玉置宏千の世界観
慈悲について

 

真我への道 初詣に行く予定の方へ

                                         (2011/12/26)

 お正月、初詣に神社へ行かれる方も多いかと思います。例年はご自分やご家族のことで願掛けされるのでしょうが、2012年のお正月はどうぞすべての魂のためにご祈願してください。

「この神社に初詣に来る一般の人が真理の実践ができますように、どうぞ真理に結び付けてくださるようお願いいたします。その功徳により、神様ご自身も真理の実践ができますように。」

このように神社の神様にお願いしてください。ひとりでも多くの方が菩薩としてこのような祈りをささげることは非常に意味があることだと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

真我への道 苦しみの総量は一定である

                                         (2011/12/07)

 この世界は、苦しみに覆われています。ニュースやネットを見れば、悲惨な事件や事故はいつもどこかで起こっています。ニュースにはならなくても直接知ることはなくとも、過酷な状況におかれ苦しみに打ちひしがれている人々、涙さえ枯れ果ててしまった人々はたくさん存在していることは誰もが想像していることでしょう。そうでなくとも人は病と老い、そして死と離別の苦しみと恐怖からは逃れられません。

 それら多くの人の苦しみに自分がいくら憤りを感じようと哀れみを覚えようと、一個人が何をしようと無駄だと、私たちは無力感に陥りがちです。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。私たちひとりひとりがこの世界にあふれる苦しみに対し、本当に為す術はないのでしょうか。

 この世界は、自己の心を鏡のように映し出したものです。この世界に存在する苦しみもすべてが自分の心の一部なのです。そして自分の心であるがゆえに、その苦しみの総量は決まっています。今この瞬間、自己の心に存在する、苦しみの量は一定です。それらが他者の苦しみという形に投影され、自分の目の前に映し出されているのです。

 自己が喜びを追及すれば、この世界から他者の喜びが減ります。逆に、自分の喜びを放棄し他者に差し出せば、他者が経験する喜びは増えます。同じように、自己の苦しみに耐え切れず他者に苦しみを投げ渡せば、他者の経験すべき苦しみは増大します。自己の苦しみを喜びと取り替えることは、自分の知らない何処かの誰かの喜びが減り苦しみが増すのです。この世界の中心にいる自分という存在は、自己の心の投影である他者と苦しみというボールのキャッチボールしているのです。

 苦しみが一定であるからといって、それらの量が変化しないのかといえば、そうではありません。慈悲を思念することで、この苦しみの量を減らすことが出来ます。他者の苦しみを自己の身体に取り込み、その苦しみを一切外に出さないようにするのです。その苦しみに捕らわれない、頓着しないようになって初めて、この世界から.苦しみがひとつなくなります。

 自分が掃除機の吸い口となり、この世界の苦しみをすべて吸い取っていくのです。エネルギー的に見れば、自己のスシュムナー気道に他者の苦しみを導き出し、それに捕らわれずエネルギーを上昇させ最終的にはサハスラーラ・チャクラから昇華させるということです。そうすることで、苦しみがこの世界から減るのです。この実践を始めると、今まで自分が思っていたよりもこの世界の苦しみは実は少ないことに気づかれることでしょう。


この作業はこの世のすべての苦しみがなくなるまで続きます。すべての苦しみがなくなるとは、すべての他者がこの苦界から脱したということです。それを見届けてから、最後に自分も苦界を超え、さらに高い世界に飛翔するのです。アニメーション的ですが、掃除機の吸い口である自分がすべての他者の苦しみを吸収した後、一番最後に掃除機本体を吸い取るようにします。後には何も残りません。そのようにしてあなたが誰もいなくなった、この世界の幕を閉じるのです。

このページのトップへ 

トップへ 

真我への道 コルベ神父との出会い

                                         (2011/10/31)

 1997年、私は友人と連れ立って長崎に行きました。平和祈念像などを観光した後、浦上天主堂にも足を延ばしました。その浦上天主堂内でのことです。堂内の絵画専門の売店にあった一枚の肖像画が私の足を止めました。

 壁に掛けてある、その肖像画が非常に素晴らしいバイブレーションを発していたのです。普通では考えられないほどの強いエネルギーでした。なぜ絵画がそのようなバイブレーションを放っているのか、肖像画の人物が何者であるか、私たちは強い関心を持ちました。

 売店の方に伺ったところ、戦前の長崎で布教活動に従事されたコルベ神父という方の肖像画だということでした。さらに、当時コルベ神父が一時住まいにされていた建物が現在は売店として浦上天主堂の敷地内に残っていると教えてくれました。

 天主堂を出て表にある売店の方に行ってみました。その売店の奥の壁は、一部ですが古いレンガ造りになっていました。聞くと、長崎に原爆が落ちたときに他の部分はすべて壊れてしまいましたが、唯一その部分だけが残ったそうです。
二つ目に立ち寄った売店の方に、昔ここに住んでいたコルベ神父のことを尋ねると、コルベ神父に師事していた少年が成長し近くの教会で神父をしていると教えてくれました。コルベ神父が設立された聖母の騎士修道院の流れをくむ本河内教会というところだそうです。いました。聖母の騎士修道院は同じ敷地内に存在し、コルベ神父が刊行していた「聖母の騎士」という小冊子を今も出版し続けているそうです。

 私たちはコルベ神父について知りたい、もっといえばその肖像画のエネルギーの訳が知りたいという思いを強くしていました。ですから、予定していた長崎での滞在時間は差し迫っていましたが、そこまで行ってみることにしました。

 本河内教会の礼拝堂に入ると、正面に向かって右手の壁に浦上天主堂にあったコルベ神父の肖像画と同じ、でも何倍も大きいものが掛けられていました。

 その大きな肖像画のコルベ神父に向き合い修道服に身を包んだいかにも神の奉仕者というその姿を眺めていると、自然に涙が溢れてきました。私は無性に涙が出て止まることがありませでした。コルベ神父の肖像画から伝わる慈愛の波動が私を包みこんでいました。そして、私の身体の気道をクンダリーニ・エネルギー(主たる生命エネルギー)が上昇し、それまで滞っていた喉のヴィシュッダ・チャクラの穢れがゆっくりと喉を突き抜けていくのが感じられました。そして、徐々に頭頂のサハスラーラ・チャクラにエネルギーが満ちてきました。隣の友人を見ると、彼もまた同じように涙を流していました。コルベ神父

 その肖像画と同じものをアップします。画像では分かりませんが、コルベ神父が崇敬されていた無原罪の聖母の象徴としてユリの花、そしてアウシュヴィッツの象徴である鉄条網のふたつが背景に描かれています。その無原罪の聖母マリアとアウシュヴィッツ強制収容所は、コルベ神父の生涯を象徴するものでもあります。

 コルベ神父の生涯を以下に記します。これをお読みいただければ、なぜコルベ神父の肖像 画を見ただけで私たちが涙したのか、クンダリーニ・エネルギーが上昇していったのかお分かりになるかと思います。

 

 ポーランド出身のマキシミリアノ・コルベ神父は、敬虔な両親の影響で幼い頃から聖母マリアに強い崇敬を持つようになったそうです。13歳で神学校に入学し、非常に成績が優秀であったためにローマに留学、その後25歳で司祭になられました。留学時代、コルベ神父は同志とともに「穢れなき無原罪の聖母の騎士会」を設立しています。騎士会はキリストの福音と無原罪の聖母マリアの慈愛を広め、聖母のご加護のもと多くの人の救いに尽くすことを目的にしていました。特にフリーメーソンの改心を願っていたようです。帰国後、コルベ神父は、たった一人でポーランド語版『無原罪の聖母の騎士』の刊行を始めました。次第に彼の気高い志に賛同者が集まり、『無原罪の聖母の騎士』は徐々に発行部数をのばしてきました。またコルベ神父に共鳴する修道志願者のためにポーランド語で「汚れなき聖母の場所」という意味のニエポカラヌフ修道院を設立するに至りました。

 それらが軌道に乗ると、コルベ神父はそれに安住することなく宣教のために日本を目指しました。1930年コルベ神父36歳の時でした。

 来日したコルベ神父一行は乏しい資金しか持たず、極貧生活を送ったそうです。また、コルベ神父の持病である結核は重症で、肺の4分の3が結核菌にむしばまれていたそうです。驚くほどの粗食と短い睡眠と重病にも関わらず、来日後わずか一カ月で言葉もままならない異国の地で「聖母の騎士」を日本語で刊行したそうです。その後も神父はどんな試練にもひるむことなく宣教に打ち込み、一年後には前述の聖母の騎士修道院を設立されています。

 来日6年後、ニエポカラノフ修道院院長の任務を再び要請され帰国の途につきました。のち、 第二次世界大戦が始まり、1939年8月末ポーランドはドイツ軍に占領され、ニエポカラヌフの修道院も弾圧されました。ナチスは、コルベ神父の説くカトリックの教えとナチスの思想は相反するとして、1941年2月ゲシュタポがニエポカラヌフ修道院に踏み込み、コルベ神父は逮捕され、ワルシャワの収容所に送られました。その後、彼はアウシュヴィッツ強制収容所に送られることになりました。囚人番号16670、コルベ神父につけられた番号です。

 アウシュヴィッツでは一切の宗教活動が認められておらず、みなと同じ囚人服を着せられたコルベ神父でしたが、最後まで神の奉仕者であり苦しむ人々の友であり続けました。コルベ神父の名声はポーランド中にとどろいていたために、アウシュヴィッツでは特別な憎悪の対象とされ凄まじい虐待を受けたそうです。

 病身の上に、他の人の倍の重さの木材を背負わされたそうです。壮絶な重労働に力尽きて倒れれば、鞭攻めの嵐でした。コルベ神父の余りにも痛ましい姿にたまりかねて駆け寄り手助けしようとした他の者に、
「ありがとう。でも危ないからおやめください。私は大丈夫。まだまだ頑張れます」
と、巻き添えにするまいと笑顔を見せ、かすれきった声で懇願されたそうです。

 さらに、他の人の身代わりになって殴打されることすくなくなかったようです。また、担ぎ出される多くの死者に永遠の安息を祈り見送ることを自分の務めとし、祈り続けられました。

 そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、
「他の方々はいただいていませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられる食事でさえも大部分を他の人に分け与えていたそうです。痩せ細っても、
「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことがあります。今なって、それを悔やんでいます。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるでしょう。その人たちに・・・」とおっしゃったそうです。

 また、誰か悲しく暗い表情をしている人があったならば、コルベ神父は心配があったら話してくださいと優しく声をかけられていたそうです。夜ごとに人々の告解を聴き、死を間近にしておびえている人々の手を握りしめ、或いは抱きしめながら慰め励まされました。

 このようにアウシュヴィッツの地獄にあってもコルベ神父はいつも朗らかで、気落ちした人々を勇気づけました。コルベ神父の周りには話を聞きたいと収容者たちが集まり、そんな時神父は静かに語られたそうです。

 苦しみや悩みは私たちを絶望の底に落とすためにあるのではなく、人間として更に強くなるための糧にしなければならないこと。
憎しみからは何も生まれず、愛のみが創造の力を持っているということ。
愛に団結するならばどんな困難も乗り越えて行けるはずということ。

 宗教活動が禁止されていた収容所の中で危険を侵しても、聖書の言葉を人々に語り励まし続けたのでした。収容者たちはコルベ神父の存在にどれほど心救われたことでしょうか。

 1941年の夏ある日、コルベ神と同じ班の囚人から脱走者が出ました。連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が処刑されることになりました。収容所所長は無作為に10人を選び餓死刑に処すと宣言しました。息詰る時間が流れ、10人の名前が呼ばれました。突然、ひとりの男が泣き崩れました。囚人番号5659、ポーランド軍軍曹のフランシスコ・ガヨヴィニチェク。彼はナチスのポーランド占領に抵抗するゲリラ活動で逮捕されていました。彼は、妻子を残してきたことを訴え命乞いをしました。 その売店で買ったキャンドル(真我の姿を現している)

 その時、囚人の中からコルベ神父が所長の前に進み出ました。所長は銃を突きつけ「何が欲しいんだ、このポーランドのブタめ」と怒鳴ったそうです。しかし、神父は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で「お願いしたいことがあります」と言いました。所長が「お前は何者だ」と問うと、「カトリックの司祭です」と答え、静かに続けました。

 「自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」

 所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出ませんでした。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたからです。その場のすべての者は呆然としました。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、ガヨヴィニチェクを元の列に戻すと、黙り込んでしまった。

 コルベ神父は他の収容者に何もおっしゃらず、ただ優しい笑顔でうなずいて別れました。

 コルベ神父は、他の9人と共に裸にされ<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に入れられました。餓死監房、それは生きて出ることのできない場所です。パンはもちろん水も与えられず、苦しみのあまり錯乱し多くの人が狂死しました。そこからは絶えず叫びやうめき声が響いていたそうです。

 ところが、そのような地獄の中でもコルベ神父はコンクリートの床にひざまずき、或いは壁に背を支えて静かに讃美歌を歌っていたそうです。コルベ神父を中心に一同がそれに唱和し、やがてその祈りと歌声は隣の牢の人々にも広がっていきました。またコルベ神父は苦しむ人々を励まし、ひとりひとりの臨終を見送りました。コルベ神父は<死の地下室>を聖堂に変えたのです。

 2週間後には、神父を含め4人が残りました。瀕死の状態にありながら、コルベ神父は壁にもたれ目を開いてとぎれとぎれの声で祈り続けていたそうです。青年期より肺結核をわずらい病弱であったのにもかかわらず、コルベ神父が最後まで残っていたのは、おそらく最後のひとりまで見送らればならぬという使命感によって持ちこたえていたに違いありません。

 当局は死を早めるためにフェノール注射を打つことを決めました。注射を打つ際、コルベ神父はナチス軍医に自ら腕を差し出したといわれます。8月14日、聖母被昇天祭の前日、コルベ神父は最期にマリアさまの名を静かに呼び、47年の崇高な生涯を閉じられました。亡くなったとき、その顔は輝いていたといいます。

 ひとりの神父が身代わりになって死んだという噂は収容所に広まり、この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こしたそうです。1982年10月17日、マキシミリアノ・コルベ神父は、教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の列に加えられました。

 肖像画から発せられた強いエネルギーは、コルベ神父の人々に対する溢れんばかりの慈悲の心の現われです。死してなお、神父の崇高な愛は人々に注がれていたのです。その愛の波動が私と友人に連動してきたのでした。

「おれたちは、いったい今まで何をやっていたんだろうね」友人が小さくもらしました。私もそれにうなずき返しました。

その頃、私たちはインド哲学・ヨガやチベット仏教に出会い、これこそ真理だと信じ、他の宗教を外道(真理ではない教え)と蔑んでいました。そして、ヨガの浄化法やエネルギー上昇の技法・仏教修行に夢中になっていました。思えば、自分たちはヨガの技法や密教の秘儀に酔いしれ、大事なものを見失っていたに違いありません。

 おそらくコルベ神父はヨガのことなどまったく知らず、クンダリーニ・エネルギー(生命エネルギー)にいたってはその存在さえ知らなかったのに違いありません。にもかかわらず、コルベ神父の肖像画ですら、私たちをはるかに凌ぐ崇高なエネルギーを持っていました。私たちの穢れを昇華させるほど強いものでした。このことは、エネルギーの理論や技法よりも何よりも、慈悲がどれほど尊く大切なものであるのか、真理の核であるのかを教えてくれています。宗教の違いなど、なんの意味を為さなかったのです。慈悲を言葉だけで分かっていたような気になって、いかに自分が真理の外側に捕らわれていたかを悟りました。

 その時、日本人の神父が礼拝堂に入ってこられました。神父は私たちがお説教を聞きに来たものだと思われたのか、いろいろお話してくださいました。どうやら、この方は幼いころ教会に預けられ、その縁でコルベ神父に教えを受けたようでした。

 その神父様は、私たちと話をしているうちに、どんどん声が枯れてきました。咳をしきりにしていました。そして、
「こんなことはあんまりないのですが・・・。ちょっと失礼しますね」
と言ってその場を離れました。神父は飴を取りにいったようで、ヴィックスのど飴をひとつ口にいれました。そして、私に向かってヴィックスの箱を差し出し、
「おひとついかがですか」
とおっしゃいました。

 私は長崎滞在中にのどのチャクラに穢れが堆積し、それがなかなか昇華できないでいました。喉に穢れが溜まり神父とお話しているときにも、咳払いをしていたために、神父はのど飴を私にすすめてくれたのです。

 大河内教会の神父の咳は、おそらくその時私の喉に集中していた穢れに同調したせいでしょう。神父はこの礼拝堂で毎日を過ごすために、コルベ神父の慈悲のエネルギーによって浄化されていたのです。そこに穢れを持った私がやって来て、お話することで穢れが神父に移行したのです。

 例えるなら、それは透明な水に真っ黒な水を継ぎ足すようなものです。汚れた水に真っ黒な水を足してもあまり変化は見られませんが、透明な水では、それがはっきりわかります。加えて私自身も当時からエネルギー自体が特に強かったために、よりはっきりその症状が現われたのです。エネルギーが強いというのは、後から継ぎ足す真黒な水の量が多いというのと同じことです。つまり、それだけ他に与える影響が大きいのです。私の強い穢れのエネルギーが大河内教会の神父ののどに滞り、声枯れや咳などの症状を起こしたのです。

 おそらくコルベ神父の愛の波動は、あの肖像画が存在する限りずっと礼拝堂を清め続けることでしょう。私はそれを、身をもって経験しました。それほどまでに、コルベ神父は神に忠実であり、人々を愛し慈しんでいたのでしょう。このことは他の方に取ったら格別なことではないのかもしれませんが、私にとって貴重な経験になりました。今なお自己を省みる糧になっています。

 

このページのトップへ 

トップへ 

真我への道 店売りの野菜を切るだけでも殺生

 料理を作るとき、野菜に包丁を入れますね。人参を切ったり、大根を切ったり、キャベツを刻んだり。

 すると、どうでしょう。いきなり下半身、特に膝から下が厚ぼったくなるような感覚に襲われ、足の裏が真っ赤になることがあります。これは、野菜を切ることでアパーナ気という下向きのエネルギーが急速に増大し、血流を足元に押し下げているためです。このアパーナ気は、人の意識を低下させてしまいます。足は重くなり、身体も重くなり自己の修行は計り知れなく遅れてしまいます。

 もちろん、これはかなり修行が進んだ人に限って起こる現象です。普通の人は、そんなことはありませんよね。

 この現象が教えてくれることは、お店で買ってきた野菜を切るだけで殺生の一端となってしまうということです。つまり、殺生の業(カルマ)を積んでしまうことになります。これは修行している人にも、修行をしていない普通の人にも当てはまります。でも、私たちはこの世界に生きている限り、何らかの食物を摂取し続けなくてはなりません。つまり、殺生の業(カルマ)から逃れられないということです。

 野菜にも命があります。そして植物には、それぞれその成長を見守る植物の精がついています。殺生の業(カルマ)を積むということは、その生命を奪われる苦しみをいつか自分も経験させられるということです。

 野菜などを調理する時に大切なのは、彼らの生命を哀れみ、その苦しみを引き受けたいと思うことが必要です。それこそが慈悲の実践です。私たちに出来るのは、慈悲を思うことだけです。しかし食事の準備のような毎日の暮らしの中でも、このような慈悲の思念を持ち続けることが出来れば、慈悲の思いもいつしか本物になります。苦しみ自体にとても強くなります。

そして、その時は本当に他者の苦しみを肩代わりできるようになるはずです。

このページのトップへ 

トップへ 

真我への道 へら鮒(ふな)釣り

(2012/02/07)

 若いころ私は釣りが趣味で、特にへら鮒釣りに興じていました。真理というものに初めて触れてからも、それが殺生にあたると知りつつも好きな釣りをすぐに止めることは出来ませんでした。しかし、へら鮒釣りをしていてもやはり真理のことが頭から離れずにいました。

 ふなの釣り餌この世界はカルマの法則にというものが存在し、すべてが原因と結果というものから成り立ってるのだと聞かされても、今自分が釣っているへら鮒にも原因があり、その果報とし動物に生まれて、人間に釣り針で釣られ痛い思いをしなくてはならないカルマを生じさせたのだ」と。こう、自分自身に言い聞かせていました。私は自己の殺生を正当化しようとしたのです。

 しかし何度もふな釣りに行き、その度に苦しみ必死にもがくふなを目にするうちに、カルマの原因により動物として生じた魂であるけれども、今この時自分はその魂を苦しめているのだと認識するようになりました。

どれだけ釣りが好きであったとしても、このように他の魂を苦しめている自分自身にひどく嫌気が差すようになってきました。そして、カルマの果報により苦しめられているふな達を見て可哀想に思うようになりました。

 いくら、ある魂が自己のカルマの果報により動物などの苦しい境遇にあったとしても、私自身が「それはその魂の自己責任なのだ」と見なすことと、それでもその魂に対して哀れみを生じさせるということとは、まったく別のことです。

 より深い見地に立てば、ふな釣りも私の心の現われである現象の一つであり、釣りの対象であるふなにしても、彼らがカルマの果報により苦しんでいること自体も私の心を写し出している幻影に過ぎません。今自分が見せらている幻影に対して、私自身がどれだけその苦しみをひきうけさせてもらうのか、それにより自分がどれだけ苦しんでも構わないと思えるかということ、そこが大切なのです。真理に出会い、しばらくして私はそのことにようやく気付きました。そこでやっと釣竿やその他の釣り道具を手放し、真理というものを本当に実践し始めることが出来るようになったのです。

このページのトップへ 

トップへ