玉置宏千の世界観

アセンション、これから起こるのは

 

真我への道 日本のこれから

 私たちは日本に生きています。この日本という国は特別な国であると思います。これからの時代、それが徐々に明らかにされていくはずです。私のインスピレーションでは、日本固有の事物のいくつかはその証であるといえます。

 そのひとつに、この日本の掲げる国旗日の丸があります。賛否両論ありますが、この国にとって日の丸は最も誇るべきもののひとつであると私は思っています。なぜなら日の丸は空に輝く太陽を表わしており、それは最高神であられる慈悲の太陽神の表われにほかならないのです。

 私は深い瞑想に入り、巨大な真我のヴィジョンを見ました。それはユリの花のような形をしていました。しかし、蝉の羽のように薄い花びら状のものの中には、おしべやめしべではなく透明な球体が包まれていました。かすかに白味を帯びた水晶のような、その球体の中には、さらに透明な赤い球体が内包されており、それが花びらの間から覗いていました。(この巨大な真我は小さな真我が寄り集まってできた形であり、真我の最高の状態を表わしていると思われます。)

 驚くべきことに、その巨大な真我のヴィジョンは日の丸そっくりでした。というより、真我を模して日の丸が作られたのだということ、日の丸とは、真我についてのアーラヤ識のデータがこの世界に現れ出たものであったということがその時、自然に解されました。 

 またヴィジョンは変化しました。今度はその片開きの真我が幾重にも花びらを開き、まるで蓮華のように水面に浮かんでいる姿でした。そして、真我の中心にある赤い球体が水に移った様子は、私に旭日を連想させました。そうです、海面から昇る朝日を映した旭日旗もまた真我の別の姿だったのです。つまり真我とは太陽であり、慈悲そのものとしての最高神であり、それを明示するのが日の丸と旭日旗なのです。

 真我を象徴する二つの旗を掲げられる、私たち日本民族とは一体どういった民族なのでしょうか。それは、日本民族は約束された太陽民族であるという表われではないかと私は考えています。

 いろいろな時代を超えて、私たちは地球の終末期に差し掛かっています。アセンションの時、人類の文明は崩壊することになるでしょう。日本人はこのアセンションの導火線となれる民族のひとつです。日本人の多くは、戒律を守り自己を律していくことのできる性質を有しています。そして、生死を超えてこの六識世界(欲界)を超えて、その上の世界である静マナ識世界に上がっていく素質を十分に備えているのです。

 これからの時代、日本はどのような道をたどっていくのでしょうか。2011年3月11日より日本は暗い影に覆われています。今なお福島の第一原発から放射能が漏れ続けています。このままいけば、日本全土が放射能漬けになってしまうことでしょう。日本を覆う暗い影、実はそのすべてがアセンションを目前に悪しきカルマが一気に噴き出したことによって生じた現象なのです。

 高い世界に飛翔するために、重荷となるような悪いカルマはアセンションの前にすべて消費しなくてはならないのです。苦しみの原因となるようなカルマを持っている限り、苦しみのない世界にはいけないのです。このため、アセンションに至るまでに日本のみならず世界はかつてないほど暗い時代を経験しなくてはならないのではないかと私は危惧しています。いつも夜明け前の闇が一番暗いのです。

 この理論で未来を読み解けば、たとえこの福島第一原発の放射能漏れが収束に向かおうとも、日本人のもつ苦しみのカルマが底をつかない限りは、おそらく他の不幸な出来事が次々と起こってくるでしょう。世界経済の崩壊の可能性さえ否定できません。その時、日本はどのような立場に立たされることになるのでしょうか。それについての私の見解は、また別の時にお話しましょう。

 今、東北で、紀伊半島で被災され苦しんでいる方々、その人たちのカルマが他に比べて悪い訳ではありません。決して、そんなことはありません。日本人全体、世界全体にカルマの解放は訪れ、すべての人が自分自身のこととして苦しみを経験しなくてはなりません。それに先立って苦しみを経験された方々は身を持って、私たちに苦しみの何たるかを教えてくれているのです。それから学びを得ることで、私たちは変わらなくてはいけません。

 慈悲を学び、来たる苦しみに備えて自分たちの意識を変えていかなくてはいけないのです。日本全体の意識の浄化をなさなければならないのです。時代の流れは、明らかにアセンションに向かって動いています。これをご覧になる皆さんに、今こそ目覚めがおとずれますように。

このページのトップへ 

トップへ 

真我への道 アーカシックレコードを読める人が増えてくる

                                          (2011/10/18)

アーカシックレコードというものをご存知でしょうか。この世界のすべての情報がデータとして記録されている、いわば全宇宙の図書館のようなものです。

 アーカシックレコードはどこに存在するのでしょうか。この世界は自己の心の現われであると、以前お話しました。アーカシックレコードも例外ではありません。自己の心の中にあります。しかし、私たちの通常の意識よりずっと深い意識にあるため、ほとんどの人はアーカシックレコードに触れることは、まずありません。 瞑想に熟達した人や霊能の力を持つ人が深い意識の世界に繋がることで、このデータを読み取ることが出来るのです。

 この深い意識を「明アーラヤ識」と私は呼んでいます。これは超潜在意識のことです。「アーラヤ」とは「蔵」という意味です。つまり「データの蔵」です。これがアーカシックレコードなのです。

 アーカシックレコードのデータには、およそ二種類あるとお考え下さい。勝義諦といわれる絶対の真理のデータと、世俗諦という世俗の真理のデータです。

  まず勝義諦からご説明しましょう。私たちはひとりひとりが、幻影なる独自の世界に住んでいます。現実という夢を見ているようなものなのです。私は、その世界を幻影球体世界と呼んでいます。勝義諦というのは、すべての魂がこの幻影球体世界を崩壊させニルヴァーナに到達するための普遍的真理のデータです。ニルヴァーナとは唯一実体のある世界であり、絶対の幸福と自由があります。涅槃ともいい、お釈迦さまが到達された境地を指します。つまり勝義諦のデータとは、仏陀に至るための最高のデータなのです。私が皆さんにお伝えしたいのは、この勝義諦のデータです。

  もう1つの世俗諦は世間一般における真理というべきものです。これは個々の人間のデータです。もっと正確に言うならば、幻影球体世界の中で設定された物語の、幻影の個人情報です。「リアルな夢のあらすじ」のようなものとお考えいただいてもよいかもしれません。例えば「あなたの過去生は誰それですよ」「あなたの将来はこうなりますよ」などなどです。これらはすべて個人の情報です。本人が認識や記憶をしていなくても、そのデータはしっかり存在しています。アーカシックレコード・リーディングの出来る方は大抵こちらのデータを読んでいるようです。

  世俗諦のデータについて、私はほとんど読むことがありません。他の方にもこのようなことをしたら病気が治るとか、この道を通れば事故を避けられるとか、そういったことをお話することはありません。 なぜかというと、世俗諦のデータに集中することは、この幻影の世界での出来事への捕らわれを増大させるからです。捕らわれが増せば真理そのものが見えなくなってしまう危険があるのです。よって、本当に必要な時にしか世俗諦のデータは見ることはありません。

 そのかわり、勝義諦のデータはいつでも読むことが出来ます。たとえ自分の知らないことを突然に質問されても、ほとんどの場合アーカシックレコードを読むことで答えは得られます。誰かに質問されることで、初めて自分も知ることになった法則もあります。

 これから、アーカシックレコードを読むことの出来る人はどんどん増えてきます。特に世俗諦のデータが読まれるようになるでしょう。それだけではなく、超能力を使える人も多く現われます。超能力の力自体も強くなる傾向にあります。夢のような力を持っている人もたくさん出てくるでしょう。 これはアセンションが近づいてくるために起こる現象のひとつです。これを説明するには、まず業(カルマ)についてお話する必要があります。

 業(カルマ)とは原因と結果の法則です。自分が他者に何か行為したという原因と、次に自分に為されるという結果のふたつを業(カルマ)といいます。原則として自分が誰かに何らかの行為することで喜びを与えたのなら、それは喜び(楽)の原因体を作ったことになります。そして、未来において自分も誰かに何らかの行為をされ喜びの経験をするという結果になります。これが業(カルマ)の現象化、もしくは業(カルマ)が返ってきたと表現します。苦しみも同様に、ほとんどの場合は他者に苦を与えれば苦が返ってきます。「原則として」と断りを入れましたのは例外もあるということですが、これもまた段々にお話できればと考えています。

 話を超能力の方に戻しましょう。ここでは、特に楽のカルマを多く持っている人が関わってきます。その人は過去において、他者にたくさんの喜びを与えました。喜びを与えられるというカルマ、原因体をたくさん持っているということになります。この喜びのカルマは時が来れば徐々に現象化するのですか、これからの時代はそのカルマが短期間に集中して現象化するということが起こります。

 どういうことかというと、人が一生の間に経験するべきカルマの量は決まっています。ある人は80歳までの寿命で100億のカルマ(例えばです)を消費しなくてはいけないと決まっているとしましょう。その寿命が何らかの理由で40歳に縮められたとしましょう。すると、40年の期間内に100億のカルマが凝縮され現象化されるようになります。その時、本来現われるはずだった現象よりも極端な現象に変化して現われるのです。それが、ここでいうところの超能力です。

  アセンションが近付きつつあります。おそらく、この数年の間にみんなのカルマがすべて凝縮して現象化します。先に楽(喜び)のカルマが消費されことになります。潜在的に楽のカルマをたくさん持っている人たちは、そのカルマ数十年分がこの期間に凝縮して顕在化するために、超能力などの特殊な現象を経験することになります。そして、善なる徳を多く持っている人は人生においてどんな事でも思い通りになってしまうという経験をします。もっと長い期間に同じカルマが消費されるのであれば、もっと穏やかなカルマの返り方をしたはずです。それほどアセンションまで差し迫っているのです。

 その人たちが楽のカルマを消費しつくしてしまったら、今度はどうなるでしょうか。苦しみのカルマだけになったら、その他大勢の苦しみのカルマしか持たない人と同化し、世界全体が、凝縮された苦しみのカルマの返りにひたすら耐え忍ぶようになります。その時経験される苦しみは、想像を絶するものになるに違いありません。

 私たちはアセンションにより、高い世界に移行しようとしています。この高い世界は、具体的にいえば梵天界を指します。梵天界は、静マナ識世界の中で一番下に位置しています。静マナ識世界は徳が高く、苦しみのない世界です。ですから、その世界には苦しみのカルマは持っていけないのです。その世界に行くためには、事前に苦しみのカルマは落としておかないといけません。そのために、今まで積み重ねた悪業の果報として世界全体が苦しみの経験をすることになります。

このページのトップへ 

トップへ 

 

真我への道 アセンションが近づくにつれ、不思議な現象が多発する

 アセンションに向かって、どういった現象が起こってくるのか。これは多くの方がとても興味のあるところかと思います。「大変な時代に差し掛かってきている」というのが私の観想です。

 今までは起こらなかったこと、考えも及ばなかったことが次々と起こってくることでしょう。新たな病、それも奇病と言われるような病の出現や新種の生物の発見など。そして怪奇現象といわれるような幽霊やUFOの目撃談も多発します。また、超能力といわれるような特殊な力を持つ人も数多く現れ、多くの人の認識するところとなります。

 現在の観念では到底受け入れられないような出来事が急増するはずです。それには明確な理由が存在します。

 「すべての現象は心の現われ」という言葉、または言葉は違っても同じ意味のことは、よくいわれます。この世界の存在はすべて自分の心が現われ出たものですよということですが、実に的確な言葉であると思います。人の心の世界と、その周りの現実世界は全く同じものです。自分の心にあるものしか、私たちは見ることが出来ません。自分の心にない要素は、現象として私たちの前に現れないのです。

 例えば、自分に怒りの要素が存在するからこそ、怒っている他者を見て「その他者が怒っていること」を理解できるのです。怒りの要素が全く存在しない人が怒っている他者を見ても、「この人はふざけている」「おかしくて変な顔をしている。笑うのをこらえているんだ」など勝手に自分が一番納得するように解釈するだけです。そして、その解釈に基づいて実に巧妙にストーリーを作り上げてしまいます。結果、その人の見ている世界には怒っている他者など存在していないことになってしまうのです。

 これは怒りという一般的な感情を取り上げているから、極端な話だとお思いになるかもしれません。しかし、これこそ真実です。このたとえ話が怒りについてではなく、例えばある物事に対するマナーについてだったり気遣いについてだったりしたらどうでしょうか。それでも、そんなことはあり得ないと言えるでしょうか。

 私たちの心は、即、現実の世界なのです。そして、私たちが普段認識していない深層意識の部分ですら、世界に反映されています。深層意識の世界は普段の意識では認識できない世界です。私たちの意識構造と世界の構造は完全にオーバーラップしているのです。

 すなわち、私たちの表層意識が六識世界であり、潜在意識がマナ識世界であり、最も深い深層意識である超潜在意識がアーラヤ識世界です。

 この三つの意識をそれぞれ説明します。私たちの表層意識は、五つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身)から得られる感覚とその感覚を統合し認識する意識から成り立っています。眼でご飯を見て、耳で咀嚼音をとらえ、鼻でご飯の香りを嗅いで、舌で味わい、皮膚で触感を感じ取ります。これらの情報を統合して「私はご飯を食べている」という認識に初めて至るわけです。ここまでが表層意識の領域です。

 表層意識で得た「ご飯を食べている」という認識に対して、潜在意識はそのイメージを作ります。そして自分にとってそれが良いイメージであるならば、もっとそれをしたい、ここでいうなら「もっと食べたい」と思い、「おかわりをする」という次の行動を決定する訳です。こういった一連の意識の動きが観念となります。

 ひとりひとり感じ方が違うため、潜在意識で形成される観念はその人固有のものになります。この観念が降り積もって、本人ですら認識出来ないほど深い層が形成されます。これが深い潜在意識の領域です。

 超潜在意識は、表層意識の動きと潜在意識の動きを淡々とそして克明に記録していきます。超潜在意識はデータバンクの役割をしているのです。三界構図

 話が長くなってしまいましたが、これからの時代に変化をもたらすのは潜在意識が変化するためです。潜在意識に存在する観念はひとりひとり違ており、独特のものと申し上げました。「何々はこういうものだ」という考えが人によって違うのです。もちろん常識のように、ある程度共通する部分も存在します。しかし、その常識ですら人それぞれ違います。

 「Aは××だ」という人も「Aは○○だ」という人もいます。その他のことBに対してもCに対しても、違った観念を持っているとしたら、どうなってしまうでしょうか。ふたりの人は全く違ったように世界をとらえているといえるのではないでしょうか。

 実際に私たちは独自の観念を通して世界を見るため、人は全く違った世界を生きているのです。おのおのが独自の観念によって、自分の一番納得がいくような形で世界を見ています。しかも、自分の見ている世界、感じている世界が唯一の世界であると多くの人が思いこんで生きています。

 これからアセンションが起こるまでに、ひとりひとりの潜在意識が浅い部分も深い部分もすべて表に出てくることになります。潜在意識に隠されていた独自の世界観があらわになり、みんながそれを共有するようになります。言い換えれば、自分の潜在意識であるマナ識世界と他の人のマナ識世界とがつながりことです。

 具体的にいうと、自分は「Aは丸い」と思い込んでいたのに、他の人は「Aは四角だ」と言うのです。当然、話は食い違ってしまいますね。今まで理解し合っていたと思っていたものが、実は全く理解し合ってなかったことが認識されるのです。同じ言葉を話していながら理解されない、理解できないということが実際に起こってきます。

 冒頭でお話しましたように幽霊の目撃談が増えるというのは、幽霊を良く見る人の世界と、幽霊を見ない全く人の世界がつながるためです。それによって幽霊の存在を全く信じていなかった唯物論者ですら、幽霊を良く見るようになります。

 UFOに関して説明しますと、実は円盤そのものが人の潜在意識の中を航行しているものなのです。円盤の航路は潜在意識を利用しているために、何光年、何十光年という距離ですら移動できるのです。ですから、円盤を見ることの出来ない人の潜在意識の世界には円盤は航行していないということになります。まさに見える人にだけ見える世界なのです。

 これと同じことが幽霊や妖怪や特殊な動物にも当てはまります。これらの存在は、特定の人の潜在意識にのみ存在していました。しかし、これからはそのような潜在意識を多くの人が共有し、多くの人が幽霊や妖怪と共存することになるのです。

 また、政府や企業が隠ぺいしてきた不祥事や極秘にしていた情報が次第に白日のもとに晒されることになります。このような現象はかなり前から起こってきていましたが、この流れは加速度的に続いていくことでしょう。隠されてきたことも、共有されていくようになります。

 多くの人が自分の固定観念がくつがえされ、今まで信じていたものを失い不安や不信・恐れにおちいることになると思います。

 なぜこのような世界に変化するのかといえば、アセンションに向かって一人一人が持っている、心の深い部分が表に現われてくるためです。アセンションのために起こる意識上昇の一環なのです。

 これまで個々人が別の世界に生きていながら、なんとなく意思の疎通が出来ていたのは、物事を曖昧にするエネルギーがこの世界を覆っていたためです。しかし、アセンションに近づきエネルギーの質が変わってきます。物事を曖昧にしないで真実を明らかにするエネルギーが優位になるのです。現象そのものが、みんながひとつのマナ識世界を共有するという現象に移行してゆくのです。そういった時代がもうすでに、あるいはもう間もなくやって来るのです。

 多くの人と潜在意識の領域を共有することで、多くの混乱と不信・苦しみを超える必要はありますが、今までは孤立していた世界であったマナ識世界が多くの人に理解されるようになるでしょう。

このページのトップへ 

トップへ 

                                                                        
真我への道 現象からメッセージを読み取るということ

                                          (2011/09/07)

 この世界は自己の心の投影です。あなたの前に繰り広げられる現象のすべては、あなたの心を映す鏡の反射に過ぎません。つまり、あなたが現実だと思っている世界は実は実体のない幻影なのです。哲学や宗教を学んでいると時々出くわす「世界は自己の心の現われ」という言葉はそのことを端的に述べているわけですが、これを説明するのはかなり難解なので、それはまた別なところでご説明します。今回は、また少し趣の違う話をさせて下さい。

 すべての現象が自己の心を現わしたものであるとすると、あなたの目の前に現われている現象はあなたのためだけに存在しています。世界の中心はあなたなのですから。

 そして、あなたが見せられる現象はあなたの心を現わしていると同時に、現在のあなたにあてたメッセージでもあるのです。あなたの前に何らかの現象がたち現われるということは、それが意味のないようなこと、つまらないことに思えても、すべて何らかの意味があるのに違いありません。

 ただ、そこからメッセージを読み取れるか否かは、また別の問題になってしまうように思います。こちらに準備ができていなければ、やはり何でもないような現象に意味を見出すことは難しいことでしょう。私たちは多くのメッセージを受け取っていながら、実は全くそれに気付いていないのかもしれません。

 私の場合は、このような考えをもとになるべく先入観を持たず、現われてくる現象をフラットにとらえるように努めています。そうしますと色々なことに気付かされます。いかに自分が多くの方に生かされているのか、守護されているのか。そして、いかに私に真理を伝えるために大いなる宇宙の意思が働いているのか。

 しかし、もちろん私にも読み解けないメッセージもあります。何か意味があるに違いないのですが、そればかりに集中しているわけにもいかず今の自分ではわからないな、仕方がないからしばらく放っておこうということで、わきに置いておきます。時が来れば、わかるようになるのだと思います。

 そのような今は読み解けないものの一つに、「ウズベキスタン」という言葉があります。

 ウズベキスタンはユーラシア大陸の中央に位置する共和国です。私はこの国に行ったこともないし、この国のことについても詳しくは知りません。しかし特に意識していないのにもかかわらず突然「ウズベキスタン」という言葉が思い浮かび、それが何故かわからないだけに気になるのです。

 「ウズベキスタン」この言葉が思い浮かぶ現象は十年以上前から時々あります。おそらく、ウズベキスタンが日本の将来に関わってくることになるのではないかと思うのですが、それが一体どういう関わり方をしてくるのか現時点ではわかりません。いずれにせよウベキスタン共和国の動向には注意を払っておかねばと考えています。

このページのトップへ 

トップへ 

 

真我への道 裏が表に出る

                                         (2011/12/05)

 これから「裏が表に出る」という現象を多くの人が目の当たりにすることになります。多くの企業・警察・政府・宗教団体・やくざ・医療機関、今まで彼らが隠蔽してきた事柄がすべて白日の下にさらされることになります。それに伴って、多くの冤罪が明らかにされることでしょう。今までの価値観や固定観念が維持できなくなり、崩壊します。

 これは意識変革に向けて、すべての人が持つ、各々の潜在意識が繋がってくるためです。そして、最終的にはすべての人がひとつの潜在意識を共有するようになります。

 

 私たちの一番深い部分の意識をアーラヤ識といいます。このアーラヤ識には、現象を形作る因子がデータとして存在しています。このデータには、善悪や苦楽という基準は一切設けられていません。そのデータはあらゆる条件や具体性を排した、いわば純粋なデータとして存在しています。

 具体的に説明しますと、「有名なレストランで様々な料理を味わい舌を満足させる」という行為この行為(現象)をアーラヤ識のレベルにまでさかのぼって見れば、「貪る」という現象のデータが存在しているだけです。厳しいことをいえば、自分の生命を維持する以上のことを食に求めるのは、すべて「貪り」になってしまうのです。しかしアーラヤ識に存在する「貪る」というデータは、先程の行為の核の部分しかありません。しかし、この「貪る」という純粋なデータが現象化するとき、一番深いアーラヤ意識からマナ識という観念の集合体を通過するため、そこでデータが変化します。自分の観念というフィルター越しに「貪る」データを見るのです。つまり、そこでひとりひとりの観念に合わせた肉付けがされるのです。その人に「味覚の追及よりも自分の美容の方が大切」という観念が存在すれば、この「貪り」のデータは「化粧や美しい服で装う」という形で現象化するようになります。美食と美容という対象は異なれど、どちらも同じ貪りの意識であり、マニプーラ・チャクラにまつわる穢れなのです。同じ穢れであっても、各々の観念が異なるため、その人の観念にふさわしい形に変化して現象化します。

 同じようにアーラヤ識のデータには苦しみや喜びという区別もないのですが、マナ識世界の観念にはエゴにとって苦しみや喜びであるという区別が明確に存在しています。ですから、アーラヤ識の根本データがいくら純粋であろうと、苦楽に捕らわれた観念の集積であるマナ識を通って現象化されるために、私たちが経験する現象は苦しいものであったり楽しいもの、喜ばしいものであったりするのです。私たちを取り巻く現象はこのようなプロセスを経て形成されているとはいえ、私たちは皆、自己の心の奥に無数の喜びや苦しみの因子を内包させているといえます。

 私たちは苦しみの因子を遠ざけ喜びの因子がすぐにでも現象化することばかりを望みます。しかし、喜びの因子がどんどん現象化すれば、それもいずれ尽き今度は残った苦しみの因子が現象化します。もちろん、相対的に喜びの因子がもともと少なく苦しみの因子が多い人は、最初から苦しい現象を経験しなてはなりません。

 これから起こるであろう地球規模の意識変革の時まで、ほとんどの人が喜びの因子を使い果たし、苦しみの因子ばかりが現象化されます。そのため地球自体が暗黒の時代に突入します。人類は、ひたすら苦しみに耐えていかなくてはなりません。

 私がここで強く申し上げたいのは、そのように事態が深刻化する前に、今から少しずつ苦しみに強い心、現象に捕らわれない心を培っていかなくてはいけないということです。そうでなければ、大変な苦しみを味わってしまうからです。そして自己の苦しみに強くなれば、他者の苦しみに対しどのように接すればよいのか、その対処も自ずと理解されることでしょう。

このページのトップへ 

トップへ 

真我への道 功徳の原理

                                          (2011/10/24)

 功徳とは、「徳が高い」だとか「徳がある」だとかいう時の徳と同じものです。この功徳というものは実際に存在しています。それどころか、私たちはこの功徳の法則に実は支配されているのです。

 例えば、何をやっても上手くいく人、なぜか幸運ばかり付いてまわる人が世の中にはいますね。「なんで、この人はこんなにも恵まれているんだろうか。何が違うんだ」と思ったことはありませんか。その人は現世的な功徳を持っているために、そのような恵まれた現象が生じるのです。

 その逆に何をやっても上手くいかない人、不運にばかり見舞われる人、そんな人もいるものです。その人は現世的な功徳が足りないのです。その人がいくら頑張っても、これは乗り越えられないものです。さらにいえば努力することにすら、それだけの集中力があるという意味で功徳が必要なのです。ここまでいえば、功徳というものが何なのか大体お分かりになったでしょう。功徳とは物事を自分の思い通りに進めるためのエネルギーです。

 この功徳というものは、どのようにしたら身に着くのでしょうか。こんなに素晴らしいものならば、誰もが功徳をどんどん積みたいと思うことでしょう。それは、実はとても簡単なことです。自分以外の誰かに良いことをするのです。その人が喜んでもらえるようなことをするのです。これを善業といいます。善業をおこなう際には見返りを求めてはいけません。そこで代償を得ようとしたら、例えばお礼をもらったり優遇してもらったりしたら、功徳にはなりません。無償で誰かのために動くことができたのなら、功徳は自然に集まってきます。

 功徳について、もう少し考えてみてください。例えば、あなたの前にひとりの乞食とひとりの托鉢僧がいたとしましょう。その時あなたはいくばくかのお金を持っていたとしましょう。どちらかにあげるとする場合、どちらにあげれば、あなたのより大きな功徳になるでしょうか。

 いかにも食べ物も満足にとれていないような痩せた乞食の方でしょうか。いいえ、違います。その托鉢僧が本物の真理の実践者であるなら、托鉢僧に布施(僧侶にお金や品物を与えることです)することで得られる功徳は、乞食に布施する功徳の何倍、何十倍、何百倍にもなります。

 両者の違いは一体なんなのでしょうか。それは、真理の実践者に1000円でも布施をして、その1000円で真理の実践をする人が一日を暮らしたとします。その一日でその人が何をするのかといえば、慈悲に代表される四無量心の実践です。どれほど多くの魂がその恩恵を受けられるか。

 真理とは煩悩を減少させるものです。生きている間に煩悩に流され楽を求めても、楽の裏には苦しみが必ず存在していることを教えます。それを理解しても真理の実践によって煩悩から離れなければ、結局苦しみは増大します。生存の域を超えて、すべての魂を絶対世界であるニルヴァーナに導くために真理は存在しているのです。真理のバイブレーションは四無量心実践している本人のみならず、その周囲の人々に波及します。煩悩を減少させていく傾向になるのです。真理の実践者が単に瞑想を行なうことだけでもその場所の浄化が起こります。その場所固有の穢れというべきものが昇華されるのです。それほど真理というものは偉大であり、真理を実践している人とそうでない人の間には開きがあります。

 普通の人、つまり真理の実践者ではない人に布施しても、その人個人が恩恵を受けるだけです。多くても、その人の家族ぐらいのものです。真理の実践者への布施と根本的に違うのです。

 もちろん、これらのことは真理をしっかり実践している求道者にのみ当てはまることです。普通の人とさして変わらないような生活を送っているお坊さんやどこかの教祖ではいけません。同じような真理の功徳はとても望めないでしょう。

 真理の実践者に対して善業を行なうことは、真理の功徳を積むのと同時に、真理との縁を作ることになります。最初はわずかな真理との縁ですが、それをたどって真理の功徳を積みながら縁を強くし、すべての魂はニルヴァーナに向かっていくのです。ですから、本物の真理を掲げる人のために無償で善い行いをすることは非常に貴重なのです。

 普通の人に対して善き行いをする場合と、真理の実践者に対して善き行いをする場合は得られる功徳の量も違いますが、その質も同じではありません。功徳にもアーカシックレコードと同じように、真理と世俗という二つの面があります。究極の真理に向かってまい進していくためにも功徳のエネルギーが必要です。それとは別に、世の中を上手にやっていくための世俗的な功徳のエネルギーもあります。先程の上手くいく人いかない人は、こちらの世俗的な功徳の話です。

 普通の人に対して善業を行なえば、世俗の徳を積むことが出来ます。この世俗の徳は現世的な幸福しかもたらしません。真理の実践のためには使えないのです。一方、真理の実践者に対して善き行いをすれば、真理の功徳を積むことが出来ます。真理との縁によって魂は真理と巡り会い、この真理の功徳によって真理の実践を進めていくのです。真理の功徳は、実は世俗の功徳にも転用できます。つまり、その気になれば真理の功徳を世俗的な幸福を購うために使うこともできるのです。自分がこの世での幸福を求めるなら、功徳がそちらに流れ幸福をつかむことが出来ます。しかし、世俗の功徳は世俗のためだけしか使えません。世俗の功徳がいくらあっても、真理の功徳がなければ真理の実践は出来ないのです。

 真理の功徳をどのように使うかは、結局自分の意識がどちらに向いているのかということにつきるでしょう。自分という人間は究極の真理を極めんとするのか、この世の幸福を求めるのか、その二つに大別されます。私たちは自分のお金を何に使うのか選べます。同じように自分の功徳を何に使うのか、無意識に選択しているのです。人間は自由な存在です。どちらを選ぶも個人の自由意思なのです。ただ、功徳の使い方を決めるには、この世の幸福はすべて幻影であることと、幸福の裏には苦しみが存在するのだということを念頭に置いておかなくてはいけません。

 また真理の功徳が足らなければ、真理の実践を始めても修行を進めることが出来ず挫折してしまいます。功徳の法則は非常にシビアなのです。功徳をお金に例えるなら、金の切れ目が縁の切れ目です。真理から離れてしまうのです。一度真理から離れてしまえば、そこからまた真理の流れに入ることは非常に困難です。よって、エネルギー切れにならないように真理の実践をしながら、常に功徳を積み続けなければならないのです。

このページのトップへ 

トップへ 

真我への道 アセンション、真理の世界に向かうための功徳

                                          (2011/10/24)

 真理の実践者の中で、特にすべての人々を救うために真理の修行に心身を捧げた魂を、菩薩と呼びます。菩薩は自己の修行の完成よりも、すべての魂を救うことを目的としています。三十二の御魂とそれに続く14万4千人はこの時代の生きた菩薩です。

 菩薩は慈悲の実践として他者の苦しみを引き受けていきます。苦しむ人々を放っていけないからです。しかしそうすることで、自ずと功徳というものが集まってきます。自分が身代わりになって苦しみ多き人々の苦しみを背負うことで、真理の功徳を積むことが出来るのです。

 これからアセンションに向かって、楽のカルマが先に消化され苦しみのカルマだけが残るという話を前回はしました。この苦しみのカルマばかりになる人の存在は、ただ苦しみを与えられそれに耐えるだけの魂ということではありません。重要な役目も果たしているのです。他に功徳を与え、自分自身も功徳を積んでいるのです。

 それは、菩薩が慈悲の実践をするための対象になるということです。菩薩は他者の苦しみを見て、その苦しみを引き受けたいと願うようになるわけですが、菩薩の前に苦しむ他者がいなければ、その菩薩は慈悲の実践が出来ません。よって、慈悲の実践をすることによる真理の功徳を積むことが出来ません。真理の功徳とは、自己の修行を進めるために必要なエネルギーですから、これらの功徳が不可欠なのです。 

 自分の周りにいる菩薩に功徳を積ませるという意味において、苦しんでいる人々は善業を行なっていることになります。したがって、そこに功徳が発生します。しかも、その功徳は菩薩の修行を助けるという、真理に対する最高の功徳です。自己のカルマの返りに苦しみつつも、大きな真理の功徳を積んでいることになるのです。

 アセンションまでの準備段階において、三十二の御魂と14万4千人の真人(まさびと)が真理を極めていくためには苦しみにまみえる他者の存在はなくてはならないものです。両者が依存し合って、ともに真理の世界に変えていくのです。

このページのトップへ 

トップへ