲立ちとする縁に変えていかなくてはいけません。それは周りの人よりいち早く真理に目覚めたあなたが、煩悩にいまだ振り回され自己の苦しみに埋没している、縁ある人々の苦しみを吸収していかなくてはいけないということです。つまり慈悲に基づく縁にシフトさせていくのです。

 苦しみに埋没し真理に気付かない彼らに慈悲を施し、彼らの、苦しみで曇った眼を晴らさなければなりません。それが真理に気付いたものの役目です。徹底的に他者の苦しみを引き受ける慈悲の実践をしなくてはいけないのです。

 あなたの周囲にいる人々を救うことのできる魂は、あなたしかいません。私が救えるものならそうしたいのですが、私では駄目なのです。お釈迦様の言葉に「縁なき衆生は度し難し」という言葉がありますが、お釈迦様ですらご自分と縁のない魂は救えないのです。つまり、あなたの家族や友人・知人、あなたと縁ある人々はすべて、他でもなくあなたによって救済されるしかありません。

 縁ある他者に慈悲を施し彼らの苦しみを引き受けるという実践を14万4千人の真人がエゴを捨て徹底的に行うことで、この地球規模の意識大変革は果たされます。14万4千人がそれぞれ自分に縁ある人々の苦しみをすべて引き受け背負うことで、すべての魂が自己の苦しみを乗り越え高い世界に移行することが可能になるのです。そのために、選ばれた14万4千人はその時が来るまで慈悲を思念し続けねばなりません。少しでも多く、他の苦しみを引き受けなくてはなりません。そうでなければ、この地球規模意識大変革は必ず失敗します。このアセンションはすべての魂が意識変革を果たすために、この苦界を越え梵天に移行するために用意されたものです。お膳立てをしたのは欲界の神々ですが、それさえより高い世界の神に誘導されただけに過ぎません。どれほどこの14万4千人に大きな期待がかけられているか、それは計り知れません。

 また14万4千人の真人自身も、どれほどの覚悟を持って人間界に転生してきたことか。本来は天界に存在していた彼らがこの地球に生まれることは、実はとても大変なことです。天界の記憶を失い普通の人間として生まれ煩悩にまみれて生きる、そのまま普通の人間として真理を理解することなく煩悩の中で一生を終えることだってあり得るのですから。それでも、すべての魂を救わねばならない、救世主のお役に立たねばならない、その一心で危険を顧みずこの地球に転生することを選んできているのです。

 ですから、すべての魂を、第六天界を含めた欲界を超えた梵天界に引き連れていかなくてはなりません。ひとりとて取りこぼしてはならないのです。救世主のもとにすべての魂を集結させるのです。すべての魂とともに救世主に導かれ、この苦しみの世界である欲界を後にするのです。そして、誰もいなくなった世界に幕を閉じなくてはなりません。そうでなければ、アセンション自体に意味がなくなってしまうのです。

 真人たちはこの人間界に生まれることを決意した時、既に一度おのれを捨ています。いま一度自己を捨て、真理の実践に身を投じなくてはいけません。何としても私たちはこのアセンションを成功させねば、そうでなければ私たちは一体何のために生まれてきたのでしょうか。

 

真我への道 (4)帝釈天がすべての魂を高い世界に送る 

 なぜ、これほどまでに14万4千人に少しでも多く他者の苦しみを引き受けなくていけないと主張するのかといいますと、それはアセンションの仕組みとも関係しています。

ヴァジラ

 実際にアセンションを迎えた時、多くの苦しみを背負った真人は救世主に導かれ、まず第二天界である三十三天に上ることになります。三十三天は銀河の中心であるブラックホールに存在しています。三十三天の中心である神は帝釈天であり、この帝釈天がアセンションの第一の要なのです。救世主自身も帝釈天の化身なのです。

 そして欲界を超えるためには、帝釈天の導きが不可欠です。欲界の頂点に君臨する第六天界の神でさえ欲界から離脱するためには、帝釈天に従わねばなりません。それゆえ帝釈天は欲天の王とされています。

 しかし、なぜ王であるはずの帝釈天が欲界の頂点である第六天界ではなく、第二天界という下から二番目の天界に存在するのでしょうか。私の本にも書いたのですが、帝釈天率いる三十三天が第二天界に位置しているのには理由があります。それは、第三天界の閻魔大王の裁きを受けるためです。閻魔大王は自分より下の世界にいる魂を善悪によって裁き、「悪業多き魂は地獄へ、善業多き魂は天界へ」というようにその魂の転生する世界を決定しています。三十三天の魂は、他者の為した悪業も自分のものして引き受けてその悪業に対する裁きを受けます。そして、たとえ身代わりになって地獄に落とされても構わないという強い慈悲の心を持っています。他者の悪業はあくまでも他者のものであるとし自分の善業のみで閻魔大王の裁きを受けたならば、その魂は第四天界に転生することでしょう。しかし、そのように自己の善業を積むことだけに集中し他者の積んだ悪業を他者のものであるとしか見られなければ、その魂は第二天界以上の世界には行けても、欲界を超えることは出来ません。他者の悪業も我が事として喜んで罪を引き受けるような自己犠牲を伴った慈悲を持つ事によってのみ、魂は欲界から抜け出すことが出来るのです。つまり真人に求められるのは、このような心を再び取り戻すことなのです。

 欲界の王である帝釈天(たいしゃくてん)は三十三天の真ん中にそびえ立ち、ヴァジラ(金剛杵)を振り回しています。その回転音が三十三天中にブーン、ブーンと響き渡っているのです。帝釈天や三十二神は、私のインスピレーションによると非常に大きい体をしています。いわゆる巨人です。帝釈天はその巨体を使って、光の帯状のものでヴァジラを身体の側面でブンブン振り回しています。

 帝釈天が振り回しているものは投石器に似た、光の帯ようなものです。この投石器とは古代より世界中で武器として使われてきたものです。チベットでは現在も遊牧民が牧羊のために使っているようです。使い方を説明しますと、投石器のひもの一端はループ状になっています。ひもの中央は他の部分よりひもが太くなっています。通常はこの部分に石を包むのですが、帝釈天は石の代わりにヴァジラを包んでいます。それから、手からすり抜けないようにループを手首に通しひもを固定し、もう一方の端は手に握ります。そして体の側面でぐるぐると投石器を回し十分に回転速度がついたら、しかるべき地点で握っていたひもを手放します。すると、遠心力によってひもの中央に包まれていた石が遠くまで飛んでいきます。手首に固定された投石器だけが手元に残るという仕組みになっています。このような投石器に似た光の帯を使って、光より早い速度で帝釈天はヴァジラをはるか彼方まで飛ばしているのです。

ヴァジラを飛ばす帝釈天 












 

しかし、なぜ帝釈天がヴァジラ(金剛杵:こんごうしょ)を彼方まで投げ飛ばす必要があるのか、ヴァジラとは何なのか、おそらくこれを聞いただけでは全くご想像がつかないかと思います。私の見たヴィジョンの意味合いをご説明させてください。

 帝釈天が彼方に飛ばしているヴァジラとは「金剛(ダイヤモンド)=絶対壊れることのないもの」であり、真人の金剛の身・口・意を表しています。慈悲に対する金剛の身・口・意、慈悲の太陽神に対する金剛の帰依の身・口・意を表しているのです。帝釈天は真人の意識をはるか彼方の世界へ送り出しているのです。この欲界を跳び超えさせ、遠く梵天の世界まで。

 そして、真人が地球で他者の苦しみをたくさん引き受ければ引き受けるほど、帝釈天によって遠くまで飛ばされ、より高い世界に上がることが出来ます。他者の苦しみを引き受け背負うことで真人の身・口・意の比重が増します。その重みによって遠心力が大きくなり、より遠くまで飛ばされるようになります。

 この地球でいかに他者の苦しみを引き受けたか、それによってその後に自分が達する世界の高さが決定されます。ですから、真人がエゴを捨て他者の苦しみを少しでも多く引き受けたいと思うことが大切なのです。他者の苦しみを背負えるだけ背負って、帝釈天に高い世界に送り出してもらわなくてはなりません。

その実践は、今しか出来ません。本当に世界が苦しみに覆われる前に、自分の苦しみだけで精一杯になる前に、少しずつ自分自身が苦しみに強くなって誰かの苦しみを引き受けられるようにならなくてはいけないのです。これを読んでくださいました、あなたが一日も早く他者の苦しみを自分のものとすることが出来るようになることを願います。

このページのトップへ 

トップへ