玉置宏千の世界観
修行法
 

■なぜ修行が必要なのか

真我への道 苦と楽について

                                         (2011/12/09)

 基本的な仏教観には「楽の裏に必ず苦が存在する」という考えがあります。この世は無常であり、この無常の世で楽しみを求めることは必ずその裏にある苦しみも経験しなくてはならないということです。例えばあなたが家族を愛し大切にすれば、その家族とともに暮らすことは大きな喜びを与えてくれますが、それがかなわなくなった時あなたは大きな苦しみに襲われます。先ほども述べましたように、この世は無常であり必ず現象は変化します。人には必ず死が訪れ形あるものは壊れ、愛するものとの離別は避けられません。あらゆるものが無常に支配されており、すべての喜びは最終的には苦しみに変わります。

 また、自分の好きなことを繰り返し趣習することで、そのものに対し執着が生じ再び同じことを趣習したいと願うようになります。これを渇愛といいます。この渇愛もまた私たちを苦しめます。

 もし10の苦しみを経験し、自分には喜びなんてないんだと思い込んでいる人が、自己の苦しみから逃れるために10の喜びを求めたならば、その人がそれまで持っていた10の苦しみは100の苦しみに跳ね上がります。苦しみから逃れようという意識が、もともとの苦しみを増幅させて感じさせるのです。喜びに対する感覚を追及しその感覚が拡大され鋭敏になればなるほど、その反対の苦しみに対する感覚も鋭敏になります。例えば素晴らしい音楽をいつも聴いている人、音に対して敏感な人ほど、騒音、素人の歌や演奏を聞き苦しく感じるのではないでしょうか。

 私たちが喜びを求めることは、結局苦を増大させます。たとえ喜ばしい現象に見えようと、すべての現象は総じて苦しみなのです。ですから、喜びに対しても苦しみに対しても鈍感になるべきなのです。それが苦にも楽にも捕らわれない状態、現象そのものに対して捕らわれない状態ということなのです。現象に捕らわれている意識こそが、すべての苦しみの原因なのです。その逆の、現象に捕らわれない意識こそがすべての苦しみを超えるための意識であり、真理の実践によって培っていくべき意識なのです。

 多くの人は気付いていませんが、喜びを求めれば苦しみも増大し、現象もそれに引きずられ苦しみの現象を形成していきます。逆に現象に捕らわれない意識を培っていけば、現象はその意識に沿った形に変化してきます。つまり、苦しみでも喜びでもない現象になっていきます。

 しかし、そのような現象に捕らわれない意識状態になれば、たとえ他者から見れば苦しい状況であっても、本人は現象への捕らわれが外れていますからそんなことは全く気にしていないということがいえます。

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真我への道 情報の入れ替えによる意識変革  

                                         (2011/11/15)

私たちは生まれた時、今とは全く違ったように世界をとらえていました。なんの観念も持たず現象をありのままに見つめていました。例えば、生まれたばかりの赤ん坊が痛みや空腹を感じていたとしましょう。それに対して泣いたり、ぐずったりします。しかし、痛みや空腹を苦しいと感じているかというと、そうではありません。痛みは単なる痛みとして感じ、空腹は単なる空腹として感じています。それに対して、嫌だとか苦しいとかそういった感情は生まれていません。それは喜びに関しても同じです。

 しかし、私たち大人はそうではありません。大抵の大人にとって痛みや空腹感は苦痛であり、忌むべきものです。特に、痛みは苦しみそのものとしてとらえているでしょう。なるべく回避したいものです。このような違いは、どこから生まれるのでしょうか。

  それは、私たちは観念のない、白紙の状態で生まれてきますが、成長するにしたがって様々な観念に染まっていくためです。

 先程の例でいえば、赤ん坊が痛みを、例えばどこかに頭をぶつけ痛みが生じたとします。赤ん坊は痛みを感じても、それに対して苦しいとは思いません。しかし、母親があわてて抱きかかえてぶつけた箇所をなでて「あぁ、痛かったねぇ。かわいそうだね。ごめんね」と「いかにもかわいそうだ」という様子を見せるために、赤ん坊は「自分は大変なめにあったらしい。この痛いという感じは大変なことなんだ」と母親の様子から判断し学習するのです。「痛いの、痛いの、飛んで行け」なんて、その最たるものですね。子どもは、「痛みはイヤなものだから消えてなくなれ」という情報を覚えるわけです。そして、次に同じように頭をぶつけた時は、前回の学習にしたがって「痛いよ。大変だよ。ママ助けて」と泣き訴えるようになるのです。

 このような経験を繰り返すたびに、痛みは苦しみであるという確固たる観念を形成させていきます。そして、自分自身で暗示にかけるように、本当に「痛みというのは苦しい。嫌だ、逃げたい」と心底感じるようになります。

  私たちは痛みに関してだけではなく、その他すべてのものに対しても同じように観念を構築してきました。生まれてから今までの経験によって私たちは数多くの観念を生み出し、それがいかにも自分が本来持っていた感覚であるかのように感じています。生まれた時から積み上げた経験は大小含めましたら天文学的な数になりますし、それによって生み出された観念も同じように無数にあります。中には、自分が認識できないほど奥深くに眠っている観念も存在します。それが、深層意識です。私たちが普段感じること、思うことは、この浅い観念意識と深い観念意識によって生まれたものです。

 ふたつのうち、ひとつを選ぶ時どちらにするか、なんとなく決めたと自分で思っていても、深層意識にはそれを決定するための明確な理由となる観念が存在しています。自分の今の意識がそれを感知していないだけなのです。このように観念無しに純粋な思念というものはありません。

  もし、あなたが今の自分を変えたいと思った時どうしたらいいでしょう。どんな人であっても、完全な自己変革の可能性はあります。先程の話をもとに考えてみてください。

 経験とは何か、それは身体的感覚をともなった情報です。「こういう場合は、前はああだった」この情報をもとに、私たちの思考は生じるのですから、この情報の入れ替えをしていけば、あなたの普段の思考が変わるのです。今まで培った情報の蓄積を丸ごと入れ換えることができれば、意識の変革は必然的に起こります。そして、それに合わせて現象も変化していきます。なぜなら、この世界の現象とは何度も言いますように、自己の心を鏡のように映し出したものだからです。

  先程の痛みについていえば、「痛み=苦しみ」の情報ではなく「痛み≠苦しみ」の情報をひたすら入れていけば、この観念は塗り替えられます。最初は浅い意識にある観念から、どんどん深い意識の観念を変革していきます。ある一定量、情報の入れ替えがされれば、後は総転移します。そうなれば実際の感覚においても、痛い目にあってもそれを苦しいと感じなくなります。

 この情報の入れ替えを極めて効率的にシステマティックに行うのが、瞑想修行です。そして入れ換える情報を、この欲界を超えた高い世界に移行するための情報に入れ換えるのが真理の修行ということになります。

  私たちが築き上げた観念は、家族や先生、友人、本や音楽、自然…あなたを囲む環境の集大成です。そして、それはこの人間界を生き抜くためのものです。もし、あなたの目の前に広がる、この世界の存在しか信じられないならば、人間の観念のまま生きることも良いでしょう。

 しかし、真理の法則は人間の観念とは全く違います。今までの人間としての観念を超え、高い神々の観念を形成させるための情報を新たに学んでいかなくてはなりません。神の観念とは、一体何のことでしょうか。それは四無量心であり、慈悲にほかなりません。この学びにより高い神々の観念で、神々の目を以てこの世界をとらえるようになります。

 そして、最終的には神の観念すら超え、すべての観念から自由になります。あなたは、自分の観念という覆いの下に、完全に自由であり幸福な存在、素晴しい存在が隠れていたことを思い出すことでしょう。それがニルヴァーナという唯一絶対の自由の世界に到達するということなのです。

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真我への道 心を内側に向ける 

(2012/01/11)

 今、世界情勢は最悪の時を迎えつつあります。このサイトでも以前は予言をしたりしていましたが、予言が当たるか当たらないかというのは本来あまり重要ではありません。 そこに集中しすぎて外側の現象に捕らわれてしまっていては何もならないのです。

例えば戦争が起こるだとか、貨幣経済が崩壊するだとか…そういう危機はこれから生じてくるかもしれませんが、それすらこの幻影球体世界の中の変化に過ぎないのです。あくまでも自分の心が映し出した幻影に過ぎません。

 自己の慈悲を強めていくならば、あるいはクンダリーニが何たるか、あるいは真理の修行の何たるかを見極めていくならば、外側の世界のことは重要ではありません。すべては自己の心の中のことであり、自己の心の中に眼を向けるべきなのです。心の内側に意識を向けてこそ、瞑想は活きてきます。

 みなさんも外側の現象に心奪われるのではなく、心を内側に向けて自己の性格、身・口・意における行動をしっかりとチェックしましょう。そして、しっかりと焦点を真理というものに合わせ、実践していってください。

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 真我への道 「真我に至る」ということ

(2012/02/01)

 本当の私そして本当のあなたとはなんなのでしょうか。体?心?それとも魂、近いかもしれませんが正解ではありません。本当の自分とは真我です。私はこの本の中で心のそして魂のさらに奥深くに存在する真我の本当の姿をみなさんに知って頂こうと思っております。そこには本当の安らぎ、そして平安があります。

 人生において楽しいことや喜びは、すべての人が経験するものです。喜びや楽しみを味わい、そして苦しみを乗り越えていく、それこそ人生の在り方だと多くの方が考えているのではないでしょうか。そして誰もがそれぞれの人生の中でもっともっと幸せになりたいと望んでいます。そのために喜びや楽しみは多く、苦しみは少なくと思われる選択を積み重ねています。

 しかし、そういった心の働きは喜びや苦しみに対するとらわれを増大させてしまいます。そしてそういった喜びや苦しみにとらわれることは、実は人間として生きることの意義というものを見えなくさせてしまうのです。

なぜ自分が人間として生まれ存在しているのか、それは日々の喜びや楽しみ、苦しみを超越したところで理解できるものです。もし、あなたが真剣に魂の存在の意義を求めるならば、目の前の苦しみや楽しみに捕われるべきではないでしょう。

 魂はなぜ存在するのか―それは本当の自分、真我の境地に到達するためです。始まりとてわからないほど遠い過去から魂が求め続けているものです。当然お金をいくら積もうと与えられる類のものではありません。たとえ苦しみや楽しみに捕われず人生のすべてを費やしその追求にあてても、真我の境地はなかなか理解できるものではありません。

  たとえば、魂を堕落させる悪しき三つの要素、三毒といわれるものが存在します。この三毒は私たちの心の深い部分に根差しており、通常の魂は三毒に導かれるままどんどん悪い方向に落ちてしまうのです。ですから、これを断ち切るだけでも大変なことです。人間に生まれた魂がその生涯を修行に投じ、自己の浄化に努めたとします。そして、この三毒から脱却できたとしても、真我の境地に到達するためには最低でも人間として七回生まれ変わり、より一層修行に専念しなくてはならないのです。真我に至る道はそれ程困難であり貴いものなのです。

この世の現象は自己の心を投影したものです。そのような心の世界において重要なのは社会的に成功することでも巨万の富を築くことでもありません。生きている間、どんなことを繰り返し繰り返し行為するのか、またはどのような意識を反復するのか、どんな業(カルマ)を積んでいるのかが問題なのです。自己の欲望を超えて、あらゆる宗教を超えて真理というものを体得することがすべてなのです。ここでいう真理とは究極の真理であり、菩薩としての真理を指します。自己の修行がただ単なる自己の浄化のための修行であってはいけないのです。

涅槃、つまりニルヴァーナの境地とは真我の境地のことです。真我はすべてのパワーの源として存在しています。その境地とは相対的二元世界に非ず、絶対的非二元の境地です。そこは内も外もない、明も暗もない、これらの要素を超越しているのです。

 真我の世界を体感してください。そこには生きる上でのすべての疑問や問題を解く鍵が隠されています。そしてきっとあなたの心の奥深くに存在するたくさんの宝物に気づくことでしょう。

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真我への道 グルイズム(1)

(2012/02/18)

 私たちが真理に出会い修行を始め、最終的に涅槃に至るまでの過程を見てみますと、その中でいかにグル(師)という存在がいかに重要か理解できます。

 真理の修行を実践することよって、真理の法則が自分の中に根付き、私たちは自己の穢れを上昇させ意識を高めることが出来ます。それによって自分自身を最終目的地であるニルヴァーナ(涅槃)、真我の領域に近づけていくことが可能です。そこまでの道筋は違っていても、その目的地はすべての魂に共通しています。

 ひとつの修行法をとってみても、ある人は真理についての本を読んで、またはネットである修行法を知り実践した場合もあるでしょう。あるいは、自己のグルから直接口頭で修行法を伝授された人もあるでしょう。また、ある人は自分自身で編み出した修行法によって意識を上昇させるということもあるでしょう。その全てのパターンに言えるのですが、私たちが修行に打ち込んで自己の無智を払いのけ真理の智慧を自分のものにし、それによって意識を上昇させることができたのならば、私たちに代わってその無智なるカルマを引き受けている存在が必ずどこかにいるということです。私たちはいかに努力しようと耐え忍ぼうと、自分自身の力だけで穢れを昇華させることは出来ません。必ず自分を引っ張りあげてくださる高い意識体が存在していらっしゃいます。これは、いかなる意識上昇の場合にもあてはまります。

 私たちには見えなくても、魂の系譜というべきものがあります。より高い意識にある、自分と縁ある魂が私たちの修行を導いているのです。それがはるか高い世界におられるグル方であり、魂ひとつひとつが属する、それぞれの系譜の先におられる方々です。私たちが自己の無明を超えるたびに、修行が進展するたびに、私たちが認識していなくとも、そのつど高い意識のグル方が私たちの無智なる穢れを引き受けてくれているのです。そして、そのかわりに真理の智慧を注いでくれています。

 私達の無智なる穢れを直接のグル、または一番近いグルが引き受けてくださると、今度はその穢れをグル自身が上昇させます。しかし、それを引き受けるのは、グルよりさらに高い意識の師です。グルであろうと自分の力だけで穢れを上昇させているのではありません。必ず、それを引き受けてくださる存在がいます。

 例えば私の提唱する修行を実践してくれている人たち、この人たちは私と縁があって真理の修行をしており、その結果彼らの穢れは私に集まってきます。その分、もちろん修行をした彼らの意識は上昇します。これは紛れもない事実です。私は集まってきた、その穢れをそのまま穢れとして放っておくことはありません。私は慈悲の意識によって穢れを上昇させます。そこに意識が向いてなくとも、穢れは自動的に昇華していきます。かといって、これは私自身の力というわけではありません。私に集まってきた穢れは、静マナ識世界におられます私自身のグルが引き受けてくださっています。私のグルは、その穢れをより高い意識体に引き受けていただいているのです。

 この入れ子状の図式を何重にも繰り返し、全ての穢れは真我に集約されます。このようにして、高い世界のグル方がはるか彼方の真我の世界、涅槃の境地にまで私達を引っ張り上げてようとしてくださっているのです。

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真我への道 グルイズム(2)

(2012/02/19)

 真理の道を歩んでいる人は、自分の積み上げてきた功徳と類まれな如来との縁に感謝しなくていけないでしょう。如来との縁というのは慙愧の念をもつことにほかなりません。

 真我に至るために必要なことは、それは「主体と客体」という自分と他人とを区別する意識をなくすことです。「主体と客体の区別」をなくすためには、他者をなくすことよりも自分をなくしていくことです。自分のエゴを滅却していき自分の領域をどんどんなくしていくことが、真我への一番の近道なのです。自分のエゴをなくすためには「ゆだねる」ということが大切ですが、そのゆだねるべき対象というのは自己のグルをおいてほかにありません。自分のグルに、完全に自己を預けることによって人はエゴをなくすことができるのです。グルに自己をゆだねる、そのために必要なのが懺悔です。

 懺悔をするにあたって「自分は慙愧の念がないから懺悔できない」という人がいます。しかし、初めのうちは慙愧の念を持たなくとも、懺悔をするようにしていきましょう。何度も何度も繰り返し、真理に照らし合わせ自分の為した悪業を、グルに徹底的に懺悔させてもらいます。そうしていけば、ゆくゆくは必ず本当の慙愧の念を伴った懺悔が出来るようになります。

 懺悔のところで詳しく述べましたが、自分の悪しき行いを身・口・心の三つのレベルにわたって、グルに包み隠さず懺悔します。このような悪業に対する懺悔が徹底的に出来るようになってから、次に現象に対して捕らわれていることすべてを懺悔します。たとえどんな些細なこと、例えばそれが小さな頃の思い出でも、たとえそれが素晴らしい思い出や良き思い出であっても構いません。現象に捕らわれる意識は、それがどんなものであろうとも全て真我へ至るための障害となります。ですから、全てが懺悔に値するのです。

 グルが懺悔を受けてくださるということは、自分自身に「懺悔ができる」という功徳が存在しているためです。そうでなければ懺悔するいう現象にならないもしれません。グルに対し懺悔ができる人は、その、素晴らしい状況に感謝すべきです。修行によってニルヴァーナに到達する一番の早道、それが懺悔なのですから。

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■修行による現象の変化

真我への道 修行に伴う変化

                                         (2011/12/07)

 修行の道を志しいざ実践を始めると、様々な変化が訪れます。そのひとつに、物事が考えられなくなる、もしくはイライラするということが挙げられます。これは、それまでに培った、煩悩を肯定する世俗的な観念が焼けるためです。これらの観念は真理の叡智の対極にあるという意味での無智であり、クンダリーニ覚醒はまだまだ先ですが、その前にアパーナ気が上昇し頭部をエネルギーで満たすことにより、それらの無智が焼かれ消滅しているのです。この症状は、人によって大体1ヵ月半から1年半くらい続きます。

 しかし、修行を始めれば誰もがそうなるという訳ではなく、全く経験しない人もいます。このような症状が出る人は、修行を始める前に日頃から性エネルギーのロスを繰り返した人に多いようです。

 私はこの症状がおよそ一年半続きました。その間は二桁の足し算が暗算できないなど、本当に苦労しました。しかし、その期間が一年半も続いたことにより、奥深くに潜在した無智が焼かれました。それがあってこそ、今の私は様々な法則を知りえるようになったのだと思います。皆さんも、修行に伴って現れる現象は何であれ肯定的に捉えていってください。

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真我への道 神の力、神通力が日本を救う


                                               (2011/11/23)

 自己の修行が進むことによって、自然にニルヴァーナという最終段階まで至るための超能力が付いてきます。これが仏教でいわれるところの神通力です。神通力とは神の力という意味合いであり、6種類あるとされています。神足通(じんそくつう)、天耳通(てんにつう)、他心通(たしんつう)、宿命通(しゅくみょうつう)、天眼通(てんげんつう)、漏尽通(ろじんつう)をあわせて、六神通(ろくじんつう)といいます。最後の漏尽通以外の五神通に関しては、どの順番で身に付いてくるかは人それぞれです。しかし、漏尽通は必ず最後に身に付くことになっています。それぞれの神通力については以下の通りです。

  • 神足通
    この力が身に付くと、歩く速度が速くなります。歩幅や一歩一歩の踏み出すスピードは変わらないのですが、あっという間に長距離を移動することが出来るようになります。神足通が使えるようになると地面を滑るように移動し、「地に足がつかない」状態になるためです。チベットの聖者が、普通の人が一週間かけて移動する距離をたった一晩で移動したというような逸話は良くありますが、これは神足通によるものです。これが発展したものが瞬間移動です。
  • 天耳通
    天耳通によって霊的エネルギーが全身の気の管(ナーディー)を流れる時の音(ナーダ音)や、マナ識世界に響き渡っているナーダメロディや神の声を聞くことが出来ます。
    この天耳通と混同されやすいのが、低位霊域の声です。霊性の高い人はよく頭の中で第三者の声が聞こえることがあります。それは神の声であるかのように受け取られていますが、必ずしもそうとは限りません。その声があなたのエゴを増大させるようなことをささやく場合には、それらの声に耳を貸すべきではありません。それは低位霊域からの声です。その証拠にモーター音のような鈍く低い音が鳴り響いていることがあります。そのような場合には自己のエネルギー波動が下位チャンネルに合っていると考えられますので、出来るだけ功徳を積むようにしましょう。霊性が高くとも功徳がないという場合は、そのまま低い霊域に落ちてしまうことがあるのです。
    真言も同様に、一生懸命に行じれば行じるほど集中力も霊性も増しますが、功徳が一気になくなります。それが過ぎれば、精神的に異常をきたし日常生活が困難になります。ですから、功徳を積むことは非常に重要になのです。
  • 他心通
    他心通は、最初は直観力が冴えてきたという程度の認識しかないかもしれません。自分が接すると他者の感情が、自分の意識に交錯してきます。これはどういうことかといいますと、相手の感情を自分の事として感じるようになります。例えば、普段性欲を感じない人でも一緒にいる人に性欲が湧いてきたら、自分に性欲が生じてきたかのように感じます。それは、相手の感情が自分に入ってきたということです。それによって、相手の考えている事が自分の事のようにわかるようになります。これらはアナハタ・チャクラを通して感じます。しかし、さらに修行が進むと本物の他心通が付いてきます。そうしますと、アージニャー・チャクラを通して相手の考えていることがヴィジョンとして額の前に見えるようになります。
  • 宿命通
    前世の記憶を蘇らせる力です。これによって、自分がどのような幻影球体世界を旅してきたかを理解します。
  • 天眼通

遠隔透視(遠く離れた場所を見通す力)、壁の向こうを見通す力、この人間界以外の世界を見る力です。自分以外の他者の過去生も見通すことが出来るようになります。
ちなみに、他の世界を知るという意味では三昧がよく似ていますが、三昧(深い瞑想状態)は天眼通と違って、瞑想の中で実際にその世界に行き、その世界を経験することです。天眼通は、単にその世界のヴィジョンを見るだけです。 

  • 漏尽通

私たちは自己を中心とし、自分の心を反映した幻の世界(幻影球体世界)の中で生きており、漏尽通以外の神通力はその幻の世界の中での力でした。私たちが住んでいる幻影球体世界内での神通ですから、何がわかろうと何ができようと自己の心の中の範疇です。しかし、漏尽通とはこの幻影球体世界を崩壊させた後に獲得する真実の神通力です。つまり、完全なる大乗の解脱を果たすことで、漏尽通を得ることが出来るのです。

 

 正しい修行を行えば、誰でもこのような力はつけることが出来ます。しかし、時に修行しないでも、前世の修行によって身に付けた神通力を引き続き備えている人がいます。そのように今生は何も修行してなくても、あるいは大した修行をしないでも神通力を持つということはあるのですが、基本的には神通力は煩悩を限りなくそぎ落とすことによって、初めて獲得するものです。ですから、神通力を使って煩悩を満たすことやエゴを増長させることは本末転倒になってしまいます。神通力はあくまでもすべての魂を救うためにあります。そのための道具でしかありません。その道具を誤って使えば、修行がそこで後退したり、道そのものを見失ったりすることすらあるのです。

 この神通力は、これから起こるはずの惨事から日本を救うための要になるであろうと私は確信しています。これから自己のエゴを満足させることに虚しさを覚え、すべての魂に本当の幸福をもたらしたいと願う人々がどんどん現れてくるでしょう。その人々が真理に目覚め、修行によって自己のエゴを削ぎ落とし、神通力を我がものとするようになります。その力を駆使することによって、この日本を守っていくのです。

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真我への道 真理を実践すると容姿が変化する

玉置: 例えば自分の部屋など閉じられた空間で一生懸命に真理の修行をした場合、その後外出すると不思議なことに気付きます。街ゆく人の顔が普段と違って見えることがあるのです。
みんなの顔がすごく疲れたような不自然な顔ばかりに見えてしまいます。失礼ですけど、ゴムか何かで作られたような、なんだか特殊メイクのマスクみたいと言いましょうか、生気が感じられない顔といいましょうか。逆に自分自身が街にとけこめないような、自分が浮いた存在に感じられるようなことがあります。

Nさん: なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

玉置: そうですねえ。修行を一生懸命に行うことよって、自分の意識が普通の人と違う意識に変化したためでしょう。真理の実践をどんどんやっていけば、たとえ特別な修行をしなくとも同じような現象を感じるようになります。どんなきれいな人を見ても、どんなに美しい女優の方やどんなに格好いい俳優を見ても、みんな動物的な無智な顔のように見えてしまいます。それだけ真理の実践をすると、他から際立ってしまうのです。その人の持っていた、いろいろな穢れがそぎ落とされ、女性でも男性でも目鼻立ちがくっきりとして聡明な顔に変化していきます。威厳さえ出てくるようになりますね。

Nさん: すごいですね。真理の実践をどんどん進めたら、どうなるのでしょうか。

玉置: すごいかもしれないけど、その現象はずっとは続かないのですよ。単に街を歩いているだけでも他の人とエネルギーの交換が起こるので、だんだん違和感はなくなっていきます。みんなの顔もいつもと同じように見えてきます。他の人が普通の顔に見えるという事は、すでに自分も普通の人と同じようなエネルギー状態になってしまっていると考えてよいでしょうね。顔もみんなと同じような顔に戻っているはずです。ただ、実践を徹底的にやっていけば、聡明な顔も少しずつ固定化されていくけれど。それだけ、真理が心の深いところに根付いたということだろうね。

Nさん: なるほど。そんなにエネルギーの状態で顔が変化するのは面白いですね。

玉置: また修行したり瞑想したりすると、もとの聡明な顔に戻るんです。修行者は一日で顔がコロコロ変わります。私は思うんだけどね。中世のヨーロッパで魔女狩りがあったでしょう。老女が魔法の力によって若い姿を保っているけど、魔法の力が弱まるともとの老女に戻ってしまう。それによって、魔女扱いされて火あぶりにされた可哀そうな話があるけれども、それはおそらく魔法で若さを保っていたわけではなくて、霊的に浄化された女性がエネルギーの交換によって顔を変化させていただけに過ぎなかったのではないかなと思っています。余談ですが。

Nさん: なるほど。エネルギーをもとの良い状態に戻すとき、気をつけなければいけないことはありますか。

玉置: ええ。他者と関わってエネルギーの交換が生じる時は、どうせエネルギーは交換されるのだから、自分の一番良いエネルギーが相手に移行して、相手からは苦しみのエネルギーが自分に入ってきてくださいと願うことです。自分とのエネルギーの交換によって確実に相手の苦しみが減り喜びが増すんだと信じることでしょう。最初からそう思っておけば、いざ修行でエネルギーを回復させていく時でも、そんなに大変ではないと思いますよ。その時忘れてはいけないのは、他者の苦しみですら自分の過去に原因があるのだということです。これはかなり難しいですが、そのような認識がないと「他者の苦しみをひきうけてあげているんだ」という傲慢さが生まれます。修行に失敗しないためにも、そのような認識は非常に大切なのです。大切なことですから、この理論についてはまた別に説明しましょう。

Nさん: はい。

玉置: このように地道な修行・瞑想と、他者の苦しみを引き受ける慈悲の実践をたゆまず続けるならば、光り輝く身体を得られますよ。身体全体、顔全体から光が発するような感じです。それは、霊的に敏感でない人でも真理の実践者をぱっと見た時に何か違う印象を受けます。その時には、あなた自身が光の御魂となって、多くの他者に真理を解き明かしていけるようになっています。真理とは、生死を超えて最高の世界であるニルヴァーナ、絶対的な非二元の境地である真我の状態へ向かうための法則です。そこには人間世界では言い表せない幸福や自由があります。この真理の実践こそが、高い世界の神の行いであり、魂の本当の生き方なのです。この真理の素晴らしさを伝えることの出来る魂は、顔形だって変化していくのは当然だといえますね。

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真我への道 騙されやすい人とは 

今回はNさんに質問をいただいたときのことを紹介します。

Nさん: 私、人に騙されやすいんです。どうしたらいいのでしょうか。

玉置: そうですね。まず、あなた自身に残念ながら人に騙されるカルマがあるということですね。それを認めなくてはいけないでしょう。過去に自分は誰かに嘘をついてしまったのだということをね。

Nさん: やっぱり過去生に嘘をついたら、今生は嘘をつかれてしまうのですね。

玉置: 必ずしもそうとは言えないんだけど。もしかしたらあなたは過去生に菩薩として生きていて周りの人の悪いカルマを吸収した結果、今生は人に騙されるという結果になってしまったのかもしれない。それがどちらなのかは分からないのです。ただ、この世界のすべては自己の心の現れだから、自分に嘘をついてくる人間が現れるというのは自分自身の心の要素として「嘘をつく」というデータが存在するのですよ。だから、どちらにせよ決して他人事ではないのですよ。これは心にとめておいて、なるべくそのように周囲の物事をとらえていって欲しいですね。
あとね、前世においてあなたは嘘をついて人を騙してしまった可能性があるけど、今生は嘘をついていないですよね。でも、本当に小さな嘘、ささいな嘘はないだろうか。それを考えてみて下さい。ちょっと自分をよく見せるために大げさに言ってしまったり、控え目に言ってしまったり、そういうことはないだろうか?と自分を振り返てみて下さい。

Nさん: そのくらいの嘘はついてしまっています。相手が「これこれ、この位なんでしょう?」なんて言われると、思わず「うん」なんて・・・。

玉置: そういう、ささいな嘘もなるべくなくしていきましょうね。他の大きな嘘をつかないで いられるんだから、きっと大丈夫。あなたが小さな嘘もきっぱり止められたら、たとえ誰かに騙されても、そのことをだんだん気にしなくなりすよ。逆に、早くカルマが返って来たことを喜べるようになりますよ。

Nさん: どういうことでしょうか。

玉置: 過去に積んだカルマはいずれ自分のもとに返ってくる。しかし、それは早ければ早いほどいいのです。そのカルマが悪いことに対してなら、後になればなるほどそのカルマの結果は大きな災いとして返ってきます。また、それに対して「嫌だ」と思う気持ちも大きくなってしまうのです。カルマの結果を受けるとき先延ばしにすると、相乗的により一層辛くなるのです。これは嘘以外のカルマについてもいえることですね。ですから、自分に起こってくることは、どんなことであろうとも受け入れるべきなのですよ。

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真我への道 嘘は、なぜいけないのか

 前回は人を騙すこと、嘘について少しお話しました。今回は嘘をつくという行為自体について説明していきましょう。なぜ私たちは嘘をついてしまうのでしょうか。

 まず、嘘をつく背景に自己保全の意識があります。自分をよく見せようとするあまり、嘘をついてしまうということですね。しかし、そのような自己保全の意識を持って嘘をつき続けたらどうなってしまうでしょうか。それは、他人が自分を見たときに嘘に塗り固められているために正確な判断がつかなくなります。本当の自分を理解してもらえない状態ですね。

 そればかりではなく、同じように自分がついた嘘によって自分の周りに霧がかかってしまい、自分も他人や周りの物事を正確に見ることができないようになっていきます。嘘をつくことによって偽りの自分を見せているのですから、そのカルマが返って来たともいえるでしょう。そして、他者や物事を理解できない状態に陥ってしまいます。相手から理解もされないし、相手のことも理解できない。これは非常に寂しいことですね。

 逆に、嘘をつくことを止めれば、物事や他者についてありのままの姿が理解できるようになっていきます。真理の実践とは、物事をありのままに見つめていくためにあるのですから、当然嘘をつくという行為から離れなければいけないわけです。

 「自分を良く見せたい」という心の働きは、第二チャクラのスヴァディスターナチャクラの穢れに由来します。第二チャクラは性器に位置していて、性的能力・感情表現・感性などを司っています。

 「自分を良く見せたい」特に、異性に対して「きれい」「かわいい」もしくは「格好いい」と思われたいというのは誰しも感じることでしょう。それはより良い異性を得るため、自分の子孫を残すための本能的な欲求だからです。非常にプリミティブな欲求であるため、人間以外でも多くの種で見られます。

 しかし、たとえそうであろうと、魂の究極的な目的である解脱・悟りにはその欲求はやはり障害になってしまいます。物事をありのままにとらえていくのが悟りであるのに、「良く見られたい」というのは全く反対の欲求だからです。

 スヴァディスターナチャクラの穢れとは、どのような現象を引き起こすでしょうか。スヴァディスターナチャクラが穢れている場合、それは物事を覆い隠す働きをします。物事をあいまいにして実際以上に良く見せる働き、装飾する働きです。

 例えば、料理を作ればその料理は実際の味よりもおいしく感じられます。同じように、よく見ればさほどでもない人でも「なんとなくかわいい。きれいだ」もしくは「なんとなく格好いいな」と感じさせるのです。声ですら、なんとなくかわいく感じられ惹きつけられるような、そんな気がするものです。

 これがスヴァディスターナチャクラの穢れから生じる「なんとなくよく見せる」というエネルギーが働いた場合の、ほんの数例です。一見してなんだか良いことばかりのように感じられますが、よく見えているだけで本質がともなっていないのですから必ずしも良いこととはいえないでしょう。相手の目が覚めたら、失望されてしまうかもしれません。

 逆に、しっかりと真理を実践しスヴァディスターナチャクラを浄化していったならば、どうなるでしょうか。内的な変化として、まずは物事の本質を見極める力がつきます。そういった真理の智慧から、すべての魂に対する慈愛が芽生えてくるようになります。その人の発するバイヴレーションは、もう全く別なものになるでしょうね。

 外的な変化としては、その人の顔にあったはずの偽りのかわいらしさや色気はなくなり、真理の智慧によって凛とした聡明さが顔に現われます。顔のよどみや厚ぼったさがとれ、スッキリして目が大きくなります。真理の実践をしている女性は明るい透明感がありますね。

 私の場合は真理の実践をする前は強面でやくざみたいだったんですが、いまは我ながら優しい感じになったと思います。以前は重たい一重瞼だったのですが、何もしていないのに今はくっきり二重で目がぱっちりしました。真理の実践がいかに人に変化をもたらすか、私の顔がいい例だと思います。

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真我への道 声の変化

(2012/01/12)

 日頃から真理についてばかり語っている人と、日頃うそや綺語(不必要な言葉)、悪口ばかりしゃべっている人の声を比べてみると、その二つの声の質には、はっきりした違いがあります。

 真理を背景とし正しい言葉を話している人の言葉には力が宿ります。現象をより良く変えていく力があるのです。そのような声を聞いた人は知らぬ間に意識が上昇し、修行が進みます。一方、反対に日頃正しくない言葉や煩悩的な言葉を話す人の声を聞くと、聞いた人の意識はいつの間にか低下し、修行が進むことはありません。このような現象は、声を聞いただけでも意識の連動が生じるために起こります。カルマの交換が起こっているともいえます。

 ですから、うそや不必要な言葉、誰かの悪口は慎むようにしましょう。そして、いつも真理を思い、正しい言葉を語るようにしていってください。

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真我への道 神通力について

(2012/02/21)

 人は誰でも真理の修行をやっていけば、必ずニルヴァーナに至る最終段階の超能力までも徐々に身についてきます。古くから仏教でいわれる六神通のことです。六神通とは神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通をいいます。

 漏尽通以外の五つ神通力がどの順番で身についてくるのかは人それぞれで、その人のカルマによると思いますが、漏尽通は必ず最後に体得することになっています。漏尽通が身につくというのは、その魂が最終段階であるニルヴァーナに至ったことを示しています。ですから、それまでのプロセスとして他の神通力がついてきとたとしても、それに慢心してはいけません。そこに意識を向けないで、漏尽通がつくまではひたすら修行に専念しなくてはならないのです。あるいは、すべての魂を救済することに全力で努めなくてはいけません。

 なぜなら、私たちが生きているこの世界は、自己の心を鏡面のように映し現出させている幻影球体世界だからです。このような幻影なる、自己の心の世界において、仮に他者の心が神通力によって読み取れたとしても、それは自分の心の一部を見ているだけで本当の他人の心を見ていることになりません。また、仮に天界の神の心の声を聞くことができたとしても、それは完全に正確なものであるという訳ではありません。この幻影球体世界が自分独自の観念から生じた世界であるために、自分なりの認識、見解によってその声を聞いてしまうのです。神の真実の声が届いたとしても、自分なりの解釈が入り、その正確な意味が聞き取れないということ起こるのです。

これは、天の眼,千里眼についても同じことがいえます。完全な異次元、異空間を見ているのではなく、自分の心の異なった則面を見ているのです。他人の過去生を知る力である宿命通にしても、自己の固有の見解によらず他者の過去生の世界をありのままに正確に見ているとはいえません。それが自分の観念外の時代・世界であったならば、それを正確に理解できないこともあるからです。

このような神通は自己の修行の進展を測るバロメーターにはなりますが、そこに捕らわれることは慢心を招きます。この慢心により、修行はそこで行き詰まり袋小路にはまってしまいます。ですから、どんな神通がついても心を動かさないようにして、なるべくそれに捕らわれないようにした方がよいのです。

私たちが目指さなければいけないのは、この幻影の世界を欲しいままに生きることではありません。この幻影なる世界を打ち破り、真実の世界に至ることです。この完全なる至福の境地に至ることにより、完全なる解脱を達成することにより、必ずや最後の漏尽通が芽生えてくるのです。

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