玉置宏千の世界観

    

RECENT TOPICS

玉置宏千が日々の瞑想で知り得た世界やインスピレーションで

与えられた啓示をみなさんにお伝えしていきます。

 

真我への道 苦しみについて一言

                                         (2013/02/16)

 人の苦しみというのは、真理を知り実践する以外に、その苦しみを本質的に解消することは不可能なのです。飽くことのない欲望、上を見ればきりがありません。この相対世界にあるかぎり、この世が無常であるかぎり、まったくかげりのない幸福などないからです。

 煩悩を手放す以外に、本当の意味で人が幸せになる方法はないのです。

 

真我への道 調理器具について

                                         (2013/02/07)

 お湯を沸かすときでも調理のときでも、なるべくホーロー製の鍋を使うことをお勧めします。

 ステンレスは何かと便利ですが、身体に有害な物質も溶け出るので、なるべく避けた方がいいでしょう。アルミ製の鍋も避けたほうがいいのはもちろんです。

 身体を害する成分は、程度差はあれナーディを穢し全身のエネルギーの流れを滞らせます。

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真我への道 進化

                                         (2013/01/19)

 進化といえばダーウィンの進化論が何といっても有名ですね。このダーウィンの進化論を幻影球体世界の中で当てはめて考えてみましょう。私たち人類は猿から進化したものです。そして人間より高い世界である修羅天、これは爬虫類の進化系と考えられます。ここまでは多くの人が語る範ちゅうでしょう。では修羅天以上の世界、欲天の住人は何の進化系かお分かりになるでしょうか。

 私たちは骨格が筋肉や脂肪に包まれ表面は柔らかい皮膚で覆われています。しかし、彼らは全く身体の構造が違います。骨格が表面に出ている、つまり固い殻に筋肉や内臓が包まれ、背中に羽が生えています。つまり欲天の始祖は、地球上でいえば昆虫に当たります。

 天界の住人といえば、天使を思い浮かべる方は多いでしょう。天使には鳥の翼が生えています。しかし、実際は天界の神には、その起源からもわかるようにセミやトンボのような薄い透明な羽が生えています。ちょうど、ヨーロッパの妖精たちのようなイメージです。

 では、それ以外の形状はどうかというと、私たち人間から見れば彼らの顔かたちは私たちとよく似ています。そして、彼らの形状を清らかなもの、美しいものとして感じるだろうと思います。しかし、もし修羅天の住人が欲天の住人の姿を見たとしたら、彼らの眼には、欲天の住人は爬虫類の身体と顔をしていて、その背中には昆虫の羽が生えているように映るかもしれません。そのくらい、天界にいる神の顔は在って無いようなものなのです。見る者が、自分と同種の形状を相手に見出すようになっているのです。

 これは余談ですが、昆虫の中で頂点に君臨するのは蜂です。"蜂"という漢字は、"虫"に"?"と書きます。"?"とういう漢字は「(神木などに)神が降りる」という意味を持っているのです。名前からいっても昆虫の中のトップであることがわかります。

 蜂の中でも特に蜜蜂は花の蜜をえさとします。また、、それをえさとして子どもに食べさせることができます。花が育つためには土壌と肥料が必要ですが、この肥料というものは窒素やリン酸などを含みます。これらは人が直接食べれば毒素といえるでしょう。植物はこの毒素を取り込んで、水と太陽光で光合成を行い花を咲かせ蜜を作ります。その蜜を蜜蜂は食べているのです。人間は食べるために植物や動物の生命を奪わなければいけません。しかし蜜蜂は、食べるために殺生のカルマを積むことがありません。つまり虫としては非常にカルマがいいといえるのです。

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真我への道 初詣に行く予定の方へ

                                         (2013/01/01)

 2013年の元旦となりました。初詣に行かれます方は、どうぞ今年はご自分やご家族のこと以上に次のように御祈願ください。

『この神社に初詣に来る一般の人が真理の実践ができますように。そして、弥勒如来や菩薩方の衆生済度が成功しますよう、お願いいたします。』

このように神社の神様にお願いしてください。どうぞよろしくお願いいたします。

 

真我への道 やっぱり、ラム

(2012/12/30)

 「やっぱりラムは、(エネルギーが)上がりますね」。

 その人は嬉しそうに教えてくれました。以前に羊肉を食べるとエネルギーが上昇するという話をその人にしていたのですが、実際に自宅でジンギスカンのラム肉を食べたときのことを報告してくれたのです。食べているときは、エネルギーの変化はわからなかったそうです。ただ「牛肉の焼肉よりラム肉のほうがたくさん食べられるな」というくらいにしか感じていなかったということです。でも、食後一時間ぐらいして、宅配便が来て荷物を受け取ったけれども、その宅配便のドライバーが帰ったとたんに強い頭痛が始まったそうです。

 その宅配便のドライバーは顔なじみでよく荷物を届けに来るけれども、頭痛がするようなことは今まで一度もなかったと言っていました。ラム肉を食べたことで、自分でも気付かないうちにエネルギーが普段よりずっと上昇し、エネルギーの通り道である中央管も浄化されたのでしょう。そこに宅配便を届けにきたドライバーとやり取りをしたために、彼の穢れが中央管に入ってきた、やり取りの終わった瞬間から穢れの昇華が始まったわけです。ドライバーと関った分の穢れがエネルギーによって上昇する時に、頭痛という症状として現れたのでしょう。その頭痛は長くは続かず、しばらくして収まったそうです。

 このような霊的エネルギーの変化を体感することは、ある程度浄化が進めば日常茶飯事であり誰でも経験することです。その感覚にあまりとらわれてしまうと選民意識と排他的意識の増長を招くので、あまりいいことではないでしょう。「他者から受けた」という意識が強くなると、「この世界のすべてが自己の心の現われである」ことが理解できなくなってしまうからです。

 このときの話を例にとっていえば、宅配便のドライバーという形をとって自分にもともと内在していた穢れが自己の中央管にやってきただけにすぎません。それを自分の穢れであると認めず逆に嫌悪すれば、自己の修行にそれ以上の発展は望めないでしょう。

 しかし、霊的エネルギーの変化を自分の感覚でリアルに実感することは、世界の成り立ちが一般的に考えられているように物質や電気・磁気エネルギーだけで構成されているのではないことを私たちによく教えてくれます。そういった意味では、ラム肉などで手っ取り早くエネルギーを上昇させてみるのも悪いことではないのかもしれません。もちろん浄化の度合いやその人のポテンシャルによってエネルギーの変化を感じ取れるのかどうか決まるのでしょうが。

 前にも申し上げましたように、羊肉で上昇させることができるのは粗雑なエネルギーだけです。粗雑なエネルギーは上昇しても、微細なエネルギーまでは上げることはできません。ですから、粗雑なエネルギーがほぼ昇華しつくしている人にとっては、羊肉を食べると逆に全身のナーディが詰まる感じがします。

 そして羊肉でも他の肉であっても、それらをいただくときは「その肉の持ち主であった魂が次はより高い世界に転生できますように」と観想することが大切です。例えば人間に生まれ変われれば、あなたのようにその魂も真理にめぐり会うことができるかもしれないからです。私たち人間は、同じ人に対する慈悲だけでなく、他の種である動物にも慈悲を注がなくてはいけないのです。

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真我への道 エネルギーが強くなる野菜

(2012/12/25)

 ニンニクやニラなどの野菜は精力増強に効果があるとされ、体力を回復させたいときなど意識的に食べるようにしている人もいらっしゃるのではないかと思います。

 確かにニンニクやニラは霊的なエネルギーを増大させてくれます。他にはニンニクの芽、タマネギ、長ネギなども同じ効果があります。これらの野菜を食べると、なんとなくエネルギーが上がるような感覚があります。しかし、実際はエネルギーが増大した分、普段エネルギー・ロスしているチャクラから通常以上にエネルギーが放出している状態なのです。

 私たちが煩悩的な行為にふけると、その煩悩を司るチャクラからエネルギーが放出されます。放出されてしまったエネルギーは、それ以上上昇に向うことはありません。つまり、エネルギーは無駄に浪費されてしまったことになります。

 人それぞれ煩悩には傾向があり、普段からたくさんエネルギー・ロスしているチャクラというのも、人によってある程度決まっています。特定のチャクラからエネルギーをロスする傾向ができているのです。1つの煩脳を満足させればさせるほどその煩悩的欲求は強くなり、同様に1つのチャクラからエネルギー・ロスすればロスするほどそのチャクラからエネルギーは浪費されやすくなります。

 ニンニクやニラを食べると強いエネルギーが生じますが、その分チャクラからエネルギーが放出されロスしてしまうのです。例えば普段スヴァディスターナ・チャクラからエネルギー・ロスしている人は、よりスヴァディスターナ・チャクラにまつわる煩悩(性欲や惰眠など無智なる煩悩)がいつも以上に湧いてきます。

 ですから、普段から煩悩的欲求を統御してエネルギーが保全できている人にとってはニンニクやニラ、ネギ類を食べてもエネルギーは上昇するので問題はありませんが、そうではない人は、これらの野菜を食べる時は予め「煩悩的になるんだ」という心構えをしておいた方がいいでしょう。そうでないと、よりたやすく自分の煩悩に飲み込まれてしまうかと思います。

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真我への道 心の状態

(2012/12/20)

 あなたは、自分の心を見つめたことがあるでしょうか。ここでは、私たちの心の状態を湖の水に例えて分析してみます。

1つめは、さまざまな色の染料が湖に流れ込んで、いろいろな色になった水。水本来の無色透明からかけ離れた色をした湖水です。
2つめは、活火山の熱で水底からボコボコと煮え立っている湖の水。
3つめは、湖面にぎっしりと藻(も)や苔(こけ)が浮かんだ湖の水。
4つめは、湖の上を風が吹いていて湖面にさざ波が立っている、そんな状態の水です。
5つめは、湖底の泥が舞い上がって湖の水が泥で濁ってしまった状態。
この四つの湖水は、それぞれ違った心の状態をあらわしています。では、どんな心の状態をとらえているのでしょうか。

 1つめの、湖に流れ込んだ染料で水が変色してしまった状態、これは観念に染まって自分流の好き・嫌いが生じ、好きなものを近づけ嫌いなものを遠ざけようとする、貪りの心を表しています。ちょうど色眼鏡でものを見るのと一緒で、偏見を持った心です。着色された水面は正確に形を映しますが、その色までは正確に映し出しません。同様に、私たちは観念というフィルター越しに現象を見るわけですから、偏った見方をしている、つまり現象をありのままに見ていないということになります。もちろん湖底は見えいても、その正しい色は理解できません。これが観念に染まることで生じる貪欲に支配された心の状態です。

 2つめの沸き立った湖は、私たちの心が瞋(いか)りで煮えくり返った状態を例えています。こんなボコボコ煮えたぎる水面では顔を映そうとしても、おぼろげにその色がわかるだけで像は結びません。これもまた、現象をありのままに見つめることができる心の状態ではありません。同じように、心の中である水底も沸き立つ瞋(いか)りによって冷静な判断ができません。

 3つめの苔や藻に覆われた湖の水は、私たちの心が、頑固や愚鈍といったこん眠に覆われてしまっている状態を例えています。苔や藻が隙間なく湖面を覆っていると、水中に光は届きません。同様に、嘘は物事を覆い隠して、私たちを智慧の光から遠ざけ無智にしてしまいます。こんな状態では、誰かが顔をその湖の表面に近づけても正確に顔を映すことはできません。つまり、物事を正しく見ることができないということです。また、いくら眼を凝らして湖底を見ようとしても、苔や藻が邪魔をしてまったく見えない状態です。本人ですら、自分の頑固さ・愚鈍さによって自己の心を見失ってしまった状態です。

4つめは、湖の上を風が吹いているためにさざ波が立っている状態です。これは外側の現象によって心が興奮している状態と後悔によって心が落ち着かない状態のたとえです。掉悔(じょうかい)という興奮状態を指しています。掉悔にあるとき、人は物事を冷静にとらえることができません。さざ波によって湖底もほとんど見えません。

5つめの湖底の泥が舞い上がったことで生じる泥水は、私たちの潜在意識が煩悩的な情報、現世的な情報で混沌としている状態を指しています。このような心では、煩悩的な情報に惑わされて真理が見えません。絶対の真理に疑いを持ってしまう心の状態です。泥水の湖を覗き込んでも水底はもちろん見えませんし、水面に顔をきちんと映すことはできません。真理が理解できなければ現象の本質は見えてこないのです。

 これら5つは私たちの心が貪欲、瞋り、こん眠、悼悔、疑(ぎ)に覆われてしまって、本来の働きをしていないということを教えてくれています。物事をあるがままに見るためには、貪欲、瞋り、こん眠、悼悔、疑から離れなくてはいけないということです。静かで落ち着いた、透き通った水をたたえた湖だけが、鏡のように正確に現象を映し出すことができるのです。

 2012年の冬至はとうとう明日です。明日起こるであろう変化に気付く人は、ごくごくわずかだと思っています。しかし、1つの大きな節目であることは間違いありません。

 この特別な日をあなたはどんな心で迎えるのでしょうか。できましたら、静かで透明な心で、慈悲をたたえた心でその時を迎えて欲しいと思います。

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真我への道 データの宝庫

(2012/12/13)

 「本屋にいくとトイレに行きたくなるのはなぜ?」というのが一時話題になったことがありますね。新刊本のインクの匂いのせい?心理的な要因?はっきりした理由はわからないままになっています。

 しかし、その答えはとても簡単なことです。それは「アパーナ気が活性化するから」。アパーナ気というのは下向きに働くエネルギーであり、排泄や性行為、生理、歩行などに使われています。このエネルギーが優位になると、人の意識は下降してしまいます。修行をしていない一般の人であっても通常以上にアパーナ気が増大するため、本屋や図書館で便意や尿意をもよおす人が多いのです。一般の人には見えないことですが、浄化の修行をする者なら誰でも簡単に理解できます。

 では、なぜ本屋に行くとアパーナ気が活性化するのでしょうか。それは本屋に並んでいるたくさんの本から一時に大量の情報が私たちの意識に入ってくるからです。本の表紙をざっと眺めるだけでも、その本の情報は私たちの中に取り込まれます。サブリミカル効果でもよく知られるように、私たちの表層意識は認識できなくても、本のタイトルや表紙が視界に一瞬でも飛び込んできたら潜在意識は即座にそれを認識し反応します。本を読む前から本の発信する情報に私たちは知らず知らずのうちに影響されているのです。

 そして問題なのは、その本が発しているのが煩悩的な情報、人の欲望を煽(あお)るような情報であることです。つまり書店に並ぶ本のほぼすべてが、自己の煩悩を超えていくための真理と真っ向から反対する情報なのです。たとえ煩悩から離れるように説いている本があったとしても、その著者が煩悩から離れていなければ意味がありません。著者の意識は必ずその本にのって、読み手に連動してくるからです。

 これは書店だけではなく、図書館やCDショップやDVD・VHSのレンタルショップであっても同じです。みんな、真理とはかけ離れたデータの宝庫なのです。

 でも、そこで働いている書店員の方はトイレをもよおすことはあまりないはずです。それは、そのエネルギー状態に慣れてしまっているからです。どんなエネルギーであれ人はある程度慣れることで、その場のエネルギーに対して反応が鈍くなります。職場の環境だけでなく、人に対しても同じことが言えます。家族や同僚など長時間一緒にいる人では、その人と共有するエネルギー状態が当たり前になって、その影響がわからなくなってしまうのです。

 話が横道に逸れてしまいましたが、魂をニルヴァーナに導くための真理について書かれた本はそうそうあるものではありません。ですから、暇に任せて書店や図書館で不必要な本を物色するのはおすすめできる行為ではありません。足を踏み入れるだけで、エネルギーは下降し始めます。自己の意識を高く保ちたいと願う人にとっては、最も不向きな行為であるといえましょう。

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真我への道 大切なこと

(2012/12/11)

 未確認の惑星二ビルが地球軌道に近づいてきているという話を、皆さんは聞いたことがあるでしょうか。二ビルの公転はおよそ3600年周期であり、今度地球の軌道に近づくときには人類に壊滅的なダメージを与えると警告する人もいます。それが折しも今年の12月21日からであるといわれています。それが不安であるがために、いま躍起になって意識上昇させようとしている人もいるかもしれません。

 しかし惑星二ビルに怯えて生きるよりも何よりも、目の前にある自己の修行に全力を投じることが一番ではないでしょうか。誰にとっても、いま乗り越えなくてはならない課題が用意されているはずです。淡々とそれに取り組んでいくことが、きっと本当の意味での自分自身の利益になるはずです。

 それはちょうど外出するまえから「交通事故に遭うんじゃないか」と心配をするようなものです。ひとは自分がいつ何時、どんな理由で死ぬのか分かりません。にもかかわらず、交通事故の心配だけをしていることはナンセンスです。また、交通事故やその他厄災を恐れて外出しないで自分の部屋に閉じこもっていることもできません。

 同じようにどんなに心配しても地球の軌道を変えることはできませんし、心配のあまり今自分の為すべきことがおろそかになっていてはいけません。この世界は自己の心の中の世界であり、どんなことが起ころうとそれは幻影の範ちゅうでしかないのです。幻影の世界から脱するにはただ真理を実践していくしかありません。繰り返しますが、自己の修行に精進することこそが魂の最大の利益となるのです。

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真我への道 なぜカルマの法則が働くのか

(2012/12/07)

 なぜ因果の法則が存在しているのか、考えた事がありますか?

 「為したことは返る」というカルマの法則は、宗教や精神世界では当たり前のように言われていますが、それがなぜなのかを詳しく教えてくれることはほとんどありません。「それが宇宙の理法なのだから」では説明になっていません。その法則が働いているということは何らかの理由が存在しているはずです。にもかかわらず、それには一切触れず最初から「為したことは必ず自分に返ってくるのだから、あなたも身を慎みなさい」ではいささか強引ではないのかなと思ってしまいます。

 私自身も精神世界に興味を持ち始めてからすぐにその疑問に突き当たりました。「なぜ悪いこと(悪業)を為したら悪いことが返ってくるんだ?べつに悪いことをしても良いことが返ってきてもいいじゃないか」と。しかし、その疑問に答えてくれる人にはめぐり合えず、それはずっと私のなかでくすぶり続けていました。その答えは結局それから20年以上も経ってから自分自身のインスピレーションとして与えられたのでした。

 前置きが長くなりましたが、なぜカルマの法則、因果の法則が働くのか、私たちの意識構造の観点からまず申し上げましょう。自己の幻影球体世界においてアーラヤ識というデータ・バンクの世界が心、自分の意識に存在しています。すべての現象は発生すると即座にこのアーラヤ識世界にデータとしてインプットされます。どういうことなのかというと、自分自身の世界の現象すべては即、自分自身のデータであり、そのアーラヤ識のデータによって自分自身は構成されているということなのです。そしてこのデータは変化します。

 例えば「自分Aが他者Bを殴る」というデータは、「BはAに殴られる」というデータに変化して記録されます。これを唯識では異熟識(いじゅくしき)といいます。自分が主体の経験をすると、そのデータが変化して記録され現象化するときには必ず客体の経験をするのです。このデータが変化して現象化することを「カルマは返る」というわけです。

 主体を経験すれば、必ず自分の客体の経験をしなくてはならないのはなぜでしょうか。それは「自分Aが他者Bを殴る」というひとつの行為において自分と他者をしっかり区別しています。真我という、魂本来の姿にとっては自分も他者も存在していません。自分と他者の区別がないのにもかかわらず、自分と他者を区別して身・口・意の行為をするということは、真我と真逆の方向にあります。自分と他者を区別し行為するということは、すべての魂の最高の目的地である真我へ至る道を逆行するということなのです。それを続けていくことで「自分と他人を分け隔てる意識」は当たり前になって、より強固に、より根深く固定化していきます。それを引き戻そうとするのが主体と客体の逆転、つまりカルマの法則なのです。

 主体の経験をすれば必ず客体の経験をします。そして主体・客体の経験の両方をすることで、その経験に対する自分の捕らわれをひとつ消せるのです。

 では、実際にどのようにこの世界が成り立っているのか、より具体的にいつものように例を挙げて説明していきます。まず「自分Aは何もしていないのにもかかわらず殴られてしまった」という例をとって説明してみましょう。なぜ、自分Aはいきなり殴られる必要があったのでしょうか。自分Aにはそのカルマがあったから、過去生に「自分Aが他者を殴ったから、それを因として今生は他者Bから殴られた」ということになります。

 そのカルマが具体的にいえばどんなものだったのかと過去生を丹念に振り返っていくと、過去生において自分Aは妻と親友が不倫していると誤解し、不倫相手と思しき親友を殴ったということがあったとしましょう。しかし、そこで過去生の自分Aが誤解するにはさまざまな要因が重なって、それにより誤解するに至ったわけです。妻の様子が最近おかしい、冷たい、外出が多い、自分に隠れて電話している、そういえば親友の家に遊びに行ったら、妻がなくしたと言っていたピアスが落ちていた、そんなことが降り積もって誤解し行動に出たと考えられるわけです。逆に言えば、そういったことがなければ「今生の私Aは何もしていないのにもかかわらず、他者Bから殴られてしまった」というカルマの原因は生じなかったともいえましょう。原因がなければ当然結果は生じません。

 そして、そういった些細な事のひとつひとつにも、そうなるべくしてそうなったといえます。現象のひとつひとつは単体で存在するわけではなく、他の事象と連鎖して起こっているからです。あなたの使っているコップ一つとっても、そのコップがあなたのもとにあるためには、他の多くの人や物の存在がなくてはなりません。そのコップの原料、それを採集する人、デザインするひと、作る人、その仕事をするための道具、その道具を作る人、出来上がったコップを運ぶ人、そのための車、車を製造する会社、そこで働く人々、コップを販売する人、お店。そのお店の経営を支えるたくさんのお客さん。その連鎖はどこまでも続いていきます。そして、その無数の人々にも当然カルマがあります。それぞれのカルマに従ってコップをあなたの面前に現象化させているのです。つまり、あなたがそのコップを使うという、たったそれだけの現象を成立させるために、無数の人・もの・それぞれのカルマが絡み合い結果を生じさせているのです。「風が吹けば桶屋が儲かる」といいますが、諸現象は複雑に絡み合い、作用し合い、今あるような現象を作り出しているのです。これを縁起といいます。

 何が言いたいのか、お分かりになるでしょうか。たったひとつのカルマを現象化させるためには、無数の他者・事物・それぞれが持つカルマ、それらがパズルのようにかっちり合わなくてはいけない。ひとつでもかけたら、そのカルマが現象化しない。しかし、それに関係する人は同時に自分のカルマも清算しなくてはいけない。これは大変なことであるというのは誰もが想像できることでしょう。そこでひとつの仮説を立てることができます。

 それは「カルマの現象化とはそんな緻密なものではなくずっと流動的で、実は時間も空間もなくてすべてが同時進行で起きているのではないか」という考えです。カルマは生じた瞬間に消費されている、つまり「行為する者」と「行為される者」が実は同一なのではないかということです。

 先ほどの例で言えば、今生の自分Aも不倫の疑いをかけられて親友から殴られていたということになります。過去生に親友であった他者Bとそっくり同じ経験をしたということです。

 実際は、「誤解して殴ったAの経験」と「誤解されて殴られたBの経験」は1つの魂の経験なのです。時間と空間を取り払ってしまえば、そのふたつが全く同一のものであるということが明らかになるでしょう。本来は過去生や今生というような時間も無く、此処(ここ)やむこうといった空間も無く、ただ意識があるだけなのです。この世界は自己の心の世界です。自分Aも他者Bさんも等しく『自分』の一部であり、今生は自分Aの経験をし、来世は他者Bさんの経験をするのではなく、すべての経験は同時進行しているのです。この世界は自己の心そのものでしかないのにもかかわらず、時間と空間という区切りを設け、その間で自分Aという生涯、次は他者Bという生涯を経験するのだと捉えているのです。

 私たちは「自分という固有の存在が確かに存在している」という感覚と「自分固有の魂が永遠と輪廻転生していく」という教えに慣れ親しんでいるために、あまり吟味することなく従来のカルマの法則を受け入れてしまうのです。しかしカルマの法則というものは「この世界は自分だけの心の世界(幻影球体世界)でしかなく、本当の他者など存在しない」ということがまったく観念外であり理解しがたいゆえに編み出された方便の一つなのです。

 自分という、ひとつの魂は始まりとてないような、はるか過去から自分と他者を区別して行為することでカルマを積み続けてきました。自分の周囲に存在する、多くの他者(それは人間だけとはかぎりません。)が存在するのは、過去にそれだけ多くの「自分と他者を区別する意識」を持って行為し、カルマを積み続けた結果なのです。あなたが対応する人・もののすべてが過去の自分そのものであり、未来の自分そのものなのであり、すべての現象は時空間を超えた、ひとつの現象となっているのです。言い換えるならば、今この瞬間に未来も過去もすべて存在しているのです。

 すべての現象が自分の積み上げたカルマの集合体として存在しているならば、この世界に渦巻く苦しみ・悲しみ・不安のすべては自己にその原因があるということです。ですから、もしあなたの目の前に苦しむ人がいるならば、その境遇をつくっているのもあなた自身ですし、苦しんでいるのもあなた自身ということになります。今は他人事にしか見えない他者の経験も、実は自分自身の経験に他ならないのです。

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真我への道 固有のエネルギー

(2012/11/08)

 閉鎖された空間を複数の人間が共有した場合、その空間のエネルギーがどうなるのかについて説明してみます。

 例として、まず二人の人間がひとつの部屋のなかで会話していたとします。そこに小さな子どもが入ってきた場合、その部屋のエネルギー状態は大きく変化します。どのくらい大きな変化かと申しますと、浄化の進んだ修行者であれば、それだけでしばらく会話ができないほど頭がボーっとしてしまうという現象に襲われることさえあるくらいです。

 また、部屋に後から入ってくるのが子どもでなくても、例えば無智のカルマが普通以上に強い人であっても同じ現象が起こります。しかし子どもは、ほとんどの場合大人に比べてずっと無智が強いものです。

 二人の人間が1つの空間を共有した時、その二人がそれぞれに持っている、固有のエネルギーは溶け合って均一化しています。それぞれの持っている固有の観念によって感じ方は異なりますが、エネルギー状態は同じようなレベルになります。

 そこに、もうひとり誰かがその空間に入ってくると、今度は三人分のエネルギーが均一化されるようになります。つまり三人のエネルギーが混合された総和を三分割して、そのエネルギーをひとりひとりに割り振ったかたちです。

 そして、その空間は三人のレベルが平均化されたエネルギーによって波動を変えていきます。例えば無智なる行為・無智なる言葉・無智なる思念を培った人が集まれば、その空間は無智なるヴァイブレーションを放つようになるのです。そこでは、日頃そのような傾向が少ない人でも、無智な思考・発言・行動をしやすくなります。逆に、自己の煩悩を削いでいき智慧に目覚めた人が中に加われば聖なる波動が満ち、その場にいる人はみな良い影響を受けます。

 では三人目の人間が再びその空間、部屋を出て行ったならば、はたしてその部屋のエネルギー状態は最初の、二人だけの状態に戻りヴァイブレーションももとに戻ります。そういったことは、多くの人が経験しているかと思います。三人以上で集まっていて途中で誰かが退席すると、その場のヴァイブレーション、雰囲気ががらりと変化するというような現象です。それらは、その人の放っていたエネルギーによるところなのです。

 もしあなたが真理を実践しその法則の下で自己の修行を進めていくことができるならば、あなたがいるだけでその空間の波動を引き上げることが可能になります。それは無智や嫌悪、貪欲と反対の方向であり、魂を向上させる方向です。あなた自身のエネルギー・意識は引き下がることになりますが、それでもその場を共有する人々の意識を向上させることができるようになるのです。それはなんと素晴らしいことではないでしょうか。

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真我への道 質疑応答(3)

(2012/09/08)

質問 瞑想とは一体どんなことをすればいいのでしょうか。具体的なことがよくわかりません。座禅を組むことと思っていてよいのでしょうか。

回答  瞑想法にはたくさんの方法がありますが、一番効果的なのは自己の潜在意識にあるエゴ本位な観念を崩していく瞑想、つまり真理の理法を音読する瞑想です。どんな瞑想であれ瞑想を行っていく過程で必ず潜在意識のエゴの観念が雑念として出てきます。「あれが食べたい、休みたい、眠い、こんなことしても無意味だ」とか、怒りがわいてきたり性欲のイメージがちらついたり。ありとあらゆる煩悩が出てきて瞑想の邪魔をします。潜在意識がある程度浄化されていないと、この雑念に巻き込まれて瞑想に集中できなくなってしまいます。ですから直接これらの雑念、潜在意識のエゴなる観念を打ち消していく音読の瞑想が有効であり、潜在意識の浄化も速く進みます。

 座禅に取り組む場合、浮上してくる雑念、潜在意識の穢れは意識の上でどんどん切り捨てていくといいます。穢れを切り捨てていくことで「無の境地」に到達していくのですが、その道には「なぜ自分がこのような幻影を見せられているのか」というアプローチがありません。本来は自己の心の世界という幻影を理解することで己を知りこの世界の真の姿を知り「他を利する」ということの大切さを知るにいたるのですが、禅においてはそういった要素が足りないといえます。穢れは表面上無いので安定しているように見えますが、実は智慧と功徳が不足した境地なのです。

 一方、真理の法則を自己に取り組んでいく音読の瞑想は、次の思索の瞑想の土台となります。今まで現世で培った人間世界の観念では「物事をありのままに見る」ということは不可能であり、私たちの見ている世界は真実の世界の有り様からかけ離れてしまっているのです。真理の法則に基づいて思考できるようになれば、正しく思索し正しい智慧を得ることができるようになります。ここにおいて初めて、自分の力で真実の世界の理解に近づけるようになるのです。それは「空の境地」といわれるものであり、智慧の光と功徳に満ちた境地です。

 ですから、瞑想の入り口は何よりも音読の瞑想です。音読中は思索する必要もありません。淡々と声を出して読んでいくことで真理の理法が自己の心に入ってきます。音読によって自分の中にしっかりと真理の法則を根付かせていってください。

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真我への道 お金とカルマ

(2012/08/31)

 この社会は言うまでもなく貨幣経済から成り立っており、通貨のない社会など考えられなくなっています。お金によって円滑に経済活動を行うことが出来ているわけですが、お金というものはそれだけではありません。お金は品物やサービスの対価として人の手から人の手へと渡っていく間に、実はそのカルマをどんどんと吸収しています。

 まずは理解しやすいように、お金を介在させないで物をやり取りする場合、つまり購入するのではなく単に物をもらう場合はカルマがどのように移動するのか、例を使ってご説明してみましょう。友人のひとりがあなたに家を訪れるときにお土産にケーキを買ってきてくれたとします。このとき友人のカルマが、そのケーキに乗ってあなたに移行してきます。例えばその友人が嫌悪のカルマが強い人であれば、その嫌悪のカルマがあなたにやってきます。それによりあなたは普段の自分以上に怒りっぽくなるかもしれないしイライラすることもあるでしょう。そのような現象として現れなくても、そのカルマは自分の中にしっかりと蓄積されます。このような嫌悪のカルマは本来はその友人のカルマとしてあるものですが、友人からケーキをもらったことでそのカルマの一部があなたに移動したのです。

 では、ここでその友人にケーキ代として千円札を渡した場合はどうなるでしょう。自分にやってくるはずだった、友人のカルマの大部分(全部ではありません)が、あなたが支払った千円札に乗ってまた友人に戻るのです。つまりお金を支払うことで、ものをもらうことによって必然的に生じるカルマの交換はずっと少なくなります。

 もし他者とのカルマの交換、エネルギーの交換ともいえますが、それを少なくしたいと思うならば、他者から無料で物をもらったりしないほうがいいでしょうし、安易に他者に金銭や品物を与えないほうがいいでしょう。『ただより怖いものは無い』といいますが、本当にその通りです。浄化の修行をしている者が他者から金銭・物品を無料で受け取れば強烈に相手の穢れが自分の内にやってきます。ですから敢えてそうするならば、それなりの覚悟がいるということになってしまいます。

 お金の話に戻りましょう。ここで友人がケーキ代として受け取った千円札には、友人自身のカルマが乗っています。千円札とカルマが結びついた状態にあります。友人がこの千円札で本屋で書籍を購入したら、今度は書籍の作者のカルマ、本屋の店員のカルマなどが千円札に入ってきます。友人自身のカルマが残っている状態で、その書籍に関わった人々のカルマが千円札に加わるのです。この千円が再び使われるとき、また新たなカルマが蓄積されます。このようにやり取りしている間に、紙幣や貨幣には多くの人のカルマが蓄積していくのです。人はお金に集中していますから、なおさら人のカルマはお金に入っていきます。

 私は浄化がある程度進んでからですが、お金を手にするとそこに蓄積された無数のカルマが自分に入ってくるのを感じるようになりました。そのお金はまるで「穢れの集積そのもの」のように思えました。カルマが詰まった金銭とは実際にそのようなものなのです。お金を手に入れることは、そこに込められたカルマをも引き込むことになるのです。個人が行っている当たり前の経済活動の中にさえ、そのようなカルマの交換と蓄積の原理が働いています。

 このような「穢れの集積」としての金銭がある一方で、「浄財」という浄化された財、一切の穢れが取り払われた金銭も存在しています。浄財とはふつう宗教団体や慈善団体などへの布施や寄付された金銭のことをいいます。もし、何の見返りも求めずに無償の布施をすることができたならば、そこには「純粋な布施をした」「施しをした」もしくは「自己の貪りを減少させた」という良きカルマが入ります。しかし、それだけは一切の穢れのない浄財とはいえません。

 それには何よりも金銭につまった無数のカルマを引き受け昇華できる力が、その金銭(布施)を受け取る相手になくてはなりません。それができるのであれば、完全な浄財というものが成立します。そうでなければ、いくら言葉の上で「これは浄財ですよ」といっても、その金銭に込められたカルマはそのままそこに残ってしまっています。もし自己の穢れを減少させるために布施をしたいならば、布施をする対象をよくよく考えねばならないと思います。

 浄財の中でも、特に布施をする人が自分にできる精一杯の布施をしている場合、その布施されたお金にはとても大きな力が込められています。そういった布施の貨幣に触れると、私は理由も分からない涙が浮かんできます。これは金額の大小とは関係ありません。その人にとって、その布施がどのくらい重みがあるものなのか、ということなのです。少ない収入であっても10円でも100円でも布施をしたいと思い、自分を律して布施を続けることに意味があります。このように為された布施には計り知れない力があるのです。

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真我への道 水虫のかゆみには

(2012/08/27)

足指の水虫にお困りの人には、熱いと感じるくらいの温度での足の温浴療法が効果があります。

水虫のかゆみはアパーナ気が強くなったために起こります。例えば、ふだんエネルギーが上昇している人はたとえ白癬菌を持っていても、かゆみなどの症状が現われることはありません。しかし一時的にアパーナ気が増大しエネルギーが下降すると足がむずがゆくなります。これは人によってはとても顕著に現われます。もちろん修行をしていない人はアパーナ気が常日頃から強いので、誰もが潜在意的に水虫に悩まされる可能性を秘めています。

水虫がいくらかゆいからといって掻いてしまったら症状は悪化してしまいますし、かゆみで修行に集中できないようでは困ってしまいます。ですから水虫がかゆいなと感じたら、すぐに足首までの足浴することをおすすめします。

入浴に適した温度は45℃くらいまでですが、それよりちょっと熱い47℃のお湯を、足首まで浸かるくらいバケツや足浴用の桶に入れます。3分くらいは我慢して足浴してみてください。途中でお湯が冷めるようなら足し湯をしてください。ただ、あまり熱いお湯は火傷してしまいますから、いくら熱くしても50℃以下にしておいてください。足の温浴をするとうっ血していた血流も良くなり、水虫のかゆみはいっきに解消されます。

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真我への道 質疑応答(2)

(2012/08/19)

質問 実は自宅でポルターガイスト現象が起こっていて、ひどい時には鍋とかフライパンとかいろんな台所用品が飛び交うこともあるくらいで…とても困っているのですが、どうしたらいいでしょうか。

 

回答 そういった霊障は、その家に住んでいる人の波動のチャンネルが、霊障をもたらす霊の波動とぴったり合っているせいで起こります。そういった霊の世界というのは、功徳を積むことができなくて貪りだけはどんどん増大させてしまう、そういった心の働きをする魂が住んでいる世界、餓鬼界の1つです。こういった魂は一般の人(魂)よりもはるかに貪りが強く対象への集中も強いです。その集中によって強い念動力を使う霊もいるのです。その念動力によってポルターガイスト現象を起こすというわけです。

 この対策としては、まず真理を理解し功徳を積むことです。功徳には布施功徳・法施功徳・無畏施功徳(むいせくどく)・奉仕功徳というものがあります。それらを頑張って積んでいくことにより自ずと心は変化し、真理の流れにいざなわれ、その低位の霊障から脱出することが出来ます。低位のチャンネルから真理の高い世界の波動に切り替わるから、自然と低位の霊の影響も受けなくなるのです。

 ポルターガイストなどはなくとも、自宅や外出先、旅先の旅館やホテルで幽霊を見るという人たちにも同じことがいえます。もし人の見えないものが見えるということで心霊現象を楽しんでいるというのなら、それはそれでいいのでしょうが、そうではなく苦痛に感じるのであればやはり真理を学び功徳を積むことをおすすめします。そして、自分自身の貪りを穏やかにしていくことが良いかと思います。

 

 質問に対してはこのように回答したのですが、より深い法則に絡めて言えば、幽霊が見える人はなぜそういった現象を見せられているかということになるでしょう。自分の心の中を映し出す世界で幽霊を認識するということには、自分の中にその貪りの要素が存在するということです。霊の存在はそれを教えてくれるものです。「貪りから離れなければ、お前だっていつかこうなってしまうんだぞ」と教えてくれているのですから、彼らには感謝すべきでしょう。

 もしあなたに他の人には見えない彼らの存在を見る感じるとしたら、彼らの魂は他でもないあなたにしか救えない存在であるということです。他の人が見ることの出来ない、霊としての苦しみは、あなたがすくい取ってあげなくてはいけません。幽霊を見て恐れおののくのではなく、彼らにも慈悲をたれなくてはいけないのです。

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真我への道 人をエネルギーだけで判断してはいけない

(2012/08/15)

 一般の修行者、あるいは大乗の教えを実践している修行者が、菩薩行の実践に徹している人のエネルギー状態だけを見て、その人に対して「この人は修行ができていない」だとか「この人のカルマは穢れている」だとか判断するのは軽率というものです。

 たとえ、その菩薩行の実践者がその時に煩悩的なエネルギーの穢れを有していたとしても、それは他者のカルマを引き受け自己の内に取り込んだためかもしれないからです。それにもかかわらず昇華に向う前の段階や昇華している途中の段階をとらえても、その人の本来のエネルギー状態を見極めることはできません。

 外見だけでは他者の本当の心がわからないように、たとえ他者のエネルギー状態をある程度感知することができる人であっても、その菩薩の魂の器というものは簡単にはうかがい知れないのです。

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真我への道 占いについて

(2012/08/12)

 占いは多くの人が関心を持つ分野であるかと思います。星占いなどを掲載している雑誌も少なくありませんし、実際に占い師に見てもらう人も多いですね。そのほとんどが災難を避けたり縮小させたり、幸運を呼び込んだりするためのものです。

 しかし、占いとはそもそも苦楽への捕らわれをフラットにしていくために活用すべきものなのです。どういうことかといいますと、この世界での喜びの現象とは結局は苦を増大させるものでしかありません。一時の幸福の裏には必ず不幸がひそんでいます。ですから、一般の人にあっては嫌なことや不幸を避けるように幸運や幸福からも身を退くように、占い結果を使うのです。苦楽の波がなければ、それによって根本的な不幸に陥ることを避けられます。

 そして、修行者にあっては占いで知り得た情報、これからやってくるであろう苦楽に対して予め心構えをし、現象のとらえ方を変化させていくことが可能になります。つまり、喜ばしい現象がやってくると分かっても、その未来の現象に対し「果たして本当にそれが喜びなのだろうか。苦しみを生起させるものでなないのだろうか」と考察します。それによって実際にその現象が訪れたときでも淡々と受け入れ、その現象に心を乗せないようになるのです。

 しかしながら自分の未来や他人の未来を占うことは、必然的にこの世界の現象への捕らわれを強くすることになります。真理の修行者にとって現象への捕らわれをなくしていくことこそが命題であるのに、占いによって現象に集中し捕らわれを増大させていては元も子もありません。自己の霊性を占いなどに使うべきではないのです。

 そればかりではなく他者を占う場合には、その人とのカルマの交換が著しく生じます。誰かを占うために他者に集中することは、その人の持っている苦悩を多大に引き受けることになるのです。それをわかっていて占いをするのならまだしも、そのカルマの交換を認識しないで占うのですから、やはり修行者が占いをすることは良くないと思います。

 そもそも占いで読み取る現象はすべて、この幻影球体世界内でのこと、自己の観念世界内でのことです。この世界からの解脱を目指す修行者にとって占いに興じることは占いの領域にとどまり続けることであり、障碍に違いありません。解脱とは占いの領域から脱出することであり、カルマからの解放は占いからの脱出とも言えるでしょう。

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真我への道 『真我の料理教室』にいついて

(2012/08/09)

 拙著『真我の料理教室』について、少しお話してみようと思います。

 すでにご覧になっていただいた方もいるかもしれませんが、実はこの本は、功徳を持ち合わせている人しか読むことができないのです。非常に奥深い真理について語られているために、この本を読むには大きな功徳が要されるのです。そのため、大きな功徳を内在させている人しかこの本を読むことはできないのです。逆に、功徳のない人がこの本を読み続ければ、真理とはかけ離れた方向に迷走することになってしまうでしょう。 

 ですから、すでにこの本を通読された方々は、我しらずとも大きな功徳と真理との強い縁を持っているといえましょう。

 『真我の料理教室』には、実に真理の奥義ばかりが掲載されています。今の世界の状況を考えれば、これらの真理の法則が世に出るには「まだ時期が早いか」と思いましたが、人間界が大きく変わりつつある今敢えて世に出すことにしました。人間界は、神代へと移行しつつあるのです。

 この本を手に持っているだけで、自己のエネルギーが上昇しやすくなります。エネルギー的に敏感な人でも分からない場合もあるのですが、実際に読むと頭痛や吐き気がする人がいます。これは自己に内在する穢れが昇華していくためです。ですから、たとえそのような症状が現われても、ご心配には及びません。

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真我への道 迷妄地獄へのいざない

       、(2012/07/10)

 自己に現れてくる苦しみを見ないようにして、苦しみを紛らわすために楽しみばかりを追い求める魂は三悪趣の1つ、迷妄地獄(動物)への転生の道が開かれます。そこは単に動物としての生が待ち受けているわけではなく、よりつらく厳しい世界です。自分自身の無智によって苦しみを永遠と経験させられる世界なのです。自分に与えられた苦しみの原因が、自分自身が楽しみを追い求めた結果として生じていることが分からない状態に陥ってしまうのです。

 この人間界には、時間を無駄に過ごす、享楽にふける、怠惰を貪るという傾向が蔓延しています。真理を知るようになれば、あらゆる娯楽は大切な時間のロスでしかなく、それどころか自分をおとしめるものであるということがよくわかります。

 セックスにしても人間界では当たり前のことですが、高い世界の神々には性欲や性による快楽はありません。人間にさえ、自慰やセックスをすることによって一時的快楽は得ても、顕在的にも潜在的にもむなしさを感じてしまう人は多くいます。それは、大切な根源的修行のエネルギーであるはずの性エネルギーをロスしてしまったことへの、深い潜在意識での後悔と虚無感によるものなのです。私たちの深い意識では、その行為が意味を為さないということや本来そのエネルギーは自己を飛翔させるために使うものであるということをよく理解しているのです。それにもかかわらず、私たちはセックスこそ最高の快楽であるかのような情報を大量に与えられ、現代人は根源的なエネルギーを消耗しつくしています。

 また人間界では、表面上自己の利益となるならば嘘をつくことがほとんど正当化され、当たり前のように横行しています。正直ものは馬鹿を見る、そんな風潮です。自己の利益のために嘘をつき、自分や人を欺くことの恐ろしさ、嘘をつくことで物事を曖昧にする怖さは、この人間界ではまったく見えない状態です。

 しかし、このような行為や心の働きは確実にその魂を下の世界へといざないます。死というものを境に、魂は曖昧さの牢獄から抜け出せなくなってしまいます。そして、この曖昧さのために自己がなぜこんな苦境にあるのか理解できないのです。理解できないゆえに人間界に再び戻ってくることが非常に困難になっているのです。

 すべては心の現れなのですから”幻影の範ちゅう”とは言っても、そこで生じる苦しみは本物ともいえます。人間界での苦しみがリアルに感じられるように、他の世界に移行しても同じようにその世界をリアルに感じ、苦しむことになるのです。ですから、私たち真理を実践する者は一刻も早く迷妄なる行為から離れなくてはならないでしょう。貴重な人間界での生、一刻一刻を自己の迷妄を深めるような娯楽にふけるのではなく、人間以上の高い世界に至るための礎を築くために時間を使っていってください。

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真我への道 自分の苦しみは、他者の苦しみの投影

(2012/07/07)

 私たちは日常生活を送るなかでも、人によって程度や頻度にさはあれど多くの痛みや精神的苦痛を経験しています。ケガや病気などによる痛みやかゆみばかりだけではなく、眠気や空腹などもきわまってくれば大きな苦痛となります。

 しかし修行を始め自己の浄化が進んでくると、それら日常生活で経験してきた苦痛とは別にまた違った苦痛が生じてきます。それは霊的に浄化された自己の身体に、自己の周りの他者の穢れが入ってくるときに感じる苦しみです。自分ひとり浄化された状態で、それをキープできる場合は身体は軽く意識も高く軽快でいることができます。しかし日常生活の中ではそれをずっと保つことは不可能です。

 私たちは生きているかぎり他と交わり続け、それにより多くの穢れを他者と共有しています。修行を行うことで自己のエネルギーが浄化により透明になったら、周りの穢れは必ず自己に入ってきます。乾燥したスポンジを水につければ、そのスポンジは自然に水をいっぱいまで吸い込みます。同じように、浄化された心身は、本人の意思とは関係なく自然に周囲の穢れを全身に吸い取るのです。そして浄化が進んで周囲とのエネルギー的な落差が大きくなればなるほど、より多くの穢れを吸収するようになります。

 修行者の場合、自身の内にやってきた穢れはどうなるかといいますと、修行者の身体を一時的に軽快なものから鈍重なものにし意識を引き下げます。しかし、クンダリーニを覚醒させた者は、その穢れをクンダリーニのエネルギーによって昇華させようという働きも自然に起こします。その際に倦怠感や頭痛、吐き気などが生じます。このような身体的症状は穢れを昇華させるためにエネルギーが急上昇することによって起こるものなのです。

 このように、穢れを自己に内在させることは覚醒した者にとっては必ずある程度の苦痛を生じさせます。これを厭い他者との関わりをなるべく避けたがる方もいるでしょう。しかし、他者と交わって自己に入ってくる穢れというのは、一見してその他者が持っている穢れのようだけれども、本来は自分自身の穢れです。この世界は自己の心そのものであり、この世界のすべては自分自身の一部分一部分に過ぎません。ですから、他者の穢れとはいうのものの、真実は他者という条件によって自分自身の穢れが自分に返ってきた現象なのです。

 真理を実践し自他共に浄化し真の智慧を獲得していく道を歩く喜びは、穢れの昇華に伴う苦しみを補っても余りあるものです。浄化の苦しみは、真理を実践する喜びに比べたらほんの些細なものにしか過ぎません。

 そして、このとき味わう苦しみは、修行をしないで放っておいてもいつか必ず自分のもとにやってくる苦しみであり、そのとき経験するであろう苦しみは比較にならないくらい大きな苦しみとなって自分のもとにやってくるのです。

 私自身は、自己にやってくる苦しみはすべて他者の苦しみが投影されたものであるととらえています。そして他者の苦しみを吸収し、それを昇華することは苦しみでなく喜びであると感じています。そのようなとらえ方は自己を苦しみに対して強くし、他方の喜びに対する捕らわれをなくしていくことができるのです。実際に、私自身は穢れを昇華するときときの吐き気や頭痛、倦怠感を感じてはいますが、実際にそれが「苦しみ」と感じているかといえばそうではありません。他者という形を通して自分自身に内在していたカルマが現在の自分に現れてくることは神の恩恵であり、それを受け入れ昇華していくことはやはり喜びなのです。

 また最初に申し上げましたような、修行を始める前や始めてからの、日常生活で味わっている苦しみについても、それは同じことです。自己のカルマにより苦しむこともまた神から与えられた恩恵であり、そこには自己の心である全世界の、すべての魂の苦しみが投影されているのです。あなたが自分自身の苦しみを経験することで、他者が感じる苦しみが軽減されていきます。ですから、自分にやってきた苦しみを嫌悪せず、「自分がこの苦しみを経験することで、他のみんなの苦しみが減るんだ」という喜びにしていってください。苦しみを喜びに変えていく。それこそが真理に目覚めた者が歩む、真我へとつづく道なのです。

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真我への道 ウラシュタラ・シュディ(Urashthala  Shuddhi)

(2012/07/04)

 この調気法は上半身の粘液を取り去り、そしてイダー管・ピンガラ管、スシュムナー管が浄化されエネルギーがスムーズに流れるようになります。その結果、体内で霊光が輝き始め、感覚器官の働きが制御されてきます。実際のやり方は以下のようになります。

 この呼吸法を行う前にしっかり鼻をかんでおいてください。蓮華座を組んで座ります。最初、両鼻から息を吸います。そして右鼻をしっかり右手の親指で押さえふさぎ、開いている左鼻から息を力強く吐き出します。すぐに右鼻を押さえていた親指を離し、同じように両鼻から吸息します。次は右手の人差し指で左鼻を押さえ、右鼻から力を込めて息を吐きます。

 これを左右交互に何回も繰り返します。

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真我への道 眠と食(じき)

(2012/06/26)

 眠りはエネルギー上昇を阻みます。よって睡眠時間を長く取りすぎると、エネルギーは低下してしまいます。逆に、短い睡眠時間はエネルギーを上昇させやすくします。

 また同じように当たり前のことですが、普通の量を食べるだけでもエネルギーは下がります。さらに大食した場合はエネルギーはより強く下がります。一方、ニュンネ(断食)の修行をするとエネルギーは上昇方向に向います。できるなら、普段から修行者は少食が望ましいのです。

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真我への道 質疑応答(1)

(2012/06/24)

 今までにいただいた質問とその回答のいくつかを時々アップしていこうと思います。まずは、1つ。

質問 以前、クンダリーニ覚醒のために性エネルギーはなるべく保持しなくてはいけないと書いておられましたが、セックスは完全にシャットアウトしないといけないのですか。

回答 解脱・悟りを目指すならば、セックスはしないほうがいいですね。今生において、良き環境や良き心の働きを欲するならば、愛のあるセックスについては構わないでしょう。でも、オナニーは避けた方がいいですね。オナニーはダイレクトにエネルギーをロスすることですから、それをすることで瞑想・読誦(音読)修行に集中できなくなります。修行の大きな妨げになってしまうのです。

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真我への道 外道について

(2012/06/21)

 真理の立場から見た場合の外道(他宗教)を信じ、その伝道や修行をすることは大変おそろしいカルマを積むことになります。

 これはどういうことかといいますと、自分が真理の実践をしているときに、外道からの勧誘が多くなるということです。あるいは、煩悩が表層意識に強く浮かび上がり、迷いが生じてくるということです。また真理の修行をしていると途中で挫折してしまったり、アパーナ気が増大して座法が安定しなくなりエネルギーも上がりにくくなってきます。ですから、外道には立ち入らないようにしましょう。

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真我への道 涙について

(2012/06/16)

 涙は美しいもの、ピュアなもの、そういったイメージがありますね。でも、涙というものは本来は美しいものではなく、実は自己の穢れの象徴でしかないなのです。

 眼にゴミが入ったときに出る涙などの生理現象のほかは、自分が何か現象に捕らわれることによって感情が激しく動き、それによって涙は流れます。悲しみや喜び、痛み、悔しさ、同情など、涙が出てくるのはすべて自己の心が大きく揺れたときです。つまり、涙はその現象に大きく捕らわれていることの証であり、現象に捕らわれているということはすなわちそこに穢れが存在しているということなのです。よって、涙を流すということは穢れが自分に内在しているということを表しています。

 この欲界を超えた聖者方には涙はありません。現象への捕らわれ(穢れ)がないために、現象のひとつひとつに動揺して泣くということがないのです。聖者は自分の縁の強い魂と共鳴し、それにより涙がにじむことはあっても、それ以上に涙を流すことはありません。

 自分でも理由が分からないのにも関わらず涙があふれてくるという経験をしたことがあるでしょうか。自分でさえ認識できないほど奥深くに眠っている、潜在意識の捕らわれが感応しているために、自分ではわからないけれど涙が出てくるのです。

 ごくまれに、私に初めて会った人が自分でも理由もわからないのに涙を流すことがあります。それは、その人の潜在意識の奥底にある、真理を求める心が、私のたずさえている真理の法則に出会い喜び、打ち震えるためです。そういった人は真理との強い縁があり、さらにエゴ本位の観念が薄いのかもしれません。

 すべての魂は深い深い意識においては真理を強く求めているのです。しかし、その上にエゴが厚く積み重なっているために、自分が真理を渇望していることに気が付きません。そして強固なエゴは自分を変えたくないと、猛烈に真理に抵抗を始めるのです。せっかく出会えた真理をエゴによって退けてしまうということもあります。そういった意味では、真理の法則に出会って我知らず涙を流す人は、潜在意識に蓄積されたエゴが比較的薄いといえるでしょう。しかし、そのような涙でさえ現象に捕らわれているということですから、穢れということになってしまうのです。

 涙そのものは穢れであっても、理由のわからない涙は特に、涙を流すことによってその穢れを落とすことができます。涙で穢れが落ち、捕らわれが外れていくのです。

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真我への道 無常というもの

(2012/06/09)

 私がずっと以前に友人の家を訪ねたときの話です。その日、私はその人の家にお昼過ぎに行くという約束をしていたのですが、私が到着する直前に友人の家の前の道路で一匹の猫が車に轢かれて死んでしまいました。たまたま玄関先に出ていた友人はすぐに気付き、駆け寄ってみたところ、その猫は頭が潰され一目で即死と分かる状態でした。友人は心のやさしい人だったので、見る影もなく潰された猫に強い哀れみを感じたそうです。轢かれたのは、まだ子猫でした。どうしたらいいのかと友人が死んだ猫のそばにたたずんでいたところに、私がやってきました。

 猫とはいえど魂の生死の問題でしたので、友人は状況を伝え「どうしたらいいでしょう?」と私に指示を仰ぎました。私は「庭に埋葬してあげたらいいよ」と言って、家から新聞紙と紙の箱を持ってきてもらいました。そして友人は遺体を新聞紙にくるみ箱に納め、庭の片隅に埋めてあげました。その間、友人には「その猫の感じたであろう苦しみを引き受けたいという気持ちと、身を以って死というものを教えてくれた、その子猫に感謝する気持ちでいなくていけないよ」と付け加えておきました。保健所にお願いすることもできたでしょうが、友人は私の助言通り素直に実行してくれました。

 実際、その猫の魂は自分が死んだことがまだ認識できないでいました。遺体が運ばれたあとも呆然として自分が車に轢かれた現場にとどまっていました。哀れな子猫の魂を私は友人の家に上がるときに一緒に連れて行きました。友人とこれからするであろう話を、この猫の魂にも聴かせてあげようと思ったのです。

 片付けを終えた友人が私と向かい合って座り一息ついたところで、私は話を始めました。そのとき友人と猫の魂に聴かせたのはこんな話でした。

 「なんで、あなたは車で轢かれた猫を見たのだと思う?確かに、この猫には車で轢かれグシャグシャにされるというカルマがあったのかもしれない。過去にそれに類する行為を他の魂に為したんだろう。でも、そのカルマが返ってくるのが、なんであなたの家の前でだったのか。それはあなたに見せるためだったと私は思う。では、なぜそれを見せられたのだろう?ということになるね。」

 「それはね、あなたに無常というもの、つまり生きている限り、必ず最期には死が待っているんだということをね、あなたに教えてあげるためにこの猫はあなたの家の前で車に轢かれ、あなたはその第一発見者になったんだよ。この猫は身をもってあなたに無常というものを教えているんだよ。そして、それはあなたを導いている如来の祝福なんだよ。だから、保健所にお願いすることもできたけれど、あなたが感謝の気持ちを持って庭の片隅に掘った穴に、あなたの手で埋めてあげるのが一番だと思ったんですよ。さしずめチベットだったら鳥葬するところだろうけど、そうもいかないので」そのあと、私たちの話はさらに深い真理の内容に続いていきました。

 このときの猫がそうであったように、自分が死というものを身近に経験するということはすべて如来方の祝福に違いのです。この世の無常性をあなたに知らしめるために、あなたに与えられた祝福なのです。ですから、私たちは恐れることなくその死を受け入れていかなくてはいけないのだと思います。

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真我への道 素晴らしき世界とは

(2012/06/07)

白鷺 私は京都市の中心から少し離れた乙訓郡向日市というところに生まれ、幼少期をそこで過ごしました。小学校からの帰り道、私はひとり日が暮れるまで広々とした田園地帯をかけまわって遊んだものでした。

 私が特に記憶しているのは、広い田畑に舞い降りる白鷺(しらさぎ)をいつも追いかけていたことです。その頃の田畑は白鷺の格好のえさ場で、田畑の中に浮き立つような純白の、この野鳥の姿を見ることは決して珍しいことではありませんでした。白鷺がえさをついばんでいるところに小学生の私が走り寄っていくと、白鷺はなに食わない顔で飛び立ち少し離れた田畑に降り立つのです。今度はそこをめがけて私は駆けよるのですが、やはり白鷺はまた少し離れたところに飛び去るのです。再び私は白鷺の舞い降りた、そこを目指して駆け出すのでした。「(同級生の)ほかの子たちはこんなことして遊んでいないんだろうな」と思いながらも、私は飽きることなくずっと白鷺を追いかけて日暮れまで広い田園地帯を駆け回っていたのでした。

 その時、白鷺の舞い降りた田園の向こうにある山々を見ては思い描いたものです「あの山の向こうにはきっと幻の村や街があって、夢のような世界があるに違いない」と。自分の住んでいる、この場所はきっとその夢の世界とつながっていると感じていたのでした。

 それからのち真理に触れ、今の自分がその頃を振り返ってみると、その思いがまったくの、子どもの他愛のない空想ではなかったことが分かります。夢のような素晴らしい別世界は存在している、ただその世界は山の向こうに存在するのではありません。自分の目の前に広がっている、この世界のとらえ方を修行によって変化させることで、他の人には考えも及ばないほどの素晴らしい世界がここに現れるのです。当時の幼い私は真理を知らず思いもしなかったことでしたが、白鷺を追って駆け回っていた田園地帯にこそ、素晴らしい世界はあったのです。

 私たちの生きている日常、その中で自分が真理に気付き、真理の目をもって自分の日常の現象をとらえていけば、今まで「固定化された、当たり前の日常」と思っていたものが徐々に姿を変えてきます。単に自分のとらえ方が変化するのではなく、それに合わせて現象自体が変化し、身体感覚も変化してくるのです。

 そして、これは究極的な話ですが、最終的には自分の生きているこの世界こそが最高の喜びと自由の世界であったことに気付くことになるでしょう。私たちは別に高い世界に移行するといっても、便宜上そのように言い表しているだけで、どこか別の宇宙や別次元に移動するわけではないのです。自分の周りがまったくの別世界に変化するのです。つまり、真理を深く理解しそれに沿って生き心を純化することができれば、自分の心の鏡である自己の周りの世界がそのように変化していくということです。

 このような世界のとらえ方によって人は解脱に近づくことができると、今では理解するようになりました。真理にしたがって現象を見るとはどのようなことなのか、自分が今何をすべきか、何をすべきではないのか。真理というものを深く理解しその実践をすることで、より早く解脱・悟りに近づくのだということが分かってきたのです。

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真我への道 スールヤ・ベディー(Surya Bhedhi)

(2012/06/05)

 背筋を伸ばし、蓮華座や半跏趺坐など日頃慣れた座法で座ります。左手を軽く握り親指だけを立てて、左の小鼻を押さえます。右の鼻からゆっくり吸息します。このとき、わずかな吸息音がするくらいの強さで息を吸い、身体全体に息を満たします。限界まで吸い込んだら、右鼻を押さえ止息してください。苦しくなったら、今度は左の鼻からゆっくり息を吐きます。このときも静かな呼気音をさせてください。

 スールヤ・ベディーを始めた初日には、この方法で吸気・止息・呼気を3回行います。その後は1日に1回もしくは2回ずつ回数を増やしていってください。最終的には、この調気法を21回から31回まで繰り返します。

 スールヤ・ベディーは体を温めるため夏場には不向きであり、主に冬季に行じるものです。この調気法を行うことで体内の胆汁素の分泌が増加し、逆に粘液素の分泌が減少します。そして、消化呼吸作用を促進させ、発汗を促し体内のすべての不純物を取り除くことができます。

 

真我への道 チャンドゥラ・ベダナ(Chandra Bhedana)

スールヤ・べディーの反対になります。同じように背筋を伸ばし、蓮華座や半跏趺坐など日頃慣れた座法で座ります。右手を軽く握り親指だけを立てて、右の小鼻を押さえます。左の鼻から吸息します。このとき、わずかな吸息音がするくらいの強さで息を吸い、身体全体に息が満ちたら止息してください。苦しくなったら、今度は右鼻からゆっくり息を吐きます。スールヤ・べディーと同じように徐徐に回数を増やし、この調気法を21回から31回まで繰り返します。

 チャンドゥラ・ベダナは身体の余分な熱を下げ、体内の胆汁素の分泌を減少させます。この調気法は体を冷やすため夏に行じるのが望ましく、冬に行うべきではありません。また、調気法を行うことで疲労感なども軽減されます。

これら2つの調気法スールヤ・べディー、チャンドゥラ・ベダナ行うことによってクンダリーニが覚醒しやすくなります。

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真我への道 偸盗との出会い

(2012/06/03)

 幼い頃、私の家の近所には駄菓子屋の『善ちゃん』と酒屋の『徳ちゃん』という二軒の商店がありました。『善ちゃん』は正しくは何というお店だったかわからないのですが、『徳ちゃん』はたしか徳田商店という名前だったような気がします。善と徳、何だか語呂合わせのようです。幼い私は少ないお小遣いをもって『善ちゃん』に行き、5円の三角ういろを買った記憶があります。『徳ちゃん』は酒屋でしたが店の一角に駄菓子も置いていて、そのあたりの子どもたちは駄菓子といえば『徳ちゃん』か『善ちゃん』に行ったものでした。

 ある日その『徳ちゃん』に友達と3、4人で出かけていった時のことです。徳ちゃんには、クジ付きの飴玉かチューインガムか何かがあって、それを一個買うとクジが一回引けました。そのクジの景品で風船があったのですが、その中の大きな風船を私たちはなかなかを引き当てることができませんでした。幼い私は「いつか欲しいなあ」とその大きな風船を眺めていました。その時、友達のひとりが景品の風船の中でも一番大きな風船と、そこらにあった駄菓子をわしづかみにして店の外に駆け出していったのです。その他の友達もいっせいに、その子に続いてクモの子を散らすように逃げていきました。万引きに気付いた、店のおばちゃんは「こらぁ、待ってぇ」と怒鳴りながら、店の外に走り出しました。

 ひとり店の中にポツンと取り残された私は、先程の友達の行動にあっけにとられていました。しかし同時に「そうか、こういうやり方があったのかぁ。お金がなくても欲しいものを手に入れることができるんだ。」と感心したのでした。こんな簡単なやり方で自分の欲しいものが手に入るんだと、その子の行為を見るまで幼い私には思いつきもしなかったのです。お金がなくとも自分の欲しいものが得られる、そんな方法がこの世に存在するのだと心底びっくりしました。それまでの自分には、「盗み」という概念がまったくなかったのです。初めて見る「盗み」は私に大きな衝撃を与えました。

 その後、結局誰も捕まえることが出来ずに店に戻ってきたおばさんが、友達に取り残された私をどう思っているのかわからなかったので、何も買わずすごすごと店を出たのでした。

 私が今生始めて、偸盗(ちゅうとう)というものに出会ったときの話です。

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真我への道 マナ識世界の嗅覚

(2012/06/01)

 浄化が始まるとこんなことが起こるようになる人がいます。そこにあるはずのないものの香りを感じるようになるのです。気のせいというには、あまりにもはっきりと強く感じます。例えば、それはトーストのこうばしい香りであったり、自然の森の香りであったり、磯の香りであったりします。森の中や海辺に自分がいなくても、そのような香りを感じ取ってしまうのです。誰も煙草を吸っていないのに煙草の匂いがするという人もいました。

 これは、自分の深い潜在意識に蓄積されたデータが浮上してきたものです。潜在意識のマナ識世界にデータとしての匂いが漂っています。潜在意識の浄化が始まると、ちょうど物置の片付けをするのと同じで、長い間しまいこんでいたガラクタが出てくるのです。潜在意識を浄化していく過程で現れる幻の匂いやビジョンもあなたが長年ため込んだガラクタ、不用なものなのです。より高い世界に飛び立つためには、実はそういったものは役に立たちません。

 「こんなものあったな。ああ、懐かしいな」などと物置から次々と出てくるガラクタ(昔の写真とか)に気を取られていると、本来の目的である物置の片付けがそっちのけなんてことはよくあることです。しかし真理を究めようとするならば、そんなことがないようにどんな嗅覚や視覚が現れても「浄化が進んでいるんだな」と思うにとどめて、淡々と受け流していってください。

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真我への道 囚人のジレンマと利他心

(2012/05/31)

 囚人のジレンマという、ゲームの理論における現象をご存知でしょうか。二者以上の間で、お互いがそれぞれ相手を出し抜いて自己の利益のみを追求しようとするために、結果的に二人とも不利益をこうむってしまうことをいいます。もっといえば、互いに相手を陥れようとするならば、両者ともに浮かばれないという結果になる、ということです。これはゲーム理論だけではなくて、政治や経済の分野で実際に起こっている問題であるといいます。核の拡散と縮小の問題がちょうどそれにあたります。そればかりではなく私たちの日常の意識の中でさえ、これに類するようなジレンマに陥ることは間々あります。

 私たちは誰にでも優しくしたい、親切に振舞いたいという欲求をもっています。しかし、それを無防備に表に現わすことをほとんどしません。自分が相手に良くしてあげたいと思っても、その相手から拒まれたりはねつけられたりすることを恐れてしまうからです。相手の反応を見て自分が傷付けられないことを確認してからでないと人に良くしてあげられない、自分が傷付くくらいなら何もしないほうがいい、そんな自己保全のエゴが自分の心を縛っています。  

 真理を実践するものはたとえ、人からあしざまに言われても酷く扱われても恨まず、かえって自分はその人に良くしてあげるようにならなくてはいけません。そのように生きている人は今はまだ、ほんの一握りかもしれませんが、私たちひとりひとりがそのような心にならなくてはならないのです。

 もし、あなたが真理を実践するようになれば、そんな自己保全がいかに自分自身を不自由にしていたか、それ自体がいかに卑小なものであったか気付くようになる日がきっとやってくるでしょう。自己保全の殻を打ち破って、どうぞ本来あるべき、広大な心を手にしてください。

 そして「相手のため」と行動する時に、私たちは何をもって最良とするかということをきちんと見極めなくてはなりません。自分の行動が果たして、本当にその人のためになるのだろうか。自分の行おうとする行動が相手にいまは満足や幸福を与えても、それは一時のものに過ぎないのではないか。それにより後で相手がより苦しむことになりはしないか。相手の真の幸福を思い、このような思索を重ねることは決して無駄に終わることはありません。それにより自分自身も正しい現象のとらえ方、見方を培うことになるからです。

 相手の真の利益というものは、その人の持っているエゴを縮小させる方向にいざなうことであり、真理の道を教え導くことなのです。それが本当の意味での「他を利する」つまり利他なのです。ですから、常にこのような利他心をもって他者に接するようにしていきましょう。

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真我への道 ブラーマリー(Bhramari)

(2012/05/29)

 集中力を培う調気法の一つ、ブラーマリー(Bhramari)について簡単に説明します。

 まず半跏趺坐で座ります。次に、右手親指で右の小鼻を押さえ鼻腔をふさぎます。左鼻から息を吸います。そのとき尾てい骨まで息を入れるようなイメージで息を吸ってください。そして、しばらく止息してから、左鼻からゆっくりと息を吐きながら、のどで蜂(はち)の羽音のような「ンー」の音を出し続けてください。できるだけ長く呼息し、この音を続けられるようにしていってください。次は、同じように右鼻から吸息し、止息してから右鼻から呼息するようにしてください。片鼻で吸息・止息・呼息を行い、これを1セットとし、両鼻行います。この調気法に慣れたら、行ずる回数を増やしていっていきましょう。

 ブラーマリーを実践することで、日頃集中力の足りない人や、落ち着きのない人、気の変わりやすい人は心が安定してきて精神集中できるようになります。ですから、心の中だけでマントラを唱えづらい人、慈悲の思念に集中しづらい人はぜひブラーマリーを実践してみてください。

 またその他の効果としては呼吸が落ち着いてきたり、声に張りが出て美しいものになってきます。さらに熟練すれば、聖音オームがはっきり聞き取れるようになり、サマディーに近づくことも可能です。

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真我への道 呼吸は長く、ゆっくりと

(2012/05/25)

 自分の呼吸の状態を知ることは自己の霊的な進歩を知る、ひとつの目安になります。というのは、煩悩の強いものは一般的に浅く速い呼吸をしています。例えば、人間より犬のほうが呼吸が浅くペースも速いでしょう。もちろん犬のほうが人間よりもずっと無智が強く、煩悩を制御することもありません。逆に、霊性の高い人はゆっくりと長い、おだやかな呼吸をしています。

 前回ご紹介しましたネーティなどで浄化が進んでいたら、ゆっくりとした呼吸をすることで中央管(スシュムナー管もしくはイダー管・ピンガラ管)に精妙な生気(プラーナ)を送りこめるようになります。それにより、煩悩的な意識を昇華することが出来るようになってくるのです。

 自分の呼吸の強弱を測る、簡単な方法をお教えします。まず背筋を伸ばして、蓮華座または半跏趺坐(はんかふざ)など自分の慣れた座法で座ります。鼻の穴から1cm下くらいに来るようにテーブルの天板の高さを予め調整し、そのテーブルを自分の面前に置きます。このとき、テーブルの天板が直接触れている必要はありませんが、顔に接近させておいてください。そしてパチンコ玉サイズのふわりとした綿を、自分の鼻から10cmほど離したテーブルの上に置きます。そこで出来るだけ微かな、長い呼気と吸気をしてみましょう。その状態で綿が動くようでは呼吸がまだ荒いということです。

 これを繰り返し練習して、長くゆっくりした、穏やかな呼吸になるべく、徐々に綿を置く位置を顔に近づけるようにしていってください。最終的には、鼻のすぐそばにあっても綿が全然動かなくなるくらいの、微かな長い息が出来るように頑張ってください。

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真我への道  ネーティ・カルマ(Neti Karma)

(2012/05/23)

 前回に引き続きネーティをご紹介します。今回はネーティ・カルマといい、ネーティという独特のひもを使用した浄化法です。前回のジャーラ・ネーティ以上に鼻の粘液を除去して鼻先から眉間にかけて浄化してくれます。前回と同様に風邪症状や頭痛、眼病(白内障など)に効果を発揮します。

 では、実際のやり方を説明していきます。まずネーティ用のひもを用意し、ぬるま湯に浸しておきます。お湯から引き出し蜜ろうで固めたほうの先端を片鼻に少しずつ入れていきます。ゆっくりと奥に送り入れていき、途中でくしゃみが連続して出るような時は、一度ひもをゆっくり引き出してください。くしゃみが落ち着いたら、再び鼻腔からひもをゆっくりと入れていってください。片方の鼻腔にひもが通りにくいようでしたら、左右の順番を変えもう片方の鼻腔から試してみてください。

 最初の日は5、6センチだけ鼻腔に入れ次の日はもう少し奥まで入れるというように、徐々にネーティ・カルマに慣れていってください。

 ひもを20センチぐらい鼻腔に入れることができたら、のどの奥にひもがまわってきているのが感じらるはずです。そうしたら口の中に利き手を入れ、人差し指と中指でひもの先端を挟んで口から引き出します。この時にのどの奥を傷付けないように爪は予め短く切って磨いておきましょう。口からネーティひもを出す時は慌てると痛みが生じますから、ゆっくり引き出してください。もう片方の手で、蜜ろうで固めていない布の部分をゆっくり鼻の中に送り入れて下さい。

 口と鼻腔からひもの先が出ている状態になったら、両端を片方ずつ両手で持ってしごいてみましょう。蜜ろうで固めていない部分だけで軽くしごいてください。鼻の粘液がひもに絡んでいるので、最初にひもを通したときよりも痛みはずっと少ないと思いますが、あまり無理をしますと鼻粘膜が傷付きひもに血が付着することがあります。

 慣れていったら、ひもをしごく回数を増やしていってください。一往復を一回と数えて、50回から500回を目安にしてください。終えましたら、鼻から出ている先端を手放し口からひもをゆっくり引きだしてください。流水でひもに付いた粘液を洗い流し、ひもを乾燥させておきます。これで終了です。

 ネーティ・カルマはイダー管・ピンガラ管(スシュムナー管)に生気(プラーナ)を送り込むのに大切な行法ですから、ぜひチャレンジしてみてください。

 

 ネーティひもの作り方
@きめの細かく薄いモスリンような生地を用意し、まず70センチの長さ、幅1.5から3センチに切ります。その布の25〜30センチの長さまで、二股になるように真ん中にはさみを入れます。 

Aその二股に別れた先端をそれぞれ撚(よ)ります。撚る方向は、必ず同じ方向に撚ってください。そして撚り終わったら、今度はその2本をあわせて先程とは逆方向に撚ります。

B蜜ろうを空き缶などの容器に入れとろ火にかけて溶かします。Aの撚った部分を蜜ろうに浸し、布に充分に蜜ろうを染み込ませます。それからひも引き上げ、指で余分な蜜ろうをしごいて取り去ります。ひもの表面がなめらかになって鼻腔に入れたとき粘膜を傷付けないようになったら完成です。

 またヨガ・ショップで専用のひもを購入することも出来ます。代用品としては、細いプラスチックのチューブなども使えます。ただ、チューブの先端が切りっぱなしだと鼻粘膜を傷付けるので、何らかの工夫がいると思います。市販のものはいずれも、はじめプラスチック臭やゴム臭がすることと、一回のネーティで取り除ける粘液の量が手作りのものに比べ劣るということです。手作りのものに慣れてしまうと、他のものが物足りなく感じられるかもしれません。

 

 
 当会では、先程ご紹介しました作り方で作成しました、本場インド式のネーティひもをお譲りします。ご希望の方はメールにてご連絡ください。

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真我への道 ジャラ・ネーティ(Jala  Neti)

(2012/05/21)

 今回は、基本的な浄化法をご紹介します。このジャラ・ネーティという浄化法を毎日行うことで、首から上の疾患が改善されてきます。風邪症状・頭痛・白内障などの眼病などに効果があるとされています。実際に私の知っている人でも、ジャラ・ネーティを実践し眼がよくなった人が何人かいます。ここでは2つのやり方をご紹介しますので、どちらかやりやすい方法を実践してみてください。

 

@ネーティー・ポットという専用の容器、もしくは水呑みや急須(きゅうす)のようなものを用意してください。口に入れたときに熱くもなく冷たくもない温度のぬるま湯を容器に入れます。
首を少し横に傾けて、片鼻に水を注ぐように流し込んでいきます。このとき口をあけるようにしておいてください。そうしますと、水は鼻腔から奥を通って口から流れ出てきます。口の中に水をためるようなことはせず、そのまま口から流れ出るにまかせてください。
次は、もう片方の鼻腔に水を注ぐようにしてください。それで終了です。 
慣れない間は、洋服の前面に水がつたって濡れてしまいますから、濡れても構わない服装で行ってください。お風呂場で行うのが一番気にならないかもしれません。



Aコップやお椀にぬるま湯と少量の塩を入れ、首を前に倒してコップのふちを片鼻の下にあて片鼻の穴を水面につける様にします。空気を一緒に吸い込まないように、しっかり片鼻を水面につけます。そして、口を閉じたまま片鼻に水を流し込んでいきます。少し鼻をすするようにします。口を閉じているので、今度は片鼻から水が出てきます。
同じように、もう片方の鼻腔にも水を流します。

 

 海水浴やプールで鼻に水が入るとツーンとして痛くなりますが、ジャラ・ネーティではそのような痛みはほとんどの場合ありません。水とともに鼻水がたくさん出てきて、終わった後はとてもすっきりします。特に風邪症状が出始めたらジャラ・ネーティーを一日何度でも行うようにしてください。ジャラ・ネーティ

  ジャラ・ネーティ

 

鼻洗浄器

 

写真は鼻洗浄器です。青いポットに塩水を入れて、使用します。水圧もダイアルで調整できます。

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真我への道 エネルギー上昇させる食品、明日葉

(2012/05/19

 エネルギーを上昇させてくれる食品はいくつもあるのですが、私が知っている中で特に強いエネルギー上昇をもたらす食品についてご紹介します。皆さんもおそらく一度は口にしたことがあるのではないかと思いますが、明日葉(アシタバ)という青菜です。独特の苦味と香りがあります。スーパーの野菜売り場に並んでいますので、簡単に手に入るところも嬉しいかぎりです。

 食べ方は色々あるでしょうが、ゆでておひたし等にするときには、そのゆで汁にもエネルギーを上げる成分が溶け出ているので余さず飲むようにするのが良いかと思います。

 明日葉は芽を摘んでも明日にはまた葉が生えてくるというところから、その名がついたのですが、そこからも分かるように非常に生命力の強い植物です。食品によって上昇するエネルギーというものは修行によって上昇するエネルギーと比べ、概して粗雑なエネルギーです。しかし、明日葉を食することで上昇するエネルギーは強力なだけではなく比較的粗雑ではないエネルギーのようです。実際に、この明日葉を常食しているヒーラーの方もいます。

 しかし、いくら明日葉のエネルギーが比較的粗雑ではないといっても、食品を摂取してエネルギー上昇することには殺生が伴っています。そして、その行為には自分を律することや慈悲を培うという本質的なことが全くありません。ですから、エネルギー上昇させる食品はあくまでも補助的に利用するものというくらいにとどめておいた方がよいでしょう。

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真我への道 無生物の意識

(2012/05/18)

 意識を宿しているのは人間や動物、あるいは神だけとは限りません。実は草木などの植物も、さらに生命を持たない無生物にも意識はあります。石であろうと鉄であろうと水であろうとプラスチックであろうと石油であろうと、みなそれぞれに意識を持っているのです。私たち人間と動物と意識構造が違うように、生物と無生物では意識構造も異なっていますが、一様に意識を有しています。

 無生物の意識とは、私たちのように喜びを求めたり苦しみを嫌がったりするような意識ではありません。それにともなう複雑な感情というものも、もちろんありません。彼らにあるのは「良いカルマを積みたい」と「悪いカルマを積みたくない」という2つのベクトルがあるだけなのです。無生物には複雑な感情はなくとも、良きカルマを積み良い意識を育むことが自分を高い世界に引き上げてくれることをよく理解しているのです。逆に、悪いカルマ、悪しき意識は自分を下位世界に引きずり落とすこともわかっています。生物も無生物もみな、高い世界を目指さなくてはならないことが意識の深い部分に刻み込まれているのです。人間は彼らより高い世界にありながら、複雑なエゴを持っているがゆえに、それが見えなくなってしまっているのです

 このことを踏まえて、あなたの今いる部屋を見渡してみましょう。部屋には「部屋の意識」があります。同時に四方の壁、こっちの壁、あっちの壁、床、天井、それぞれが意識を持っています。また、机や椅子にも時計にもさまざまな小物にも意識が存在しています。そして、それらの家具や小物を構成する物質にもそれぞれの意識があるのです。

 例えばその部屋で、高い世界へと続くマントラを唱えたとしましょう。マントラを唱える声は自分の耳にも聞こえていますが、それだけではなく部屋もそのほかの無生物もみなあなたのマントラを聞いています。マントラによる、聖なるデータを取り込んでいるのです。そして、あなたと一緒に自分たちの意識が高まっていくことに喜びを感じていることでしょう。

 また、部屋の壁に自分の好きな俳優や歌手のポスターを貼れば、それは自分が楽しむだけではなく壁や机・椅子などの他の意識体もそのポスターのヴァイブレーションを感じてます。それによって、ポスターに写る芸能人の意識が自分や他の無生物に連動してきます。その写真の人物とのカルマ交換が起こるのです。その芸能人が非常に煩悩的であったら、同じように煩悩的になりやすい状態に陥るのです。あなたの部屋に存在する、他の意識体もそれを望んではいないはずです。このような意識連動は、ヴィジョンだけでなく音楽に対しても同様に起こります。

 自分が修行を行う空間をきれいに片付けておいたり、マントラなどで修行にふさわしいヴァイブレーションに保っておいたりすることは、修行をする人の意識状態の向上を助けてくれるはずです。

 どのような世界に行こうとも、その世界の存在物はすべて意識を持っています。なぜなら、この世界は自己の心の現れ出たものだからです。その世界を構成するものはすべて、あなたの心の一部分なのです。ですから無生物という形を取っていても、あなたの心の一部である限り、彼らが意識を持っていてもなんら不思議はないのです。それは高い世界に移行しても変わりません。この幻影球体世界を打ち破るまでは、私たちは自己の心の中を旅しているのに過ぎないからです。

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真我への道 此岸と彼岸のあいだ

(2012/05/16)

 すべての人は、今自分の立っている此の岸から大河の向こう、彼の岸まで泳ぎきらなければいけません。此の岸とは此岸(しがん)、私たちの人間界の生存領域を指しています。そして彼の岸とは、彼岸(ひがん)つまり仏の世界、真我の領域(ニルヴァ−ナ)を指します。その間に横たわるのは、私たちの深い潜在意識の世界です。

 この深い潜在意識に、私たちは色々なエゴのデータを取り込んできました。潜在意識という大河の流れには、そのエゴなるデータがゴミのように無数に浮かんでいます。彼の岸に渡るには、このゴミの流れの中を泳ぎ切らなくてはなりません。潜在意識の世界を泳ぐ方法とは、瞑想により自己の深い潜在意識の中に入っていくことです。しかし、深い瞑想に入っていくごとにエゴのデータはどんどんと増していき、よりエゴイスティックなものになっていきます。自分の中にこれほど強いエゴが眠っていたのかと再発見することになるでしょう。この深いデータの世界こそが、まさに自己が瞑想によって到達していく世界なのです。

 潜在意識にエゴのデータであるゴミがたくさんあったのでは、ゴミに邪魔され彼岸にまで到達することができません。大河を泳いでいる間は、潜在意識の波間に浮かぶ無数のゴミをかき集めて取り除くしかないのです。

 瞑想に入らなくとも、私たちの立っている此岸にはエゴのデータというゴミがどんどん打ち寄せられてきます。打ち寄せられたゴミのかたまり、集積は私たちを煩悩世界にひきづりこみます。これをそのままにしていては、大河に泳ぎ出そうという意欲さえ生まれてきません。ですから、打ち寄せられてくるゴミをまずは片付けなくてはいけないのです。日常の中で浮かんでくるエゴなる考えを打ち消し、それらの思考がエゴによって生じてきていることを認識し、エゴの言いなりにはならないようにしていく必要があるのです。そして、真理の法則に照らし合わせて、慈悲に照らし合わせて自分の行動を決定していってください。

 あらかじめ邪魔なゴミを取り除いておいて、いざ此岸からきれいな潜在意識の世界に飛び込み、はるか彼岸まですいすいと泳いでいけるようにしましょう。

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真我への道 オーラについて

(2012/05/14)

 オーラの色を鑑定することが何年か前に流行しましたが、オーラの色というものはその人が身・口・意(身体・言葉・心)において、どのようなことを為したかによって決まります。私たちの身体にある、七つのチャクラがつかさどる意識に対応しているのです。例えば、ムーラダーラ・チャクラは嫌悪という穢れをつかさどっています。この嫌悪という意識を持ったり、あるいは他者を罵倒したり悪口をいったり、または暴力を振るうならば、その人のオーラは嫌悪の色に染まります。他のチャクラも固有の色を持っていていて、それぞれの行為によってオーラは変色します。

 しかし、日頃嫌悪の行為ばかりしている人であっても一時的に貪欲の行為を集中して行うことがあれば、オーラの色は嫌悪の色から一時的に貪欲の色に変化します。あるいは闘争心が出ているときは、それに合わせてオーラは変色します。つまりオーラの色は「今何を為すか」によって変化するものなのです。

 それに対し、魂本来の色というものは別なものです。魂の本来の色というものは、その魂の傾向という方がわかりやすいかもしれません。魂の本来の色は、自分がどのような行為を為すことが最も多いのか、身・口・意の行為の蓄積によって決定されます。嫌悪の蓄積が多ければ嫌悪の色になりますが、それはオーラの色より強いものです。

 その時々の行為によってオーラの色は変化しますが、そうでなくともオーラの色というものは非常に移ろいやすいものなのです。それを説明するのには、まず私たちの魂の存在のあり様から説明しなくてはいけません。

 私たちが見ている世界、自己の心の映しである幻影球体世界では、私たちの肉体はひとりひとり固有のものとして別個に存在しているように見えます。私たちはそのように感じていますが、魂の領域、より高次元の世界ではすべての魂は別個にあるわけではなく、ひとつの塊として存在しています。あえて、その次元においても個別の魂を識別しようするのなら、個別の魂は地球全体で一個の魂となっています。地球の魂は他の星の生命体の塊といっしょになって、さらに大きな塊を形成しています。その大きな塊の中では星の生命体が隙間なくひしめき合っています。それらの間には空間が全然ないということです。

 個別の肉体を中心としてオーラは発散し外側に広がっていくものですが、実はすべての魂がひとつの塊として存在するのために、それらのオーラもみんなひとつに解け合っています。そして、その巨大なオーラは宇宙全体に広がっています。オーラの外郭は果てしなく広がっており、それを見極めることの出来る人はほとんどいないでしょう。

 オーラは個人の肉体を中心に発散されているものの、先に述べましたように隣にいる他者のオーラとくっつき境界線もなくなってしまっています。そのため、身近にいる他者のオーラの色に自分のオーラも影響を受けています。オーラの強い人ほど周囲の他者のオーラに働きかける力も強くなり、それによって周りの人々は、その人の持つオーラの色に染まってしまいます。このように自分本来のオーラの色というものはなかなか判断しづらいものです。

 個人のオーラの色が見える人は時々いますが、その人たちにはひとつの傾向があります。それは、その人たちの意識のなかに「自分と他者を分け隔てる意識」が強く存在するということです。霊的なセンスはあっても「自分は自分であり他者は他者、同じように彼は彼であり彼女は彼女でしかない」という意識であるために、本来はオーラは全体がひとつとして存在しているものを、個々人のオーラとして認識してしまうのです。そして、それを口にすることで自分の中の「自分と他者を区別する意識」はさらに強まってしまいます。真実の魂への理解から遠ざかってしまうのです。ですから、たとえ個人のオーラが見えている人であっても、それを他者に告げるのは控えるべきではないかと思います。教えられた人にとっても自分のオーラの色に対する捕らわれが増すことになるからです。

 このように条件によって移り変わっていくオーラの色に捕らわれることは、真理を実践するものにとってはふさわしいことではありません。そもそもオーラの色を識別すること自体が、自分と他者を区別しているという意味では、あまり望ましいことではありません。それよりも日々自分がどんなことを為しているのかということに意識を向けるほうが大切なのです。

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真我への道 肯定的と否定的

(2012/05/12)

 何か新しいことに立ち向かう時、それが為しがたく思えても「自分は必ず成し遂げられるんだ」という肯定的な姿勢は非常に大切です。私たちは常に肯定的であるべきなのです。なぜなら、逆に否定的な意識を持てば現象は否定的な方向に向っていくからです。

 例えば、あなたが新しく部屋を借りようと思い不動産屋を何軒もまわったとしましょう。それでもなかなか良い部屋にめぐり会えず、次に紹介される部屋もきっと駄目だろうという否定的な気持ちに陥っていたら、どうでしょう。部屋を内見する前から「きっと何か気に入らないところがあるに違いない」と否定的に考えていたら、その想念によって部屋は形を変えるのです。そして、あなたの前に『気に入らない部屋』として登場します。逆に肯定的な気持ちであったら、いつか気に入る部屋が見つかるものです。

 このように、この世界は私たちの心の世界であるがゆえに自分の想念によって、いかようにも変化してしまうものなのです。ですから、私たちは特に自己の修行を進めていくためには絶対に肯定的であるべきなのです。自分は必ず今生で大きな霊的な成長を果たすんだと決意し、その思いに忠実であるべきです。否定的な想念は否定的な結果を呼び込んでしまうものなのです。

 たとえ聖者であろうと、否定的な想念を放っている他者を避けたがるものなのです。その他者の否定的な想念が連動し、「苦界にあるすべての魂を救いたい」という聖者の、第一の欲求がそがれるからです。もちろんそれで挫けるわけではないのですが、高い意識にある方でもその想念に足を引っ張られてしまうのです。

 どんなに否定的な想念が自分自身の足かせになっているか、これだけでもお分かりになるかと思います。「どうせ自分には無理」ではなくて「自分は神々に守られているから、必ず高い世界に至り多くの魂を救済できる」と、常に自分自身に肯定的でいてください。

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真我への道 私たちは守護されている

(2012/05/09)

 連休中、車で遠出された方もおられたかと思いますが、皆さん無事過ごされたでしょうか。私たちは自分自身の力で車を安全に操っているように思っていますが、実はそうではありません。車などを運転するとき私たちには見えない方々が、私たちが無事でいられるよう守護して下さっています。いつも私たちひとりひとりを見守って下さっている「守護者」といわれる方々です。

 どんなふうに守られているかというと、私たちの車全体をひとつのエネルギー体が包んでいるようなイメージです。そのエネルギー体の形は後方斜め上に向って細くなっていくような形をしています。ちょうど、透明なタマネギのような形をしており、芽が出る部分がずっと上まで伸びていて、天上界にいらっしゃる守護者とつながっていると考えてみると良いかもしれません。このようにして、自分と縁のある守護者がいつも私たちを守って下さっています。

 守護者とはすなわち天人、天界におられる方々を指します。そして人間の魂のそれぞれのレベルに応じて、守護してくださる天人のレベルが決まってきます。普通の人は欲天の天人がついて守って下さっています。しかし、その人間の魂が真理との縁が深く霊性が高ければ(その霊性がまだ開花していなくても)梵天界以上の神、さらに高い世界の神々の庇護を受けているといえます。

 本当に高い世界の神々の守護というのは、その魂がニルヴァーナまで最適な道を歩けるように働くものです。この現世での幸福・安寧を与えるためというよりも、その魂にとっての真の利益を与えるための守護なのです。私たちが考えるよりもはるかに大きな視野で見ていらっしゃるのです。

 ですから欲天より高い世界の神々の守護というものは、あらゆる困難を除去してくれるという類の加護ではありません。その魂に困難を経験するカルマがあるならば、それがその魂にとって必要だから用意されているのです。高い世界の神々にとってそれを取り除くことはたやすくとも、そのようにはしないでしょう。たとえ、その困難が死であっても、です。

 このような加護に対して感謝と畏敬の念を持つ必要があります。そして「自分は生かされているのだ」という謙虚な気持ちになって、いま一度自分が何をなさなければならないのか考えてみましょう。この人間界に自分がこうして生かされているのは何故なのか。神々が誕生の瞬間から私たちを間断なく見守り続けているのには、確かな理由があるのです。はたして私たちに自己のエゴを満足させるだけの人生を送らせるためだけに、神々は私たちを守護して下さっているのでしょうか。

 いいえ、私たちは真理の名のもとに、他の多く人間の魂を救済するために生かされているのです。その役目のために、私たちは運転の時もそれ以外のときも神々から守護され続けているのです。私たちが何をしていようとも、どんな時であっても神々たちは期待を込めて私たちを見つめていらっしゃるのです。私たちは、いつも神々の加護のもとにあるのです。

 どうぞ、自分の力だけで生きていると錯覚することなく、自分が神々とつながっていることを自覚してください。そして、自分が守られていることを意識し、感謝と謙虚な心で日々生きていってください。さすれば、より強く神々の守護を実感されるようになるでしょう。そのとき自分が全く違った人間になっていることにきっと気付くはずです。

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真我への道 アセンションと三グナの関係について

(2012/05/07)

 数日前、今年の12月冬至に向けて私たちのカルマが一挙に返ってくるという話をしました。これに関係して、この人間界を覆っているエネルギーが変化しつつあるということをお伝えしたいと思います。

 以前、この世界を構成している三種類のエネルギー、三つのグナについて言及したことがあります。1つめのタマスは暗性優位のエネルギーで、物事を覆い隠したり現象を遅らせたりするエネルギーです。私たちの人間界は、今までこのタマス・エネルギーが優位な状態でした。このエネルギーが優位ですとカルマの現象化が遅く、今生為したこと(カルマ)が死を挟んで次の生にならなければ、果報として返ってきませんでした。ほとんどの人は前世の記憶を失っていますから、私たちの生まれ変わりを支配しているカルマの法則の存在に気づくことがありません。ですから、多くの人が真実を覆い隠され、光のない無智なる状態でした。

 ただし、真理を実践する修行者はその限りではありません。真理を実践することでタマス・エネルギーが取り払われサットヴァ・エネルギー(善性優位)が強くなっているため、カルマの現象化のスピードが非常に速くなり、来生に持ち越さないようになります。真理が根付けば根付くほど、そのスピードは速くなります。実際私は修行がかなり進んでから、何か行為をすれば、すぐにその果報を受け取るようになりました。

 この世界の一般的なエネルギーの流れに話を戻しましょう。今までは現象を遅くするエネルギーが主に働いていて、多くの人はカルマの存在に気付かないでいました。ところが、2012年冬至に向けて徐々にエネルギーが変質してきていて、人間界においてラジャス・エネルギーが優ってきました。このラジャス・エネルギーは動性をつかさどっているため、カルマの現象化が速まるという流れになってきています。このエネルギーは今以上に強くなっていきます。それに合わせて現象の動くスピードはどんどん加速していくことでしょう。

 そして2012年冬至にエネルギーは、三種類のグナのうち3つめのサットヴァ・エネルギーに変化します。サットヴァ・エネルギーは善性優位なエネルギーであり、タマスの対極にあります。物事の覆いを取り去り、光をあて真実を明らかにします。今までタマス・エネルギーの霧に覆われていたカルマの法則がサットヴァ・エネルギーの下ではっきりしてきます。以前に申し上げたように、すべての人の今生に為したこと(カルマ)が死を経験することなく、今生のうちに果報として返ってくることになります。このエネルギーの激変は、最初はほとんど気付かれることはないでしょう。しかし、次第に多くの人が「今生、自分が為したことの果報が返ってきている」という事実に気付くようになります。その時、多くの人が真理という法則の存在に近づくことでしょう。

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真我への道 集中によりエネルギーを高める

(2012/05/05)

 何事であっても意識を集中させることで、私たちはエネルギーを強めることが可能です。ごく単純なことであっても、そこに集中さえできればエネルギーは強まります。例えば、限界まで速く正確に1から20までの数をかぞえます。漫然と数えていたのではエネルギーは変化しませんが、正確さとスピードを限界まで追及すれば、ぐっと意識は集中しエネルギーが増大していきます。

 しかし、数を高速でかぞえることでエネルギーがたとえ増加しても、それは意味のある行為ではありません。どちらかといえば無智なる行為といえます。それより、同じ原理を利用してマントラ(真言)を限界まで速く正確に唱えることを心がけてみてください。単に数をかぞえるのと違い、マントラは高い世界のものですから、そこに極度に意識集中できれば高い世界につながることができます。自然と自己の意識も高い神々の意識に変化していきます。マントラに集中することによるエネルギーの高まりは、単に数を数えることによってもたらされるエネルギー増大の比ではありません。

 マントラはごく短いものであるならば何かの作業をしているときであっても唱えることができます。日常生活の中でも、マントラを唱えること(ごく小さな声であっても)を習慣化したいものですね。

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真我への道 自己の完全性について

(2012/05/03)

 ある人からこんな相談を受けました。「自分は完璧に、少なくとも完璧に近いかたちで仕事をこなしていると思ってきた。でも、最近上司に叱責され『お前のやり方は全然なっていない。この仕事はこうやるんだ』といわれた。自分はその仕事に対して自信があったから、どうしても上司の言うとおりの、やる気になれない。上司とは考え方が違うが、自分のほうが正しいと思っている。もちろん、それからその上司との関係も上手くいっていない」かいつまむと、このような内容でした。

 程度の差はあれ、こういった思いは誰もが抱いたことがあるのではないでしょうか。しかし、こんな日常生活のことであっても自己の正当性や完璧さに拘泥するのは、真理の追求という観点からみればあまり良いことではありません。なぜなら、自己の完璧さ・正しさに固執することは、現象への捕らわれをますます大きくすることになるからです。さらに「自分は完璧だ」という思いは自己の霊的成長を抑制し、それ以上の世界への道が閉ざされてしまいます。

 ですから自分に理があると思っても、一度は相手の意見を聞き入れるようにしてみましょう。実際に相手の意見に従っても上手くいかない、やはり自分のほうが正しいようだと思うようなら、その時はそれを相手に伝えればいいだけです。最初から相手をはねつけ自己の完全さを主張しても、自己の観念世界からは抜け出ることはできません。

 そもそも、私たちが人間として生まれてきている以上、「完璧」などということはありえないのです。不完全だからこそ、人間という存在にまで堕ちてしまったともいえます。この相対世界において「絶対に正しい」などということはありえません。ましてや「完全」「完璧」などないのです。もし、この世界に「完璧」があるとしたら、それはすでに相対を超えた絶対の世界のものだけです。

 この相対世界での失敗はみな、やり直しのきくことばかりです。本当は、私たちは自分を守る必要などないのです。自分の観念世界の中で自己の完璧さにひたっていても、真実の世界は見えてきません。もしあなたが絶対の完璧を求めるのなら、世俗の世界において、今あなたが守っている「完璧な自分」「正しい自分」を一度手放すようにしてみてはいかがでしょうか。

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真我への道 時間速度の変化とカルマ

(2012/05/01)

 アセンションに向けて、時間の速度が速くなりつつあるという話をお聞きになったことがあるでしょうか。時計が刻んでいる時間は以前通り1日24時間であり、1時間は60分であり、一分は60秒です。しかし時間そのものが速く流れており、本来1日24時間であったものが、現在は一日が実質12時間以下である、このようにいわれています。そして2012年12月に“タイム・ウェイブ・ゼロ”を迎え、時間そのものが消失するということです。そして我々はアセンションする、というものです。

 ここまでは、他の人の考えであり私の見解ではありません。以下、私の考えを述べさせていただこうと思います。

 「一日が早い」「あっという間に一日が終わる」ということを多くの人が感じているのではないでしょうか。この感覚はどんどん強くなっているはずです。その日にやるべきことが終わらない、時間の余裕がないという現象になってきています。これは、時間の流れに人の意識が追いついていないことを表わしています。時間の速度そのものが速まっても、人がそれにうまく乗っていれば、以前と同じように一日のノルマをこなし余暇を十分に味わうことができるはずです。そして一日の長さを以前と同じように感じるはずです。それは、新幹線に乗っているようなものです。新幹線に乗車していても、外の景色を窓から眺めなければ、自分が高速で移動していても、その速度が上がっても実感はありません。しかし現在、人の意識は時間の急速な流れについていけず、めまぐるしく変化する現象の情報処理をするのに手一杯な状態なのです。それゆえ、多くの人が「時間が早い」と感じているのです。

 多くの人が時間が早いと感じるようになっているのは時間速度が速くなっているせいだということも出来るでしょうが、それはあまり重要なことではありません。なぜなら、先ほども述べましたように時間の流れに乗っている限り、その流れの速度はあまり問題ではないからです。時間というものは初めから相対的なものに過ぎないのです。同じ一時間でも長く感じるときもあれば短く感じるときもあるのです。大切なのは、一体どうしてこのような現象を、多くの人が感じるようになってきたかということです。今実際に何が起こっているのでしょうか。

 まず最初に、私たちの魂はなぜこの世に生まれてきているのかということをごく簡単に説明します。この世に生まれる前つまり前生において、自分の魂は他者に対して多くの行為を為してきました。例えば、そのうちの1つに、誰かに悪口を言われてカッとなってつい相手を殴ってしまうことがあったとします。このときの「殴る」という行為に関してだけいうと、自分は主体の「為す」経験をします。相手の「殴られる」という客体の立場は経験しません。しかし、この世界はすべて自己の心の表れに過ぎず、本来は主体と客体の区別のない世界のはずなのです。それを主体の経験しかしていないのでは主体・客体の区別が残ったままの不均衡な状態であり、そのバランスを取り戻すために次の生(しょう)が用意されるのです。

 簡単にいってしまえば、前生では主体の「為す」経験をしたならば、前生のその経験を原因として今生はその客体の「為される」経験をします。先程の例でいったら、前生で殴るという経験をすれば今生は殴られる経験をするということです。これは、自分と他人を分け隔てる意識を完全に放棄しない限り続きます。(これについて詳しくは、私の著作をご覧ください。) 

 つまり、今生の自分が経験することはすべて生まれる前から予め決まっているということです。これをカルマと言い換えられます。私たちが背負っているカルマの量と性質は、人それぞれ生まれる前から確定しているのです。そして、前生の「為した」という経験によって今生の「為される」という経験の量が決まっているため、その「為される」経験量に応じて適度に人生の長さも決まります。ひとりひとりの人生の長さが違うのは、過去生の原因に由来しているのです。ですから、この「為される」という経験が尽きた時、人は死を迎えます。

 私は以前からアセンションに向けて、私たちが持っているカルマがどんどん解放してくるというようにお話していました。(詳しくはこちら)これは、アセンションの瞬間までに私たち全員のすべてのカルマを完全に消費するためです。

 言い換えれば、アセンションの日といわれる2012年の冬至までに「為される」という経験を私たちは加速度的に経験していくということです。いや、加速度的というよりも飛躍的に私たちの「為される」経験は増大していきます。このように経験の量が増えることで、私たちの意識はそれに反応し次の行動を取るのに大忙しで、結果時間が速く過ぎるように感じているのです。そして、これからは今以上に「一日一日が短い」と感じるようになっていくことでしょう。             

 喜びのカルマであろうと苦しみのカルマであろうと、すべての今生のカルマが余すことなく現象化します。しかし、ほとんどの人は楽しみだけを追い求めて、苦しみは遠ざけようとしています。そういう考えのままだと、自己に内在された喜びのカルマ(原因)はどんどん先に消費されていきます。後には、もう苦しみのカルマ(原因)しか残されていないという状況になってしまいます。

 しかし、苦しみのカルマだけになろうと時間を速く感じるようになるのは変らないでしょう。通常、私たちは喜びや楽しい時間を短く感じるものです。逆に苦痛や退屈などの苦しみを味わう時間は非常に長く感じるものです。しかし、これからは苦しみを味わう時間ですら、短く感じるようになります。なぜなら、考えられないほど色々な苦しみの経験が立て続けにやってくれば、そのひとつひとつに反応していくだけで時間がどんどん過ぎていくからです。めまぐるしい変化に対応するだけで精一杯になるのです。よって、苦しみだけの期間になっても時間の速度は相変わらず速く感じるのです。                                                    
このようにして今年の12月の冬至に、すべての人の「為される」という経験がゼロになります。通常ならば、それは死を意味します。しかし2012年冬至に限っては、死を経験することなく次の段階に移行します。

 私たちは、前生の「為した」という経験により今生において「為される」という経験をしていくわけですが、他者により何か行為を為されると、私たちはその現象に捕らわれてしまって、それに反応して再び何らかの行動を取ってしまいます。つまり身・口・意において行為を「為す」、つまりカルマを積んでしまうのです。これが、次の生に再生する原因になります。

 今生においても、それは同様です。2012年冬至までにカルマが一挙に返ってきても、その現象に捕らわれ何らかの行為を「為す」ならば、次の再生の原因体は新たに生まれてしまいます。今生が他の生と違うのは、この再生の種子が来生に持ち越されることなく、死の経験なしに2012年冬至以降の人生で経験することになるということです。つまり、2012年の冬至を境に来生に経験すべきことを、私たちは経験するようになります。今生為したことが、今生のうちに返ってくるということです。

 これは何を意味するかというと、今まで見えなかったカルマの法則に多くの人が気づくようになるということです。今生自分が為したことがそのまま自分に返ってくることで、その因果関係を理解できるようになります。それにより、多くの人が真理に目覚める可能性が出てくるのです。多くの人のカルマが急速に終息していくことはまちがいないでしょう。

 また、すでに真理に気づき、実践する聖なる者はどうでしょうか。彼らは自己のカルマがどんな形で返ってこようと、それに捕らわれることはありません。現象に心が捕らわれなければ、身・口・意のどの段階においても、新たに「為す」ということをしないで、カルマを生じさせません。このように新たなカルマを作らなければ、このアセンションの流れを利用し急激な速さで解脱・悟りに近づくことも可能なのです。

 しかし、そのような良い面はあるものの、これから起こるであろう現象は悲惨なものです。人々の積んだカルマ、それは天界の要素から地獄界に至る要素を含みます。初めは少しずつですが、最終的にはその全部がこの地球に現れるのです。今までの地球は人間界の舞台でしたが、それに加えて天界・修羅・餓鬼・迷妄地獄・激苦地獄が繰り広げられるようになり、地球はとんでもないごった煮状態のカオスになります。これは、ちょうど六つの世界が同時に地球に存在するようなものです。

 自分の為した暴力行為・冷酷な心により激苦地獄の亡者をこの世で経験する者。自己の無智なる行為により気がふれる者。自己の貪欲さゆえに飢えに苦しむ者。逆に、自己の善業により、この地上ではありえなかったような幸福を味わう者。この混沌の世界では、人々のカルマを現象化させるために、今までは存在しなかったような奇病や災害、事故が多発するようになるでしょう。

 これらが、今年の12月冬至の日以降に徐々に現実化してきます。それまでに自分が為したことが原因となって、自分が天の世界を経験するのか地獄の世界を経験するのか決まってしまいます。私が真理の実践を強く勧める理由は、ひとつにはここにあります。本来、真理を実践することはすべての魂の唯一の生存目的ですが、今生においてはその結果がすぐ目に見える形でやってくるため、自己のカルマを少しでも軽くしておかないと、すぐに非情な苦しみに突き落とされることになるのです。今や、冬至まで200余日しか残されていません。これからでもいい、少しでも多くの人が自己のカルマを乗り越えるための戦いに挑んでほしいと思います。

 自己の喜びは後回しにしても、やってくる苦しみを受け入れ慈悲の実践を続けていくことが求められます。そして冬至以後も、周りの苦しむ人々を助け真理に導いていくことで、より高い解脱・悟りに至ることができるのです。

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真我への道 親の因果が子に報う、とは何か?

(2012/04/29)

 「親の因果が子に報う」ということわざがあります。意味は「親が悪業を為し、その果報が子どもに及び、何の罪もない子どもが苦しむ」ということですね。しかし、それは真実を言い当てていません。なぜなら真理の法則において、自己の為したカルマは必ず本人に返ってくるからです。カルマは、親子間で継承されることは決してありません。親の為した行為(原因)が親の存命中、本人に返ってこなくとも、死後その親であった魂が別の幻影球体世界に生まれ変わった時に、果報として本人に返ります。

 あなたの周りの他者を自己の心の現われと見るのではなく、本当の他者であると考えた場合、親の魂と子の魂は今生たまたま親子関係にありますが、それは単に縁によるものです。この幻影なる世界に個々の魂が存在するとするならば、すべての魂はみな平等です。親であろうと子であろうと別個の魂であり、他の魂と同列なのです。

 ですから、現在自分が苦しい状況にあるからといって、その原因を、自分の祖先をさかのぼって考えるのは間違いです。先祖供養をしても、気持ちは変化するかもしれませんが根本的原因は変わりません。認識できなくとも、自己の前生でそれに相当する原因を作っているのです。

 カルマは個の魂を基盤として作用するということを説明してきました。では、国や地域のカルマがないかといえば、そうでもありません。例えば日本国民の総意としてひとつの世論が形成された時、あるいは総意としてひとつの行動が決定された時、そのカルマは国全体のカルマとなります。国全体で他国との戦争に傾いていくならば、国民全体が嫌悪のカルマを積むということです。地球規模であろうと地域単位であろうと、それは同じです。

 しかしまぜ返すようで申し訳ありませんが、いくら国民の総意といっても、そこで多数派意見に同調するのか、しないのか決めるのは個人です。ひとりひとりが程度の差はありますが、自分で選択し自己のカルマを形成しているのです。そして国全体のカルマとはいうものの、そこでカルマの果報を受けるのは、やはり個々人に違いなのです。

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真我への道 ちょっとくらいなら大丈夫?

(2012/04/27)

 自己の煩悩を乗り超えようとする修行者が、煩悩の誘惑に負け一度でも自己の欲望を満たし「ちょっとくらいなら(真理から逸脱しないで)大丈夫だろう」と思っても、人の意識とはそんなに甘いものではありません。いつの間にか知らず知らずのうちに、自分の心は煩悩に絡め取られてしまいます。初めは煩悩に負けそれを満足させれば罪悪感が生じますが、そのうちそれが当たり前になり、煩悩を満たすことが平気になってしまいます。そして人の心は限りなく堕ち、煩悩の虜となり真理の一片すら理解できなくなってしまうでしょう。

 これには、向こう見ずなクジラの子どもの話がありますので、ご紹介します。

 

 一頭のクジラの子が群れから少し離れた海上で潮を吹いたり飛び跳ねたり深くもぐったりして遊んでいました。このクジラの子どもは誰よりも好奇心が強く、その上意地っ張りでした。

 その時、近くを人間の船が湾のほうからこちらにやってきました。群れの大人のクジラたちは「人間が近づいてきた。危ないよ、早く逃げよう。」と合図し合って船から離れていきました。他の子クジラたちも大人に付いていこうと一生懸命逃げていきました。しかし、好奇心の強い、あのクジラの子どもは船が近づいてきても逃げもしないで、はじめて見る人間の船とその上でごちゃごちゃ動いている人間をおもしろそうに眺めていました。「ちょっとくらいなら危ないことなんてないさ」と高をくくっていたのです。

 しかし、その船は実は捕鯨船でした。漁師たちは逃げもしないクジラの子どもをひきつけ、まんまと長いロープのついた銛(もり)を射ったのでした。銛はクジラの子どもの背中に深く突き刺さり、鋭い痛みが走りました。しかし、それどころではありません。自分が大変な過ちを犯したことをようやく悟ったクジラの子どもは、あわてて深海に逃げ込みました。そして息の続く限り潜って、仲間の逃げていった方向に泳ぎ出しました。

 仲間のクジラの群れは、そこから少し離れたところで様子を伺っていました。特に、このクジラの子どもの母親はなかなかやって来ない我が子を心配しておろおろしていました。クジラの子どもは、仲間に追いつくとは「人間の船を近くで見てきたよ。危ないところだったけど、うまく人間をまいて逃げてきたよ」と意気揚々と言いました。「でも、お前なんだか様子がおかしいよ」母クジラはまだ心配顔です。「うん、ちょっと怪我をしたからね。でもこのくらい大丈夫でしょう?」と子くじらはまだ得意そうです。

 それを見ていた群れのリーダーは悲しそうな顔で母クジラにいいました。「残念ながら、この子はもう我々の仲間ではない。すでに人間の手中に落ちてしまったのだ。見なさい、この子の背中に食い込んだ銛とロープを。その先には人間が待っている。この子が疲れ力尽きた時、あとはそのロープを手繰り寄せるだけだ」
それを聞いて、母クジラは悲痛な声で言いました。「もしお前が私たちの言うことを聞いてすぐ逃げていたら、こんなことにならなかったのに」

 

 このクジラの子どもように「ちょっとくらいなら平気だ」という、ほんのささいな心の甘さが、自己の修行者としての生命を駄目にしてしまうものなのです。ですから、自分の心を冷静に観察して、そのような心の甘さが付け入る隙を与えないようにしなくてはいけないのです。

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真我への道 修行者にとって望ましくない食品

(2012/04/25)

 修行者にとっても、真理の実践をしていない一般の人にとっても、私たちの身体にふさわしくない食品のひとつに、菓子パンがあります。そもそもパン自体が粉を練って作るものであり、そういったものは自己のイダー管・ピンガラ管、あるいはそれにともなう全身のナーディーを汚すことになるのです。さらに、菓子パン、特に大手メーカーが製造する菓子パンには色々な添加物が入っています。ぱさつかないようにするための大量の油脂、腐らないようにするための保存料、口当たりをまろやかにするような添加物などです。

 そういった添加物の入った菓子パンを、浄化がある程度進んだ修行者が食べれば、『とんでもない食品』であるということがよくわかります。なぜなら、最初の一口がのどを通ると、すぐにものすごい倦怠感が生じてきます。そして全身のナーディーも、バキバキに凝り固まるという状態まで詰まってしまいます。それでも食べ続けようものなら、吐き気すら起こってきます。

大手メーカー製造の菓子パンは、止むを得ないとき以外は出来るだけ摂取しないようにするのがよいでしょう。

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真我への道 真理のとらえ方について

(2012/04/24)

 真理の実践を始めるにあたり、多くの人が陥りやすい過ちについてお話します。

 まず真理とは関係ない一般の事柄に対してですが、「自分はこれをやり遂げよう」と決めてそれを実行していく中で、順調に進んでいる時は「自分は正しい道を歩いている」と人は感じるものです。しかし、いざ暗礁に乗り上げると「これは正しい道なのだろうか。自分は間違っているのではないのだろうか」という疑念が湧くものです。私たちが何かを実践するのは、その先に成功や何らかの素晴らしい結果を期待しているためです。

 しかし真理を実践するということは、そういった現世的な成功や素晴らしい結果が伴うとは限らないのです。究極の真理が目標とするものは、そのような現世的な楽を超越したところにあるからです。

 さまざまな宗教がありますが、みな現世の幸福をうたいます。「この神様を信じて信仰すれば、必ず良いことがありますよ」と。そして、どんな宗教でもそれを信仰し始め、その過程でうまくいかないことが続けば「この宗教は間違っているのではないか」と人は思うものです。間違っているというのは、つまり「これは真理ではないのではないか」という疑いを持ちます。

 ですが、真理というものは本来、自分を取り巻く現象がうまくいくとか、いかないとかという一般的な尺度で推し量れるものではありません。真理であるから、それを実践すればこんな良い現象になるだとか、真理でないから悪い現象になるとかいうのは誤ったとらえ方です。

  自分に起こってくることはすべて自分の過去に因があり、苦しい現象がやってくるのはその果報(結果)が目の前にやってきただけに過ぎません。真理を実践しているからといって、自分が過去に作った因をなくすことが出来るわけではありません。自分が苦しい状況、嫌な状況に陥ったとき、それが自己のカルマの結果であると理解し、さらにそれらの苦しみ一切を超えるためにあるのが真理なのです。

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真我への道 グルを求めて

(2012/04/20)

『MANDLABAND』 私が若いころ霊的な世界に関心を持つようなってから、ヒマラヤやチベットの聖者に憧れ、自分もかの地に趣き雪山の洞窟にこもって瞑想し魂の至福に手に入れるんだと心を燃やしたものでした。

 その時友人からもらったLPレコードを聴き、その迫力ある音に自分が一歩一歩チベットに向っているようなイメージを喚起させられたのでした。MANDALABAND(マンダラバンド)MANDALABAND(1975年発売)の曼陀羅組曲という曲です。1975年当時にあって中国のチベット侵攻をテーマに取り上げ、かつイギリス人のボーカルがチベット語でマントラを繰り返している、まさに異色の作です。LPは廃盤になっていますが、リミックス盤がCDで再発売されいるのようです。この写真はCDの紙ジャケット盤です。

 若い頃のヒマラヤやチベットへの憧憬は、結局かなえれることなく憧れのままでした。今はもちろん、霊的修行のためにヒマラヤの雪山へ行く必要があるわけではないと理解しています。

 ヒマラヤの雪山もそうですが、山奥の岩屋や洞窟、人里離れた庵での修行のメリットは何かというと、他者に忘れてもらうことで他者との意識の連動をすることなしに修行に集中できることです。これまでもさんざんいっていますが、私たちは日常生活の中のあらゆる場面で他者とエネルギーを交換し、意識を連動し合っているのです。それにより、現世にある修行者は一般の人の意識の影響を受けています。しかし、ヒマラヤや山奥にこもって修行すれば世俗の人の煩悩的意識に引きずられることなく、自分は高い神々の境地に到達しうるのです。

しかし、ヒマラヤのようなはるか彼方の地に自分の霊的指導者(グル)を求めようとするのも、あまり意味のあることではありません。お分かりになる方もいらっしゃるかと思いますが、グルはいつもすぐ近くにいます。その肉体がはるか遠隔地にあっても、あなたのことをいつも近くで見守っています。ですから、霊的指導者を求めて旅に出る必要はないのです。自分の部屋で瞑想していても修行をしていても、その準備の出来た弟子には必ずグルの存在が指し示されることでしょう。

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真我への道 穢れの昇華に伴う変化について

(2012/04/19)

 骨盤などの骨格がずれているひとはめずらしくありません。身体のある部分の骨格がずれているというのは、その部分に穢れが蓄積しているからなのですが、霊的エネルギーはそれを正常化させようという働きもします。

 例えば首の骨がずれているというのは、のどにあるヴィシュッダ・チャクラに関係する穢れが蓄積していることの現われなのです。本人はまっすぐ前を向いているつもりであっても、骨格自体にねじれが生じているのです。クンダリーニが覚醒し特に強いエネルギーの上昇が始まると、その度に自然と首がくいっと曲がって顔が横を向いてしまう人がいます。これは本人の意思とは全く無関係に起こりますが、ずっと顔が横を向いているわけではなく、すぐに顔の向きは戻ります。

 エネルギーが上がるたびに首が回ってしまうのは首の骨格がずれているためであり、それをクンダリーニエネルギーが正常に戻そうと働いているのです。エネルギー上昇に伴い勝手に横を向くと首の筋肉が疲労し、時に痛みやかゆみになるときがあります。しかし、それはクンダリーニエネルギーが何回も何回も上昇しヴィシュッダ・チャクラの穢れを徐々に昇華させているのです。穢れが昇華することで、ゆがんだ骨格も正常に近づいています。

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真我への道 苦しみというトンネルを抜けるには

(2012/04/18)

 私たちの人生の道のりには、「苦しみ」という暗くて長いトンネルに差し掛かるときがあります。人は誰しも、この暗くて長いトンネルの中で「何とか、このトンネルから一刻も早く抜け出したい」と思いもがきます。しかし、この長く続く、暗い苦しいトンネルとは、私たちの人生にとってあるべくして設けられたものです。自分自身が為した行為を因にしたカルマによって、あなたの人生の中に長く暗いトンネルは用意されたのです。ですから、どれだけそこから逃げようと思っても、なかなか抜け出すことは出来ません。

 苦しみのトンネルの中で私たちが為すべきことは「この長いトンネル(苦しみ)から抜け出そう、抜け出そう」ともがくことよりも、自分の為したこととして自己のカルマを甘んじて受け入れることではないでしょうか。

 そうすれば、どれだけ長く暗いトンネルであっても、その長さや暗さに捕らわれなくなっていくことでしょう。いずれにせよ、いつかそのトンネルは終わり、再び昼間の明るい太陽の下に出ることが出来るのです。

 しかし、その太陽光の明るさに慣れ親しんでいれば、つまり幸せに執着しそれに慣れてしまえば、自己の人生がまた暗くて長いトンネルに差し掛かったときに、より大きな苦しみとしてそれを経験することになるでしょう。自己のカルマを因としているかぎり、苦からは逃れることはできません。悪業を全く積まない人などいないからです。ですから、長く苦しいトンネルをひとつ抜け出た人に「ああ良かったね、これで安心だね」とは言えません。

 どれだけ長くて暗い苦しいトンネルでさえも、いつかはトンネルの切れ目はやってきます。そして、明るい日差しの下を歩むことになりますが、それもやがて終わります。そのどちらもが無常なのです。私たちは暗いトンネルを出たり入ったり、自己の為したカルマを原因とし何度も何度も経験することになります。

 どんなに人間が画策しようが、トンネルに入るのを先延ばしにするだけにすぎません。苦しみそのものからは逃れられないのです。先延ばしにされたトンネル(苦しみ)は、いざそこを走行するときにはより長くより暗いものに感じられるものなのです。

 私たちは自己のカルマを受け入れることによってのみ、どれだけ長くて苦しいトンネルであっても短いトンネルに変化させていくことが出来るのです。ですから、自己の為した行為を認め悔い改め、自己のカルマの果報をすべて受け入れていくことこそが如来へ至る真理の道であると私は考えています。

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 真我への道 クンダリーニ覚醒に向けて 

 
(2012/04/17)

今回は、クンダリーニ覚醒のためにとても有効な行法、マハー・ムドラーをご紹介します。しかし効果的な反面危険性を伴う行法ですので、まず最後まで精読してから注意事項を守って実践してください。

 実践する時はリラックスできる、ゆったりとした服装で、なるべく身体を締め付けるような装身具は外しておきましょう。そして基本的に呼吸は、鼻から吸って鼻から出すようにしましょう。

 まず両足をまっすぐ前にそろえて座ります。それから左足のひざを曲げ、左足のかかとを会陰にしっかり付けます。左ひざは床から浮かさないようにします。右足を伸ばしたまま、右足の親指を、右手の人差し指と親指でつまみ、そこに左手の親指と人差し指を重ねてください。しかし身体が硬くて足の指がつまめない人は、足首やひざをつかんでも構いません。

両鼻腔から息を吐き出して、お腹をへこませるようにして完全に息を吐ききります。次に下腹部の力を抜きリラックスして、両鼻腔からゆっくり息を入れます。大きく胸を広げるようにいっぱいまで息を吸い、あごを上げ背中を反らします。胸いっぱいに息を満たしたら、そのまま保息してください。そして三つのバンダ(引き締め)を以下の順で行います。

1番目 :ジャーランダラ・バンダ(首の引き締め)
首を前に曲げて、あごを鎖骨の間のくぼみに押し当てるようにします。くぼみにはめ込むようにぐっと引き締め、喉を閉じます。

2番目 :ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)
アシビニ・ムドラーのように肛門を意識してぐっと引き締め、そのまま保持ます。

3番目 :ウディヤーナ・バンダ
おなかをへこませて、上方にぐっと引き上げてください。

 三つのバンダをそのまま保持し、途中で緩まないにしてください。意識はムーラダーラ・チャクラ(尾てい骨)に集中させてください。

 息を止めて、この状態を限界まで保ちます。限界に達したら、お腹のバンダ、肛門のバンダの順に緩めていきます。首のバンダはまだ外さないでください。首のバンダをしたまま、ゆっくりと息を吐き出します。息を吐ききったら、最後にジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)を緩めて、ゆっくりと上体を起こし、足をそろえまっすぐ前に伸ばし元の姿勢に戻ります。これでムドラーは終了ですが、ムドラーの後は必ずシャヴァ・アーサナを取ってください。

 

 シャヴァ・アーサナとは、「屍のポーズ」ともいわれ、全身をリラックスさせる行法です。まず、仰向けになり両足をゆったりと肩幅ぐらい開きます。両腕は体側から15度くらい離し、両手のひらを天井に向けておきます。目は軽く閉じ、全身の力を心臓から遠い部分から抜いっていってください。まず左右の足の指先、左右の足首、左右のひざ、左右の股関節、腰、心臓の順番に弛緩させていきます。また、上体では左右の手首、左右のひじ、左右の肩、首、頭の順に力を緩めていってください。力を抜くために足や腕を左右にぶらぶら揺らしても構いません。全身をリラックスさせた状態を保ちます。

 充分に(タイマーを用いて5分程度を目安に)リラックスできたら、シャヴァ・アサーナを以下の手順で終了させてください。まず足首を返して力を入れ、頭の方につま先を向けます。ひざを曲げ、ひざを身体に引き付けます。同時に、首を曲げ頭を持ち上げて、顔をひざに近づけて背中を丸めてください。同時に両手にこぶしをつくり、両手首を内側に曲げて、両ひじを曲げます。そのまま、両腕は胸にしまいこむようにします。図のように身体をできる限り小さく丸めて、力をぐっと入れます。そして、ぱっと力を抜いて元の弛緩状態の姿勢に戻ります。それから、ゆっくり自由な方法で起き上がってください。

 次は、左右を逆にしてムドラーを行ってください。左右を1セットにして行うようにしてください。

 マハー・ムドラーは特にクンダリニーを覚醒しやすくする行法ですが、危険な面もあるため注意事項は必ず守ってください。保息の途中で首のバンダを緩めたり、三つのバンダを外す順番を誤ったりしないように気をつけてください。誤って首のバンダを緩めてしまうと失神などの危険性もあります。悪くすると意識障害や死の可能性もあるのです。一回ムドラーが終わったらシャヴァ・アーサナを十分にとり、身体を休めてください。クンダリーニは生半可のことでは覚醒しないということをよく念頭において実践してください。

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真我への道 追体験と実体験について 

(2012/04/14)

 私たちが耳にする目にする情報は、そのほとんどが第三者の経験に基づくものです。例えば「地球は丸い」ということは誰もが知っていることですが、実際に宇宙から地球を眺め、それを実感したことのある人はごくわずかです。にもかかわらず、誰もが「地球は丸い」と信じ、それを前提に思考し言葉を語ります。

 このように自分自身で経験していないことや自分自身で証明できないことに基づいた情報ばかりが、この社会には蔓延しています。誰かの体験談や証明したことを直接耳にしたり、テレビやネットで映像を見たり、本や雑誌で読んだりすることで、まるで自分が実際にそれを経験したかのように追体験しているのです。そして、それらから得た知識を自己の経験であるかのように、さらに第三者に向けて言葉や本にして発信しています。私たちが接する情報の多くは実体験の伴わない情報であり、追体験によるものに過ぎないといえます。

 しかし、真理の修行によって得た経験というものは違います。誰かの追体験に頼ることない、純粋に自分自身の体験です。あなたが修行し自己の魂を向上させていく過程で見ることになる、さまざまな色や光、あるいは瞑想中聴こえてくるであろう神秘的な音や誰かの声、見たこともない何処かのヴィジョン…。それらは、すべてあなただけの経験です。あなたにしか獲得できない、貴重な経験であると思います。あなたが真理の修行の道を選択するならば、その道程には必ずそういった、あなただけの素晴らしい自己体験が待っていることでしょう。

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真我への道 メンタムのような・・・ 

(2012/04/13)

 真理の修行をまじめに実践していると、身体に少し異変を感じるようになります。誰もがそう感じると断言は出来ませんが、きちんと実践していれば大抵の人がそれを実感されることでしょう。

 まず、身体全体の表面が、皮膚にメンソレータムを塗った時のようにスースーします。これはイダー気道・ピンガラ気道という、全身のナーディーの中心にある二つの管の浄化が始まったためです。クンダリーニ覚醒に至る準備段階に入ったということを表しています。

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真我への道 好き嫌いについて 

(2012/04/12)

 例えば、聖者がいらっしゃっったとして、その方が車を必要とされていたとしましょう。その時あてがわれた車が高級外国車であるからといって、その聖者が喜ばれるでしょうか。また中古車であるからといって、その聖者が落胆されるでしょうか。その方が真の聖者であるならば、高級な外車の場合であっても国産中型車の場合であっても小型車であっても軽自動車であっても、どんな車をあてがわれようとも一切頓着しないはずです。どんな車であれ、車が与えられたことに感謝することでしょう。

 聖者とは、一切の執着から離れた存在です。何事に対しても執着が生じないため、渇愛が生まれません。渇愛が生まれないということは、たとえ何かが欠乏したとしても、それによって苦しむことがないということです。普通の人はそうではありませんね。自分の持ちものに執着して、それが壊れたり無くしたりすれば、悲しんだり苦しんだりします。

 聖者がどんな車に対しても執着しないというのは、つまり無頓着な状態にあるからです。無頓着な状態であるということは、聖者には「好き嫌い」という好みが存在しないということです。「好き嫌い」を超え、すべてのものを平等に見つめているのです。聖者とは、この世界を平等に見つめる力を持っている方です。

「好き嫌い」があるということは、未だこの現象世界に捕らわれていることを表しています。ですから、本当の聖者というものは決して自分の好みなどにこだわることがないのです。

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真我への道 神社祈願の仕度

(2012/04/11)

 以前にもお話しましたが、十数年前私は全国の主要神社に御参りをして「すべての魂が済度されるように。そのためのお手伝いをしてくださいますように」と神社に祀られている神様に祈願していました。その際近畿地方を回っていた時は乗用車を使っていました。その際、後部座席の後ろを仮の祭壇に見立て供物やお札を奉げていました。これがその時の写真です。

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真我への道 意識上昇のプロセス(2)

(2012/04/10)

 前回お話しましたように、日々真理のデータを心に取り込んでいっても一定量を満たすまでは、そのデータは現象化しません。しかし、ある時それまで蓄積させたデータが結実する瞬間がやってきます。蓄積させた良きデータがその一定量を超えれば、意識が総転移し飛躍的に意識上昇ます。こういった総転移を繰り返し、階段を一段ずつ上るように意識は上昇していきます。

 これは、自己の意識向上の方向に総転移する場合だけに限られません。正反対の方向であっても、同じようなプロセスが待ち受けています。

 日々煩悩を肯定する、エゴ本位のデータを自己の意識に取り込んでいっても、初めは現象に何の変化もありません。しかし、それは徐々に自己の深い意識に蓄積されていきます。そして心にため込んだ、煩悩的なデータが一定量を満たすと、それまで蓄えてきたデータが自己の意識をどっと引き下げます。鹿おどしの中の水が竹筒を傾け、そこから水が放出されるように、意識はエゴを肥大化させる方向にぐっと押し流されてしまいます。

 それまでは、エゴを満足させる煩悩的行為を為していることに対し「後ろめたい」という思いがあっても、煩悩的なデータを取り込み続けていると、あるとき急に「エゴを満足させて、何が悪いんだ。いいじゃないか」という意識にがらりと変化してしまいます。

 悪しきデータを心に蓄積させていくと、それによる意識の下降はじわじわと正比例して起こるのではありません。ある一点までは平行線をたどりますが、その一点を超えれば意識は一挙に下がります。それを繰り返して意識はどんどん下降していきます。つまり意識は階段状に下降していくのです。

 自己の苦しみ(苦)を減らすためには、喜び(楽)を減らすことが肝心であるといいます。口で言うのは簡単ですが、実際にそう思ってみても簡単に苦しみがなくなる訳ではありません。これは、取り込んだ真理のデータ量が、自己の意識をがらりと変化させるためには不十分であるためです。私たちは「苦しみから逃れたい、楽しみがもっともっと欲しい」という情報ばかりを毎日取り込んでいるわけですから、それを覆すためには相当な量の真理のデータが必要とされるはずです。

 しかし真理のデータが満ち、ひとたび意識が総転移すると、今まで楽しみを追い求めていたことであっても、それを抑えてもそれほど苦しいと感じなくなります。今まで「おいしいものをたくさん食べたい」と思っていた人でも、粗食や単調な食事でも意に介さなくなります。おいしいものが食べれなくても、苦しみに感じない意識状態になるからです。

 同じように煩悩的データが満ち意識が総転移した時には、たとえその煩悩を抑えようと思っても抑えきれなくなってしまう、そんな現象が訪れることでしょう。

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真我への道 意識上昇のプロセス(1)

(2012/04/08)

 鹿(しし)おどしをご存知でしょうか。もともとは鹿やいのししを遠ざけるために考案された実用的な装置だったのでしょうが、私たちが知っているのは水の流れを利用して竹筒が石を打つ音を高らかに響き渡らせて風流を感じさせるという、日本庭園などの装飾のひとつですね。鹿おどしは、シーソーのように竹筒の中央を支点とし竹筒の片方の先は斜めに切り落とされています。そこに水を注ぎ、水が満杯になるとその重みで竹筒が傾き、水がこぼれて筒の内部が空になります。再び竹筒が元の傾きに戻る時にもう一方の先端が石を叩き、“カコーン”という音をさせる仕組みになっています。

 なぜこのような話をしたか、それはこの鹿おどしの仕組みが、意識上昇のプロセスとよく似ているからです。私たちが真理の修行に励んで、例えば音読修行を日々行っていき真理のデータを取り込んでいったとしましょう。しかし、意識の変化はすぐには現れません。少し修行したからといって、その分の効果がすぐ出るわけではないのです。

 修行上の効果は、鹿おどしの竹筒の水が満水に達した時に突然竹筒が傾き水が流れ出すように、取り込んだデータが一定量満たした瞬間に顕現します。このときを境に意識は総転移します。それまでは竹筒に一筋の水が注ぎ込まれている期間であり、あまり大きな意識変化は訪れません。修行を始めた人もしばらくは、意識上昇を折れ線グラフで表したら、ほぼ平行線をたどっているはずです。

 しかし、ここで耐えて音読修行を続けていけば、鹿おどしの竹筒に水が貯まるように、あるとき放水の時、つまり意識の総転移の時が必ず訪れます。そのときこそ蓄積されたデータは多大なエネルギーを生み、その力によって自己の煩悩に打ち勝つことが出来るのです。今まで捕らわれていた自己の煩悩的意識も、まるで憑き物がおちたかのようにすぅーと消失します。ですから意識が総転移をする瞬間まで、たゆまず修行を進めていってください。

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真我への道 懺悔の大切さ

(2012/04/05)

 あるところに一本の木が立っていました。太陽の光をいっぱいに浴び、若々しい青葉を茂らせ生命力に満ちあふれた、美しい木です。ある日、その木の根元に誰かが生ゴミを捨てました。次の日も次の日も、木の根元に生ゴミは捨てられ続けました。生ゴミはどんどん山積みにされ、いつしかゴミの山になってしまいました。木は生ゴミの山に埋まってしまい、わずかに枝の先端の青葉をゴミの山から覗かせているだけです。生ゴミは腐り悪臭を放っています。生き生きしていた木もそれに侵されて表皮から徐々に腐っていき、今にも枯れてしまいそうです。

 この話の中の木というのは私たちの心です。では、生ゴミは何を例えているのでしょうか。生ゴミとは、私たちの「現象に対する捕らわれ」を例えています。私たちは人生において無数の現象に捕らわれ続けており、その結果、深い意識にそれが山積みになっています。ちょうど、生ゴミが山積みにされている状態です。生ゴミをためるように現象に対する捕らわれを放っておき蓄積させていくと、生ゴミも心もどんどん腐っていきます。

 この生ゴミを取り除く方法、それは懺悔です。現象に捕らわれエゴを肥大化させているのにもかかわらずそれを懺悔をしないで放っておくと、生ゴミは腐り続けていきます。心も腐っていきます。しかし、自分が現象に捕らわれたことをひとつ懺悔をすれば、自分の心の「現象に対する捕らわれ」をひとつ取り除くことができます。懺悔によって、ひとつずつ腐った生ゴミを取り除いていかなくてはいけません。腐った生ゴミを少しずつ取り除いていくことで、私たちの本来の心の姿である木は、その美しい姿を取り戻していきます。

 そして何回も何回も懺悔を繰り返すことによって、私たちは、とうに忘れて果てていた遠い過去の記憶さえも鮮明に思い出すようになります。なぜなら、「現象への捕らわれ」というものが、過去の経験というものをぼやかしているからです。それを取り除けば、過去の記憶もはっきりよみがえるのです。

 この「現象への捕らわれ」である生ゴミを、ここでは仮に悪業に限って申し上げましょう。現象に捕らわれ自己を守るために悪業を積み重ねれば、その悪業は蓄積していきます。それを懺悔をせずにいると、生ゴミのようには腐っていきます。心も徐々に腐り、悪業を犯してもそれを悪業と認められない心になってしまいます。ですから、芯まで腐り切らないうちに早めに悪業はどんどんと懺悔をしていくことが必要でしょう。

 本来は生ゴミが捨てられたら、すぐさま片付けるべきです。同じように自分が悪業を犯したことを悟ったら、すぐに懺悔すべきなのです。そのようにため込むことなく幾度も懺悔していくうちに、より心が軽快になり、初めは慙愧の念がなくとも自然に慙愧の念が生じてきます。そして真理の修行は飛躍的に進むことになるのです。

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真我への道 身を飾らない

(2012/04/01)

 真理の修行を行う者は、美しい衣服や装身具で我が身を飾り立てることに集中する必要はありません。また、顔に化粧を施すことに意識を集中させることも不要です。それらは修行者にとって集中しなくても構わないことなのです。

 なぜなら、真理の実践をしていけば確実に自己の容姿は変化していくからです。血色が良くなり、聡明な顔つきになります。若返って、実年齢よりも若く見えるようになります。このような変化は心にも表れ、心身ともに軽快になるでしょう。

 もし、あなたが真理の実践を行っていく中で外見的な虚飾を取り払っていったならば、自己の心の表れである、自分の周りの友人・知人の心も変化してきます。彼らも「あなたが着飾ろうが、簡素な服を身にまとっていようが気にならない」という意識になるのです。よって、着飾ることの意味そのものがなくなっていきます。自己の心が変化すれば、その鏡である、周囲の環境も変化するということです。

 逆に、あなたが外見に捕らわれ身を飾ることに集中し続ければ、この世界において自己の煩悩は増大し、真理の修行はどんどんおろそかになっていくことでしょう。

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真我への道 心の器を拡げる

(2012/03/30)

 少し間が空いてしまったのですが、以前にお話しましたバケツの例え話について、今回は少し展開させてみようと思います。2つのバケツがあって、1つにはきれいな水が、もう1つには濁った水が入っており、その2つの水を混ぜ合わせて水質の変化を観るという、話でした。きれいな水が修行者の心、もしくはエネルギー状態であり、濁った水というのは修行していない一般の人の心、現象への捕らわれが強い心の状態(エネルギー状態)を表しています。一般の人々の心の穢れを浄化するためには、まず自己のスシュムナー管であるところの、自分のバケツの水をきれいにして透明度を高めていく必要があるというところまで、前回はお話をしました。

 今回は、より効果的に他者の心の穢れ(他のバケツの水の汚れ)をきれいにしていく方法についてです。それはなんなのか、お分かりになるでしょうか。それは実に簡単な話です。きれいな水の量を増やせばいいのです。再びバケツを例に

@2つあったバケツは5リットルずつしか入らない、小さなバケツだったとしましょう。それぞれに透明な水と濁った水が入っていたとします。その二つの水を混ぜ合わせます。

A次に、2つのバケツのうちの一方を10リットル入る大きなバケツに取り替えて、きれいな透明な水をいっぱいまで入れます。そして、もう一方は5リットル用の小さなバケツをそのまま使って濁った水をいっぱいまで入れるとします。同じように、2つのバケツの水を混ぜ合わせます。

B最後に15リットル入る、さらに大きなバケツにきれいな透明な水を入れ、もう片方は5リットルの小さなバケツに濁った水を入れます。これら2つのバケツを混ぜ合わせます。

 混ぜ合わせて出来た、3つ水の透明度を比べたら、@で出来た水よりもAの水のほうがきれいです。当然Bの水が最も透明に近い水になるはずですね。これと同じことが、私たちの魂の器にもいえるのです。自分と関わる、すべての他者の心を煩悩という穢れから解き放ちより清らかでより自由なものにしたいと考えるならば、小さなバケツからより大きなバケツに取り替えるように、自己の心の器を拡げていかなくてはいけません。

では、自己の心の器をどのように拡げたら良いのでしょうか。それは、他者と交わることで自然と広がっていきます。自己のバケツに他者のバケツの水を取り込むことによって、バケツは横に膨張していくのです。

 修行者は自己の心が穢れることを恐れずに、自己の心に他者の心の穢れを取り込んでいけば、心は大きく拡がっていきます。そして自己に取り込んだ穢れを、修行することで昇華することができれば、大きな心の器にきれいに澄んだエネルギーをたたえることになるのです。

心の器とは、その人のスシュムナー管の広がりを指します。スシュムナー管の内径が太いほうが、そこにたくさんのエネルギーを通すことができ、他者と交わった時たくさんのエネルギーを他者に与えることが出来るのです。

 それには、自己のスシュムナー管をどんどん拡張させていきます。そして、広がった中央菅により多くの穢れなきエネルギーを通すのです。そうすれば、他のバケツの濁った水であるところの(浄化の修行をしていない)他者の心、エネルギーの穢れと自己のエネルギーが交わり合っても、他者の穢れはより薄まり、より心は透明になります。自己のスシュムナー管を少しでも拡張できれば、他者と関わりを持った場合であっても他者の意識をより引き上げることが可能になるのです。

 ゆえに菩薩の修行を志す者は、自己のスシュムナー管にやってきた穢れの昇華を大前提として、自己のスシュムナー管を拡げていくことを意識していかなくてはいけないのです。

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真我への道 睡眠について

(2012/03/28)

 真理の修行者は、柔らかな寝具に寝るべきではありません。それはどうしてかといいますと、心地よい柔らかな寝具で眠ると、朝起きる時間になっても「もっと寝ていたい」となかなか布団から出られず惰眠を貪ってしまうからです。ですから、敷布団などはいわゆるせんべい布団でちょうどいいぐらいなのです。硬いせんべい布団で寝ていると、腰が痛くなって「さっさと起きたい」と感じます。結果、短い睡眠で済みます。

 本来は修行者は床の上で寝てもいいくらいなのですが(実際に上座部仏教ではそのように言われています)、日本の気候では床に直接寝れば身体を冷やしてしまいます。修行者にとって、身体を冷やすことは禁物です。汗を吸い取り、かつ身体を冷やさない程度のものを床や畳に敷いて休むのが良いかと思います。私は、約60センチ幅で長さ180センチくらいの銀マットを敷いて寝袋で寝るのを勧めています。ことわざに「起きて半畳寝て一畳」とありますが、寝るのに一畳もいりません。修行者は狭いところでも休めるようでなくてはいけません。2/3畳もあれば十分かと思います。

このように、修行者は眠る時であっても安楽を求めてはいけないのです。

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真我への道 女性修行者について

(2012/03/26)

 真理の実践は,元来男性本位の修行です。お釈迦様の教団も、当初は女性の出家を認めていませんでした。女性は一般的に男性に比べ、そのカルマが解脱・悟りに不向きなためです。女性の方には申し訳ないのですが、カルマを見たならば、これははっきりしています。しかし、もちろん女性が解脱・悟りを目指すのが無駄なわけではありません。すべての魂は解脱・悟りに至ることが最終目的地として設定されているのですから、当然女性もそこに向っていかなくてはいけません。

 ただ、女性が修行をするにあたって、かなりの障害があるのは確かです。女性には月に数日間の月経があります。月経の期間とその前後の期間、女性は三悪趣のカルマが増大してしまうのです。例えば、嫌悪が強くなったり、色々な食べ物を食べてみたくなったり、必要以上にたくさん食べたり、衝動買いに走ったり、あるいは性欲が増大したり、眠気が増したりします。

 月経は、アパーナ気の働きによります。アパーナ気が活性化することによって意識が下降し、煩悩的になるのです。これらの諸現象を克服するには、平素よりずっと下がっているエネルギーを修行によって上昇させる必要があるのです。その修行によってはアパーナ気を著しく上昇させ、閉経前の女性であっても月経を完全に止めてしまうところまでに至ります。このようにして、女性も男性修行者に引けを取らない修行者になり、一様に解脱・悟りを目指していくのです。

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真我への道 アシュヴィニ・ムドラー

(2012/03/24)

 思い立ったらすぐにエネルギーを上昇させる、即効性のある簡単な技法をご紹介しようと思います。アシュヴィニ・ムドラーというヨガの行法です。

 姿勢は立っていても座っていても、どちらでも構いません。まず肛門をぐっと引き締めて、そのまま上に持ち上げるようにします。そして、すぐに力を抜きます。これをおよそ一秒間隔で繰り返し行います。肛門を引き締めている時間は一秒未満です。これを自分のペースで行います。回数も特に決まっていません。

 私がこのアシュヴィニ・ムドラーを教えた、ある人はこれを数回行うだけで軽い吐き気と軽い頭痛がするそうです。上昇のエネルギーとともに自己の穢れが上昇するために、このような症状が現れるのです。

 アシュヴィニ・ムドラーはとても手軽に出来ますし、場所を選びません。街中でも、職場でも非常にわずかな時間で出来ますので、意識が低下してきたと感じたときエネルギーが低下したと感じたとき、こまめに行うのが良いでしょう。

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真我への道 三つのグナ

(2012/03/20)

 この世界は三つのグナから形成されています。このグナ(自性)とはもともと真我に内在していたものであり、この世を構成している、原点のエネルギーです。三つのグナのうちのひとつはタマス、これは暗性優位であり、ふたつめのラジャスは動性優位であり、最後のサットヴァは善性優位であると言うことが出来ます。

 さらにいえば、自己の立場からこの幻影球体世界の中の現象を見てみますと、現象のうちの悪業の部分を指してタマスともいえます。悪業を積むことによって、タマスが増大するのです。反対に、善業あるいは功徳を積むことによってサットヴァが増大します。

 ではラジャス、動性とは一体何のことでしょうか。読んで字の如く「動き」つまり「行為」といえます。「行為」とは、カルマの原因と結果を表しているのです。現象に私たちが捕らわれており、そのためにカルマの原因・結果が変化することを表しています。

 私たちを取り巻く現象すべては、この三つの根本的自性から成り立っているのです。

 そして、私たちの身体の中央をはしる三つの管、そのうちのイダー気道に対応するのがタマス、ピンガラ気道に対応するのがラジャス、スシュムナー気道にはサットヴァが対応しています。このように、三つのグナが三管をそれぞれ象徴しています。

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真我への道 意識の連動

(2012/03/19)

 私たちが通常「自分の意識」だと思っている意識は、すべて自分固有のものとは限りません。なぜなら、私達の意識はいつも他者と連動しあっているからです。意識の連動のことを説明する場合、きれいな水と濁った水という二種類の水をイメージしていただければいいかと思います。

 例えば、ここに2つの、小さなバケツが並んでいて、その左右のバケツのどちらにも濁った水が入っていたとします。そして、もうひとつ、空っぽの大きなバケツがあったとします。この大きなバケツに、先ほどの小さなバケツの中の水、濁った水を2つとも入れ混ぜ合わせます。すると、どうでしょうか。水質になにか変化はあるでしょうか。水は濁ったままで水質に変化はなく、量が増えただけですね。

 では、今度は2つの小さなバケツの左右それぞれに、きれいな透明な水と濁った水の二種類の水を入れます。同じように、大きなバケツの中で二種類の水を混ぜ合わせたとします。今度は、水質が変化しますね。二種類の水を混ぜ合わせたことで透明だったきれいな水はやや濁ったといえますし、濁った水は透明度が増し、以前よりきれいになったと言えますね。

 ここでの濁った水というのは、煩悩に捕らわれた、一般の人の心の状態の例えです。また、透明なきれいな水とは、その煩悩を修行によってどんどん薄くしていった修行者の心の状態を例えています。水はその人の心の状態であり、そのままその人のエネルギー状態であると言い換えられます。他者と関わることで他者と意識が連動し、自己の心と他者の心の状態は交じり合い、均一化するのです。

 2つの濁った水を混ぜ合わせても、何の変化も見られません。しかし、どちらか一方が透明な水であったならば、そこに変化が起こります。修行によって霊的に研ぎ澄まされてくると、その変化がはっきりとわかるようになります。私たちは、普段からこのような意識の連動を常時行っているのです。しかし、浄化されていないためにその変化に気が付かないでいるだけなのです。

 濁った水をきれいな水にしていくには修行によってしかありません。たとえ、どんなに濁った水であろうと、修行によって必ず純粋な水と濁りの原因である穢れとに分けて、穢れだけを取り除くことが出来ます。私たちが「自分の心(性格)はこうなんだ」と思い込んでいるのは、私達の、本来の心の姿ではないのです。私達の心は本来もっともっと純粋なものなのです。そのような心の本来の姿に戻すためには、自己のスシュムナー管であるバケツの中の水をせっせと浄化して、きれいにしていく作業を地道にやっていくだけなのです。

 自分のバケツをきれいにしたらまた他者と交わり、他者の濁った水を自己のバケツに取り込みます。それを再び修行によって浄化していきます。それにより、自分だけではなく、自己の周りの他者をも浄化していくことができるのです。これこそ他のための修行であり、菩薩行というものなのです。

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真我への道 カルマの移動

(2012/03/18)

 人はそれぞれカルマというものを背負っています。しかし、そのカルマはその人に固定されたものではありません。カルマの原因を作る側とそのカルマの果報を受け取る側、カルマには2つの側面があります。

 例えば、Aという人には「悪口を言う」という嫌悪のカルマがあったとします。そのカルマによって、Bという人に対し悪口を言ったとしましょう。これは、Aにとって自己のカルマの現象化ということです。AがBの悪口を言ったことにより、Aはその将来において「誰かから悪口を言われる」というカルマを作ったことになります。

 このようにカルマは移動していくのです。この地球上に様々な内容のカルマが存在し、無数のカルマの移動が行われています。

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真我への道 特別攻撃隊「震洋」とは

(2012/03/17)

特攻艇「震洋」 今日は申し訳ありませんが、真理とは関係のないお話をさせていただこうと思います。私の父の話です。

 私の父は特別攻撃隊、特攻の生き残りでした。父は少年兵として海軍を志願し、予科練(海軍飛行予科練習生)となりました。徴収令状が来る二年前のことでした。予科練では研修のため満州にも行ったそうです。

 太平洋戦争の末期にもなると戦局は悪化し、ご存知のように日本は最悪の事態に突入していました。父が志願した時は、すでに特攻隊が編成されようとしているときでした。特攻とは、生きて帰還することのない戦法であり、生き残ったのは天候不順・機体の不具合など止むを得ない事情により戻った、ほんの一握りの人々だけでした。最後には、まともな戦闘機もなくなり練習機で出撃する始末だったそうです。父は、その数少ない生還者のひとりだったと聞かされていました。 

 しかし、私が40歳くらいの時にふと思ったのです。「親父は本当に飛行機の特別攻撃隊の一員だったのだろうか」と。ごく一握りの生還者の中に父が含まれていたというのは、直感的に何となく違うような気がしたのです。そのあと機会があって父は問うたところ、父は「特別攻撃隊にはちがいないのだが、自分は震洋というボート特攻隊の搭乗員だった」と答えてくれました。

 ほとんど知られていないのですが、特攻といってもゼロ戦など飛行機による特攻ではなく、ボートによる、しかも材料不足のためにベニヤ板で作られた木製モーターボートによる、水上特別攻撃隊というものが存在していました。そのボートの先端に信管と、それによって起爆する250キロの爆薬を搭載し、敵の艦船の横っ腹に体当たりするのです。はじめ、この無謀な作戦は敵の意表をつき、アメリカの艦船を沈めることに成功したそうです。その後、敵側のボート特攻対策が編み出され、特攻ボートが近づいてくると丸太を海に落とし、海面に浮かんだ丸太によってボートが近づけないようにしたそうです。そして行き場を失ったボートは敵の一斉射撃を受けました。ベニヤ製のボートではひとたまりもなかったことでしょう。このボート特攻で日本側の死者は2500人(基地隊員を含む)にのぼったそうです。ボートの搭乗員の多くは、予科練を卒業したばかりの若者たちでした。

 そんな中で、私の父が生き残ったのは、父の配属が敵艦の航路から逸れていたためでした。太平洋戦争末期の沖縄戦を控え、沖縄近くの小さな島々にはレーダーを受け持つ兵士と特攻ボートの搭乗員が配備されたそうです。そして、敵艦が近づくのをレーダーで確認すると、 ボート特攻は出撃していったのです。敵艦の航路となった太平洋側の島々に配備された特攻ボートは全滅だったそうです。私の父は台湾側の小さな島に配属されたため、実際にボートで出撃することはなく、その島で終戦を迎えたそうです。

 特別攻撃隊の生還者は「特攻くずれ」と蔑まれる風潮が、戦後の日本にはありました。臆病者のそしりを受け、他の復員した人々には向けられることのない、世間の冷たい眼差しに晒されたのでした。そのような中で、死んでいった仲間への申し訳なさを背負い、生き残った父やその仲間たちはどのような思いで生きていたのでしょう。

 日本の人々にとって特攻といえばゼロ戦であり、国も特攻で命を落とした兵士たちがどのように戦死したか詳細については明らかにすることはありませんでした。父も、自分がボート特攻の搭乗員であったことを家族にも伏せていました。おそらく私が聞くことがなければ、父は死ぬまで誰にも真実を語らなかったでしょう。

 多くの予科生と同じように、父もまた飛行機乗りになることを志していたのに違いないのです。それなのに、国のために命を捧げてくれと強いられ、おもちゃに毛の生えたようなベニヤ製ボートをあてがわれたのでした。自分の命を賭すのが、拳で穴の空くようなベニヤのボートではどんなに悔しかったことかと思います。それでも父は実際に出撃することはなかったわけですが、実際にそんなボートに乗って特攻し命を散らした英霊たちに、私は深く頭を垂れる思いでいます。そして彼らが自分の若い命を賭けてこの国を護らんとしたことに、自分のこれからを重ね合わせるのです。

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 真我への道 四無量心について

(2012/03/14)

 四無量心とは4種類の、計り知れないほど大きな心をいいます。その四種類とは、以下の通りです。

慈のこころ:慈愛(慈しみ)の心。
真理を知らず迷妄に陥っている衆生を慈しみ、自分の功徳をすべての衆生に分け与えようとする意識。

悲のこころ:悲哀(哀れみ)の心。
自己の苦しみに没入することにより真理に気付かない衆生に対して、哀れみの思いを抱き、その苦しみを引き受けようとする意識。

喜のこころ:他者の成長を喜ぶ心(称賛)
真理を実践している菩薩たちの行為を称賛する意識。そうではない衆生に対しても、自己の心の現われとして見ることにより、自分の菩薩行を応援してくれていると認識し、彼らに内在する仏性を喜び称賛する意識。

捨のこころ:執着しない心
外側の現象に対し、いろいろと執着しているものを手放し捨て去ることにより、自分固有の好き嫌いの意識をなくし、すべての事象や他者の立場を理解し、すべてを平等に見なす心。さらには、「正誤」や「善悪」といった観念にさえも無頓着になり、真なる善の集積を培っていくこと。

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真我への道 カルマの三つの要素

(2012/03/13)

  カルマについてご存知の方も多いかと思いますが、念のためここで申し上げておこうと思います。カルマとは「行為」のことであり、仏教用語では業(ごう)ともいいます。そして、カルマの法則とは「原因と結果の法則」です。またの名を「因果の法則」、または「因果律」といいます。カルマは「原因の業」と「結果の業」に分かれ、この「結果の業」を特に「果報」とも呼びます。原因と結果、為すものと為されるもの、これら両方をあわせてカルマと呼んでいます。もちろん、その片方だけでもカルマといっています。

 カルマは、身(しん)・口(くう)・意(い)という三つの要素から成り立っています。身は身体行為、口は言葉、意は意識または心を指します。

 カルマの法則とは、「自己が何か行為した」ということを原因として、条件が重なったときにその果報、つまり結果が訪れることです。ですので、カルマが三つの要素から成り立っているとは、身体を使って行為すること、口によって語る言葉、心に思ったことのすべてが原因となり、その果報として自分の前に現象として現れるということです。私たちは身体行為だけがカルマになるのだと思いがちですが、本当はそうではないということです。自分の口から出る言葉のひとつひとつ、心に浮かぶ一瞬の思念のひとつひとつがカルマとなり、自己に返ってくるのです。

 そのカルマの原因に対して結果であるところの果報が実際に自己に返ってくる前に、まず最初に自己のナーディー、スシュムナー管にそのカルマにまつわるエネルギーが生じてきます。そして、すぐに意識のカルマへと降りてきます。例えば、嫌悪のエネルギーがスシュムナー管に現れ出てきたならば、その後すぐに「相手を嫌悪する」という意識が浮上してきます。それを放っておくと、次に口のカルマ、最後に身のカルマへ降りてきます。つまり「相手のことを嫌だ」という思いが生じ、実際に「悪口を言う」などの口のカルマとなり、最後に「相手を傷付ける」「相手に嫌がらせをする」などに実際の行為になるのです。

 カルマが意識に降りてきた時点で、すでに私たちの心は、そのカルマが表わしている穢れにもう捕らわれてしまった状態になっているのです。それは「新たな意識のカルマを積んだ」ということです。ですから、新たなカルマを生まないためには、自己のナーディー、スシュムナー管に穢れが生じてきた段階で、意識のカルマに自己の心を置くことなく、早くスシュムナー管内の穢れをクンダリニーの炎によって上昇させなくてはいけないのです。

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真我への道 音と意識

(2012/03/12)

 自動車のモーター音を長時間聴き続けたり、工場にあるような大きなモーター音を聞き続けたりすることによって、耳鳴りがしてきます。この耳鳴りはブゥーンといった低周波として聴こえ、聴く人を非常に不快な気持ちにさせます。

 また、霊的センスが磨かれてくると、ムーラダーラ・チャクラの穢れの強い人、つまり嫌悪の強い人が大工仕事をしたとするならば、その人が金づちをたたく音が、モーター音と同じように強い低周波で耳につきまとうことになるでしょう。かなづちで釘を打つ時の音にさえ、その人の意識は反映されるのです。

 このように、モーター音や、嫌悪の強い人が出すかなづちの大きな音などは、私達のマナ識に影響し不快感を与えるのです。そのような低音を聴き続ければ、意識も下降してしまいます。そういった音がいつも鳴り響いているような職場におられる方は、出来ましたらそういった音をなるべく聴かないで済むような工夫をしていただけたらと思います。

 話は少し変わりますが、アパーナ気が強い人は、普通の人以上にドスッ、ドスッと大きな足音をたてて歩いている場合が多いです。床を歩いているときも、床に踵から足を下ろすためにドンッドンッと音がします。アパーナ気が上昇し始めると、自然と静かに歩けるようになります。試しに、ご自分の足音を意識して聞いてみてはいかがでしょうか。

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真我への道 私の好きなもの鉄砲百合

(2012/03/11)

今日は、自分のことを少し書かせていただこうと思います。他愛のない話ですので、どうぞ肩の力を抜いてお読みください。

 私は、スイカが大好きです。スイカの何が好きかといいますと、スイカをカットした時の形が好きなのです。縦に六等分もしくは八等分して、くし型をさらに真ん中から放射状に切った楔形(くさびがた)です。先端のとんがったピラミッドのような形が大好きです。

 マスクメロンも大好きです。その理由は、マスクメロンの皮にはざらざらした、細かいひび割れたような模様があるからです。これは、ひとつの大きな玉(魂)であるメロンの中に無数の、小さな魂がひしめき合って存在しているイメージだからです。小さな魂が無数に寄り集まって、ひとつの大きな魂を形成しているように見えるのです。
 
マスクメロンそれから、バナナも好きです。これは、バナナの皮を四つに、半分までむいた姿が真我の姿に似ているからです。心素に包まれた真我、その心素が裂けて中の真我があらわになった姿です。

 私は、裸電球が好きです。バナナと同じように真我の姿に似ているからです。

 鉄砲百合(てっぽうゆり)は、私の好きな花です。それは開く前の鉄砲百合の姿が、心素に包まれた真我に似ているからです。つまり一本独鈷のようなものですね。また花が開いた時の姿も、心素が開いた時の真我の姿によく似ているのです。

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真我への道 慈しみについて

(2012/03/10)

 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならなぬ。

 足りることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感覚が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々(もろもろ)の(ひとの)家で貪ることがない。

 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

 いかなる生物(いきもの)生類(しょうるい)であっても、怯えているものでも強豪なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 あたかも、母が己(おの)が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生きるものどもに対しても、無量の(いつくしみの)こころを起すべし。

 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起すべし。

 上に、下に、また横に障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、伏しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりたもて。

 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
諸々の邪(よこし)ま見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具(そな)えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母体に宿ることがないであろう。  

 (中村 元『ブッダのことば』岩波文庫より)

 

真我への道 世界の仕組み

(2012/03/10)

 「私は、この世界の仕組みを知りたい」といい、世界中を旅している人がいました。「私は世界中を旅して、この世界の実相を解き明したい」と。この話を聞いて、私は「なんと哀れなんだろう」と感じました。なぜなら、この世界の仕組みを解き明かすために、いくら世界中をさすらっても何も見つけることが出来ないからです。ましてや、この宇宙の根本原理に触れることなどありえないでしょう。もしこの世界の仕組みを知ろうとするならば、心を外側に向けても仕様がないのです。

 私たちは自分の内に心を向けることで、この世界の根本原理である真理に近づくことが出来ます。自己の心に現れる、様々な想念、イメージ、意志、観念、これらを見つめその仕組みをよく考え、そして自分自身に功徳があれば必ず真理というものに気づくはずです。

 その人はそれに気付かず世界中を旅しているのです。なんと哀れなことでしょうか。「この世界の仕組みを知りたい」という探求は確かに素晴らしいものです。しかし、旅する中で彼女が目にするもの知りうるものは、すべて相対的なものでしかありません。いかに、世界中の国々を訪れ見聞を広めても、新たな観念、新たな捕らわれを作っているに過ぎません。それに対し、真理は絶対的なものです。絶対とは何なのか、絶対的なものとは何か、それをまず考え、そこから実際に真理の探究をしていけばよいのではないでしょうか。

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真我への道 経行(きんひん)について

(2012/03/09)

 今日は、経行という修行法をご紹介したいと思います。日本で経行といいますと、座禅と座禅の間の歩行と考えられているようですが、より有効な修行法としての経行はかなり違ったものです。経行の本来の姿は歩く瞑想法というべきものです。

 では、実際の方法ですが、歩き出すときに自分の手足がどのような状態なのか確認しながら、それでいて意識し過ぎてぎこちなくなることのないように自然に歩き出します。そして視線は自分の2,3メートル先に固定し、わき見などをしないようにもくもくと歩くのです。景色に眼を奪われたりしていては瞑想になりません。「今は右足が前に出ている、左足は後ろで地面を蹴っている、左手が前に出ていて、右手は後方にある、目線は2,3メートル先にある。今度は左足が前に出ている・・・」というように意識し、それに集中して歩きます。次々に現れてくる潜在意識に流されないようにします。歩くスピードもゆったりと歩くのではなく、競歩とまではいかなくとも少し早歩きをするようにします。

 これは、荒行の千日回峰とちょうど同じ原理です。千日回峰とは、行者が日に何十キロも険しい山道やけもの道をものすごいスピードで駆け抜ける荒行です。煩悩を乗り越えていくことで神通力が身についてくるのですが、これはその第一番目の神足通が芽生え始めたことによります。このような力が身に付きはじめると、超人的な速さで山野を走破することが可能になります。もちろん平地にあっても同様に、他の人が歩くスピードとは比較にならないほどの、まるで地に足が着いていないのでないかと思われるほどのスピードで歩くことが出来るようになるのです。

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3つの結節真我への道 三つの結節

(2012/03/08)

 

 クンダリーニが覚醒するに先立って、後部の気道をアパーナ気が上昇し始めます。この気道は背骨と並行して走っています。クンダリーニ覚醒後も、このアパーナ気の上昇は続きます。

 この気道には節が三つ存在しています。これを結節(けっせつ)といい、マニプーラ・チャクラ(へそ)の後部にあるのをブラフマ結節、アナハタ・チャクラ(胸)の後部にあるのをビシュヌ結節、アージニャー・チャクラ(眉間)の後部にあるのをシヴァ結節と呼びます。ヴィシュヌ結節は鎖骨の裏に存在しているといわれることもありますが、私の経験ではヴィシュヌ結節はアナハタ・チャクラの裏側、つまり胸の背中側にあるようです。

 この結節は、チャクラの穢れとは異なり、今生自分が生まれてから現在までの間に培った「捕らわれ」によって生じます。そして、三つの結節のそれぞれは、身・口・意のカルマの三つに対応しています。下から順番にブラフマ結節は身のカルマに、ヴィシュヌ結節は意識のカルマに、シヴァ結節は口のカルマに対応しているのです。

 このような結節があると、当然アパーナ気はせき止められ上昇することが出来ません。そして感じる人、感じない人さまざまではありますが、アパーナ気が上昇することで結節の部分に痛みが生じます。

 ですから、この背骨付近の気道をアパーナ気が上昇する際、現象としてはいわゆる「カルマくだり(苦しみのカルマの現象化の意)」が待っています。つまり、自己の積んだカルマに対しての果報がやってくるのです。このようなカルマくだりを経験することで、三つの結節は徐々に開いて、アパーナ気を滞りなく上昇させることが出来るようになるのです。

 しかし、このようなカルマくだりを待たずに、自己の身・口・意の行為に対して徹底的に懺悔を行っていけば、カルマくだりを経験することなく結節を開いていくことが出来ます。結節がしっかり開くと、アパーナ気が滞ることなく上昇していきます。

 このように三つの結節は、カルマがくだる前に、出来るだけ懺悔によって結節を開いていくのが修行上よいかと思います。

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真我への道 カルマの交換と潜在意識のデータ

(2012/03/06)

 クンダリーニが覚醒すると、そのエネルギーによって身体や心が安定してきます。しかし、自分の部屋など一人でいるときはそのようにエネルギー状態が良好で安定した状態にあっても、外に出て他者と交わればその状態はもろくも崩れます。他者とカルマを交換することによって、心は不安定になり身体は疲弊しフラフラ、という状態になってしまうのです。

 たとえこのような状態になったとしても、クンダリーニのエネルギーはとても強いため丸一日くらい他者に会わないで一人で横になって休んでいれば、心も身体も元の安定した状態に戻ります。しかし、まったく元通りになったかといえば、決してそうではありません。

 他者とカルマを交換するということは、いうなれば相手の潜在意識のデータと自己の潜在意識のデータを交換するということなのです。つまり他者と関われば、必ず相手の持っているデータが知らないうちに自分の意識に入ってくるということです。そして、その取り入れたデータに従って自己の意識は変化します。もちろん、同様に相手にも自分の潜在意識のデータが移行し、相手の意識も変化しています。

 私たち人間は、真理に気付くまでは煩悩を肯定し、エゴのままに生きています。意識的に、無意識にいつも楽を求め苦を避けています。しかし、ニルヴァーナに至るための、真我の領域に達するための真理は、その正反対の道を説きます。それは煩悩を否定しエゴを滅していく道です。

 真理に未だ気付いていない他者と関わるということは、煩悩を肯定するデータが自分の中に入ってくるということです。せっかく真理が根付いてきても、このように煩悩を肯定するデータばかりを取り込んでいたら、どんな人も必ず煩悩的になりエゴを満たしたい衝動に駆られます。また、修行によって身に付いてきた、驚くべき神通力も弱まってしまいます。そして、いつの間にか真理から離れてしまうようになります。

 ですから、他者とのカルマ交換によって取り入れた、煩悩的を肯定するようなデータは、なるべく早く消していかなくてはいけません。そうでなければ、次に真理を知らない他者とカルマ交換したとき、すぐに心や身体の良い状態は崩れ、簡単に不安定な状態に陥ってしまいます。

 煩悩的なデータを打ち消すには、日々真理のデータを音読修行することです。毎日毎日、真理のデータに触れ、潜在意識に蓄えた煩悩的データとどんどん入れ替えていくことが求められます。音読修行にはその他にもいろいろな利点があり、非常に効果的な修行法なのです。

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真我への道 空性に至るには

(2012/03/06)

 他者から「自己に為されること」を感じ、また自分が「何かを為すこと」を感じるとき、私たちはこれらを真理の眼差しをもって見ていく必要があります。これを正見といいます。この正見をしっかり実践していくと、自分に為されることはすべて自己の積んだカルマの果報であり、そこに良いも悪いもなく、ただただカルマの果報が「自己に為されること」として生じてくるのだということがわかってきます。これを理解していくと、そこに正しい見解が生じてきます。この状態が妙観察智(みょうかんざつち)が生じてきた状態といいます。

 潜在意識の世界である、マナ識世界ではエゴが好きなものだけを蓄積させていき、そして嫌いなものを遠ざけていっています。エゴが好き嫌いを分別し、偏った、誤った観念を蓄積させているのです。この潜在意識の不平等な蓄積を修正し、エゴによる分別をなくし捕らわれを外していくと平等性智(びょうどうしょうち)が生じてきます。

 この平等性智が生じると、マナ識より深い意識であるアーラヤ識において、新たなカルマの原因と結果というデータが生じなくなり徐々に深い心が静止してくるのです。それは、ちょうど水がめの水が波立つことなく、まるで鏡のようになった状態です。これを大円鏡智(だいえんきょうち)といいます。

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真我への道 マナ識ヴィジョン

(2012/03/04)

 眼を閉じて瞑想していると、マナ識ヴィジョンというものが唐突に現れることがあります。修行が進んでくると潜在意識の穢れが少しずつ昇華されていき、マナ識(潜在意識)のビジョンが見えるようになるのです。それは漆黒の中に、少し小さめのテレビの画面ようなものとして現れます。

 しかも、その画面の右下にアナウンサーが現れて、「これは・・・の場面です」というように、そのヴィジョンの状況を解説してくれる場合もあります。あるいは、そうではなくて画面の下部にテロップが現れる場合もあります。そのときは、文字によってヴィジョンの説明がなされます。いずれにせよ、それらの解説によりヴィジョンの場面が正確に判断できるのです。もちろん、全く説明の入らないビジョンもあります。

 夢で見る映像はかなり曖昧ではっきりしていないのに比べ、マナ識ヴィジョンは曖昧さのない、きれいなカラーで彩られた、はっきりした映像として経験することが出来ます。

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真我への道 執着と空性について

(2012/03/03)

 自己の心の世界である、この幻影球体世界の中で、私たちはあらゆるものに執着しています。例えば、それは家族や恋人に対する執着、お金に対する執着、仕事に対する執着、友達に対する執着、自分の持ち物に対する執着、生きることに対する執着、はたまた敵に対する捕らわれです。そして、あらゆるものへの執着、捕らわれを自己の潜在意識に蓄積していきます。この捕らわれの要素すべてが、私たちにこの世界・社会が実在していると感じさせているのです。

 ですから、あらゆる捕らわれを外していくことにより空(くう)に至ることが出来るのです。それこそが真理の修行であり、真我の境地に近づくことです。あらゆる捕らわれを外していくことに努め、それによりあらゆる存在が空性であったということを理解し体得していくのです。

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真我への道 甘露の甘さとは

(2012/03/02)

ライフガード 十数年前、私は一人暮らしをしており順調に瞑想修行を進めていました。その頃、私は甘露についてあることに気づきました。それ以前から甘露が落ちる経験をしていたのですが、それは頭頂が冷たくなり、液体のように甘露がざーと降り注ぐというものでした。これが甘露の経験の全部だと思っていたのですが、甘露の経験とはそれだけではないことに気づいたのです。

 甘露は通称ネクターとも言いますが、「甘い露」と書きますね。しかし、それまでの私は一体、甘露のどこが甘いのかわからなったのですが、ある時いつものように甘露が落ちて来てふと気づきました。

 鼻の奥、のどの上あたりから甘いものが出てきて口いっぱいに広がっていたのです。その甘さは蜂蜜でもない、砂糖水でもない、なんともいえないほんのりとした、心地良い甘さでした。今でもあると思いますが、炭酸飲料の『ライフガード』とよく似た味をしていました。かといって全く同じかといいますと、そうでもありません。なぜなら、甘露が落ちているときに『ライフガード』を飲んでみると、甘いはずの『ライフガード』が何だか苦く感じるのです。つまり『ライフガード』以上に、甘露の甘さは強いということですね。

 ちなみに、炭酸飲料を飲むと浮腫になった足が落ち着きます。修行をしていない一般の方でも、炭酸が体内の乳酸に作用して一時的に身体が楽になることがあります。

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真我への道 音楽とカルマ

(2012/03/01)

 どのような音楽を好むかによって、その人のカルマの傾向がある程度判断することが出来ます。大別すると重低音を多用する音楽は地獄のカルマが強く、フルートの音など軽やかな高音で構成された音楽は天界のカルマが強いという傾向があります。

 もう少し細かく分けますと、大きな太鼓の演奏やロック、ジャズなどを好む人は、一般に激苦地獄へのいざないが強いといわれています。

 恋愛をテーマにした歌やギャグアニメの歌は無智のカルマが強く、迷妄地獄の要素になります。

 演歌などはお分かりになるかとは思いますが、やはり情が強い人間界そのものです。恋愛を歌った演歌は、情と無智の両方の要素があるということです。また、唱歌などもどちらかといえば情の要素が強いものです。

 士気を鼓舞するような軍歌や、勇ましい戦いの音楽はみな修羅天のカルマが強いのです。

 そして、クラシック音楽を好む人は天界の要素が強いと考えられます。これは、あくまでもそれぞれの音楽にはそういった傾向があるというもので、もちろん絶対的なものではありません。

 そして、このような音楽の好みも一定ではなく、時とともに変化し好きになったりなんとなく聞かなくなったりします。物事の好き嫌いというものは、それがどんなものでもあれ繰り返し繰り返し接することで、いつのまにか好きになったりするものです。CMで使われる音楽などがそれですね。耳慣れると、大して良いと思わなかった曲でも、自分の好みではないジャンルの音楽でも何だか好きになっていたりします。それは今まで表に現れてなかったけれども、その人にその音楽が象徴するようなカルマがあるからに違いないのです。

 補足ではありますが、CM曲は全般に貪りの強い音楽ということが出来ます。CMそのものが人の欲望をあおるものであり、そこに使われる音楽というのも、たとえクラシックであれ演歌であれ、やはり貪りのカルマの強いものとなってしまいます。なぜなら、ある音楽を聴いて「この音楽はCMで使われていたな」と、そのCMを知っている人が認識することで、宣伝されていた商品やサービスに対しての欲求が高まります。そういったデータがそのCM曲に刻まれ、結局貪欲のカルマの強いものに変化してしまうためです。

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真我への道 洋服によってカルマが交換される

(2012/02/29)

 洋服を購入するとき、大概は洋品店や洋服売り場で探しますね。そしてズボンやジャケットなどの上着は自分に合うサイズなのか、必ず試着します。しかし試着すれば、そのとたんにカルマ交換が起こり、「つらい」という感覚が生じます。そもそも、洋服売り場でハンガーにかけられた、たくさんの洋服の間をぬって自分の欲しい服を選ぶだけでも、カルマ交換が起こりつらく感じられます。それだけ多くのお客さんが試着している商品の服には、その人たちのエネルギーが入っているのです。

 新しく洋服を購入した場合は、その洋服を着る前に洋服を裏返しにして、以前私が紹介しましたようなエネルギーを上昇させる水を霧吹きで吹きかけます。そうすることで浄化を早めることができます。

 また、裏返しして霧を吹いた洋服に聴かせるつもりでマントラ(真言)を録音したものを丸一日かけておけば、よりいっそう、しっかりと浄化されます。

 このようにいいますと、洋服に込められた、他者のカルマに嫌悪感を抱かせてしまうのかなとも思うのですが、世界はこのようなカルマのやり取りを絶えず行っていること、それによっていかに自分の意識が影響を受けているのかということを、まず皆さんに知っていただきたのです。

 物を媒体として他者のカルマが自分に入ってくることは浄化が進めば必ず誰もが実感しますが、それは嫌悪することではありません。嫌悪すれば、自己のカルマをさらに汚すことになります。この世界すべてが自己の心の中のことなのですから、他者の穢れ(カルマ)と見えるものであっても結局は自己の穢れでしかないのです。ここでお伝えしました浄化法を行うにしても、それをよく考えてから行ったほうがいいのではないでしょうか。

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真我への道 四つの苦楽の捕らわれ

(2012/02/28)

 1番目は食による苦楽です。私たちはなぜ食べなくてはならないのでしょうか、なぜ生きているものを殺して食べなくてはならないのでしょうか。私たちは食べることによって喜びを経験しますが、そのかわりに嫌なもの、きらいなものを食べることによって苦しみを経験することになります。どんなものでも食べなくては生きていけない状況になれば、苦い草木の皮・根、毛嫌いしていた昆虫であろうと、可愛がっていたペットであろうと、やはりそれを食べることになるでしょう。これが食による楽と苦です。

 2番目は接触の苦楽です。接触による楽とは異性との抱擁やセックスの喜び、あるいは子供を抱擁する喜び、あるいは母親に抱かれる喜びです。こういった接触の喜びとは反して、接触の苦しみというものもあります。たとえば火傷をして皮膚がケロイド状態になるようなことがあれば、そこに何か接触することは大きな苦痛になります。あるいは放射能を浴びることによって皮膚や内臓がただれれば、接触はすべて激痛をもたらします。これが接触による苦しみです。

 3番目、意志による苦楽です。人間には意志というものがありますが、これは欲望のことです。欲望によって意志を行使したいと思い、これがかなえられる場合は喜びが増大します。どんな意思であれ、それが行使され実現した時には喜びが発生します。しかし、自己がそれを行使しようとしても行使できない状態、意思通りにならない状態では、やはりここでも苦しみが生じます。

 4番目は、意志の苦楽の延長ではありますが、観念による苦楽です。人間が成長していくなかで、様々な観念を形成していきます。情報に接することによって、人はそれぞれの観念を形成するのです。この観念による喜びとは何かといいますと、まず観念を持つこと自体が喜びになります。そして、自己の観念どおり物事が進んでいくうちは大きな喜びを味わいます。例えば、安定した仕事、やりがいのある仕事に就くこと、ふさわしい異性と結ばれ皆に祝福され結婚すること、そしてかわいい子どもにも恵まれること、これこそ自分の歩むべき人生であると考え、そういった未来が当たり前に広がっていると信じている人がいたとしましょう。こういった観念を持つこと自体が喜びです。しかし、この人が突然冤罪事件で逮捕されたらどうでしょうか。そして冤罪の証明が出来ず、そのまま死刑を言い渡されたらどうでしょうか。死刑執行が下され腰縄と手錠を掛けられ死刑台に引きづられていく時、その人はどのような思いになるでしょうか。「こんなはずではなかった、私の人生はこんなはずじゃなかったのに。もっと幸せな人生が待っているはずだったのに、どこでどう間違ってしまったのだろうか。何も悪いことはしていないのに。」こういった冤罪事件が、絶対にあなた自身の身に振りかかってこないとは限りません。どんな人にも起こりうる可能性があります。その時、死への恐怖による苦しみ以外に、自分の観念のままにならない苦しみを経験することになります。

 このような四つの苦楽の捕らわれというものが存在しています。私たちが通常喜びとするものの裏には、必ず苦が潜んでいるのです。これらの苦楽の捕らわれを減らしていくには、喜びにも苦しみにも頓着してはなりません。心に苦楽の波を作らないで、なるべくフラットの状態に持っていくのが、ニルヴァーナへ至る道であり、真我への道なのです。

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真我への道 転生はあるのか

(2012/02/26)

「魂が転生することはない」とお考えになる方に、転生の有無を説く前にまず前提として申し上げたいことがあります。

 例えばある化学反応を証明する実験を行うとき同じ条件のもと実験を行えば、同じ実験結果が得られます。にもかかわらず同じ工程で実験しても異なった実験結果しか得られないのであれば、条件のほうに相違があったのではないかというように考えが及びますね。

 では、同じことを魂の転生にあてはめて考えてみてください。私たちは、ひとりひとりが固有の性質をもって生まれてきています。種として共通している部分もありますが、ひとりひとり身体的な個体差をもっています。顔形も違いますし、身長・体重もばらばらです。また健康に生まれてくる人、先天的な病気をもって生まれてくる人、大きく異なっています。

 また、生まれた時の条件もそれぞれ異なります。裕福な家に生まれる人もあれば、そうではない人もいます。やさしい家族のもとに生まれてくる人、残念ながらそうではない人。平和な国に生まれてくる人、戦時下の国に生まれてくる人。なぜこのような個体差が生じるのでしょうか。

 私たちが全くの無から生じたならば、すべての魂が同じ条件のもとで生まれてくるのですから、そのいった個体差は生じ得ないはずではないのでしょうか。しかし個体差は歴然とある、それはひとつひとつの魂の条件が異なるからです。その条件とは、その魂が生まれる前から独自の性質を生む要因をおのおの持っていたということです。その要因こそカルマであり、そのカルマが作られたのは魂がこの世に生まれる前であると推測されるのではないでしょうか。

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真我への道 死後の世界を信じるとは

(2012/02/25)

 死後の世界の存在を信じられる人と信じられない人、この違いは何でしょうか。それは、その人が人生の中でどれだけ「死後の世界は存在する」というデータを自分の潜在意識に取り込んだかによります。人生の中で、そのデータを多く取り込んだ人は「死後世界はあるんだ」とごく自然に考えるようになります。一方、「死後の世界は存在しない」というデータばかりに接してきた人は「死後世界なんてありはしない。人間は死んだら、そこで終わりなんだ」としか考えられなくなります。

 同じように、私たちが見たこともない過去、例えば縄文時代や平安時代・江戸時代の存在、または宇宙など自分が行ったことのない、はるか遠隔地の存在を確信しているのも、「そういった時代があった」「宇宙は存在する」というデータを繰り返し刷り込んだことによります。こんなことをいいますと、「縄文時代の土器や平安時代の建造物跡などの物証や詩歌などの伝承があるじゃないか」「宇宙から持ち帰ったサンプルは何なんだ」という反論が聞こえてきそうですが、どうでしょうか。

 見たことも行ったこともないのに、その物証が、伝承がはたして本当にその時代のものなのか、本当に地球以外から持ち帰ったものなのか、私たちは専門家でないかぎり自分の力で立証できないでしょう。単に、専門家の話を鵜呑みにしているにすぎません。何か陰謀によって捏造されたものではないと絶対の自信をもって言い切ることさえ、私たちにはできないのです。

 ここで重要なのは縄文時代や平安時代の有無や宇宙の存在の有無ではありません。私たちが当たり前と信じているものが、単にデータの植え付けによってそのように思い込んでいるに過ぎないということなのです。

 「死後の世界はある」というデータにどれだけ触れるのか、それによって死後世界を信じるか信じないか決まるわけですが、それ自体もやはりカルマによるものであるといえるのです。

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真我への道 食事は何時とるのがよいのか

(2012/02/24)

 食事の時間についてですが、お釈迦様が涅槃される前に仏弟子は午前中に托鉢に行き、それをすぐにいただいたそうです。一日の食事は午前中にそれ一回だけで、その後は行や瞑想に励んだそうです。食事を蓄えるということはなかったようです。なぜ午前中に食事を取ったのか、これにはしっかりとした理由があります。

これには太陽とエネルギーが関係しています。太陽とは万物に慈悲の光を降り注ぐ太陽神であり、その光をこの地球に降り注ぐことによって人間のエネルギーを引き上げているのです。太陽によって人の意識も高められているのです。

朝日が昇り始めてから徐々にエネルギーは上昇し、太陽が真上にくる正午に最高潮に達します。そして日没にむかってエネルギーはだんだん下降していきます。

一方、食事を取ることで人の意識はぐっと下がります。食物の消化のためにエネルギーが多量に消費されてしまうからです。ですから、弟子の意識があまりに低下するのを防ぐためにも、お釈迦様は意識が上昇しやすい午前中を選んで食事をさせていたのだろうと推測されるのです。

ですから、食事を取る時間が選べるならば、修行者は午前中にもってくるのがいいでしょう。

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『白雪の詩』石けん真我への道 石けんについて

(2012/02/22)

 浄化が進んでくると防腐剤や香料の強い石けんやシャンプーを使えば、当然のことながらナーディーは詰まり無智になって物事が考えにくくなります。

 毎日使うものですから、廃油などを再利用していない無添加の石けんがいいと思います。私のおすすめは、“ねば塾”という長野県の福祉作業所で作っている「白雪の詩(しらゆきのうた)」(二個入り¥262)という石けんです。どうせ使うのなら、障がい者の自立支援の役に立ったほうがいいなと思って使っています。

台所用石けんとありますが、シャンプーにも身体を洗うのにも使用できます。使い心地も悪くありません。

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真我への道 神通力について

(2012/02/21)

 人は誰でも真理の修行をやっていけば、必ずニルヴァーナに至る最終段階の超能力までも徐々に身についてきます。古くから仏教でいわれる六神通のことです。六神通とは神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通、漏尽通をいいます。

 漏尽通以外の五つ神通力がどの順番で身についてくるのかは人それぞれで、その人のカルマによると思いますが、漏尽通は必ず最後に体得することになっています。漏尽通が身につくというのは、その魂が最終段階であるニルヴァーナに至ったことを示しています。ですから、それまでのプロセスとして他の神通力がついてきとたとしても、それに慢心してはいけません。そこに意識を向けないで、漏尽通がつくまではひたすら修行に専念しなくてはならないのです。あるいは、すべての魂を救済することに全力で努めなくてはいけません。

 なぜなら、私たちが生きているこの世界は、自己の心を鏡面のように映し現出させている幻影球体世界だからです。このような幻影なる、自己の心の世界において、仮に他者の心が神通力によって読み取れたとしても、それは自分の心の一部を見ているだけで本当の他人の心を見ていることになりません。また、仮に天界の神の心の声を聞くことができたとしても、それは完全に正確なものであるという訳ではありません。この幻影球体世界が自分独自の観念から生じた世界であるために、自分なりの認識、見解によってその声を聞いてしまうのです。神の真実の声が届いたとしても、自分なりの解釈が入り、その正確な意味が聞き取れないということ起こるのです。

これは、天の眼,千里眼についても同じことがいえます。完全な異次元、異空間を見ているのではなく、自分の心の異なった則面を見ているのです。他人の過去生を知る力である宿命通にしても、自己の固有の見解によらず他者の過去生の世界をありのままに正確に見ているとはいえません。それが自分の観念外の時代・世界であったならば、それを正確に理解できないこともあるからです。

このような神通は自己の修行の進展を測るバロメーターにはなりますが、そこに捕らわれることは慢心を招きます。この慢心により、修行はそこで行き詰まり袋小路にはまってしまいます。ですから、どんな神通がついても心を動かさないようにして、なるべくそれに捕らわれないようにした方がよいのです。

私たちが目指さなければいけないのは、この幻影の世界を欲しいままに生きることではありません。この幻影なる世界を打ち破り、真実の世界に至ることです。この完全なる至福の境地に至ることにより、完全なる解脱を達成することにより、必ずや最後の漏尽通が芽生えてくるのです。

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真我への道 料理の味付けについて

(2012/02/20)

 私たちが食べるものはほとんどが調理されたもので、素材をそのまま食するということは果物や一部の野菜を除いてほとんどありません。素材を切ったり加熱したりし、塩・しょうゆ・みそ・砂糖・酢・さまざまな香辛料で味付けしています。

 それらの味付けが濃いものを好む人も多いかと思うのですが、そういった人は地獄のカルマが強いといえます。また刺身などの生魚や生の貝やカキや、たたきなどの生肉、レアのステーキやローストビーフなどの半生の肉料理も同じように味が強く、地獄のカルマが強いものです。

 逆に無味に近い味付けを好む人は、味覚に捕らわれていないということですから、天のカルマが強いのです。よって、修行者は調理するにしてもごく薄い味付けにするほうが望ましいでしょう。

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真我への道 グルイズム(2)

(2012/02/19)

 真理の道を歩んでいる人は、自分の積み上げてきた功徳と類まれな如来との縁に感謝しなくていけないでしょう。如来との縁というのは慙愧の念をもつことにほかなりません。

 真我に至るために必要なことは、それは「主体と客体」という自分と他人とを区別する意識をなくすことです。「主体と客体の区別」をなくすためには、他者をなくすことよりも自分をなくしていくことです。自分のエゴを滅却していき自分の領域をどんどんなくしていくことが、真我への一番の近道なのです。自分のエゴをなくすためには「ゆだねる」ということが大切ですが、そのゆだねるべき対象というのは自己のグルをおいてほかにありません。自分のグルに、完全に自己を預けることによって人はエゴをなくすことができるのです。グルに自己をゆだねる、そのために必要なのが懺悔です。(懺悔についてはこちら)

 懺悔をするにあたって「自分は慙愧の念がないから懺悔できない」という人がいます。しかし、初めのうちは慙愧の念を持たなくとも、懺悔をするようにしていきましょう。何度も何度も繰り返し、真理に照らし合わせ自分の為した悪業を、グルに徹底的に懺悔させてもらいます。そうしていけば、ゆくゆくは必ず本当の慙愧の念を伴った懺悔が出来るようになります。

 懺悔のところで詳しく述べましたが、自分の悪しき行いを身・口・心の三つのレベルにわたって、グルに包み隠さず懺悔します。このような悪業に対する懺悔が徹底的に出来るようになってから、次に現象に対して捕らわれていることすべてを懺悔します。たとえどんな些細なこと、例えばそれが小さな頃の思い出でも、たとえそれが素晴らしい思い出や良き思い出であっても構いません。現象に捕らわれる意識は、それがどんなものであろうとも全て真我へ至るための障害となります。ですから、全てが懺悔に値するのです。

 グルが懺悔を受けてくださるということは、自分自身に「懺悔ができる」という功徳が存在しているためです。そうでなければ懺悔するという現象にならないもしれません。グルに対し懺悔ができる人は、その、素晴らしい状況に感謝すべきです。修行によってニルヴァーナに到達する一番の早道、それが懺悔なのですから。

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真我への道 グルイズム(1)

(2012/02/18)

 私たちが真理に出会い修行を始め、最終的に涅槃に至るまでの過程を見てみますと、その中でいかにグル(師)という存在がいかに重要か理解できます。

 真理の修行を実践することよって、真理の法則が自分の中に根付き、私たちは自己の穢れを上昇させ意識を高めることが出来ます。それによって自分自身を最終目的地であるニルヴァーナ(涅槃)、真我の領域に近づけていくことが可能です。そこまでの道筋は違っていても、その目的地はすべての魂に共通しています。

 ひとつの修行法をとってみても、ある人は真理についての本を読んで、またはネットである修行法を知り実践した場合もあるでしょう。あるいは、自己のグルから直接口頭で修行法を伝授された人もあるでしょう。また、ある人は自分自身で編み出した修行法によって意識を上昇させるということもあるでしょう。その全てのパターンに言えるのですが、私たちが修行に打ち込んで自己の無智を払いのけ真理の智慧を自分のものにし、それによって意識を上昇させることができたのならば、私たちに代わってその無智なるカルマを引き受けている存在が必ずどこかにいるということです。私たちはいかに努力しようと耐え忍ぼうと、自分自身の力だけで穢れを昇華させることは出来ません。必ず自分を引っ張りあげてくださる高い意識体が存在していらっしゃいます。これは、いかなる意識上昇の場合にもあてはまります。

 私たちには見えなくても、魂の系譜というべきものがあります。より高い意識にある、自分と縁ある魂が私たちの修行を導いているのです。それがはるか高い世界におられるグル方であり、魂ひとつひとつが属する、それぞれの系譜の先におられる方々です。私たちが自己の無明を超えるたびに、修行が進展するたびに、私たちが認識していなくとも、そのつど高い意識のグル方が私たちの無智なる穢れを引き受けてくれているのです。そして、そのかわりに真理の智慧を注いでくれています。

 私達の無智なる穢れを直接のグル、または一番近いグルが引き受けてくださると、今度はその穢れをグル自身が上昇させます。しかし、それを引き受けるのは、グルよりさらに高い意識の師です。グルであろうと自分の力だけで穢れを上昇させているのではありません。必ず、それを引き受けてくださる存在がいます。

 例えば私の提唱する修行を実践してくれている人たち、この人たちは私と縁があって真理の修行をしており、その結果彼らの穢れは私に集まってきます。その分、もちろん修行をした彼らの意識は上昇します。これは紛れもない事実です。私は集まってきた、その穢れをそのまま穢れとして放っておくことはありません。私は慈悲の意識によって穢れを上昇させます。そこに意識が向いてなくとも、穢れは自動的に昇華していきます。かといって、これは私自身の力というわけではありません。私に集まってきた穢れは、静マナ識世界におられます私自身のグルが引き受けてくださっています。私のグルは、その穢れをより高い意識体に引き受けていただいているのです。

 この入れ子状の図式を何重にも繰り返し、全ての穢れは真我に集約されます。このようにして、高い世界のグル方がはるか彼方の真我の世界、涅槃の境地にまで私達を引っ張り上げてようとしてくださっているのです。

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真我への道 真我(1)

(2012/02/16)

 真我とは私たちの旅の目的地である。真我とは主体と客体が渾然一体となったものである。真我とは私たちの内的気づきである。真我とは私たちの社(やしろ)である。真我とは私たちを導き入れるものである。 真我とは太陽のような光そのものである。 真我とは本来の私たちそのものである。 真我とは純粋無欠の存在である。 真我は打ち寄せる波のように、その存在を私たちに知らしめる。 真我とは無償の愛である。

 真我とは二極の心素(しんそ)という鞘(さや)で覆われている。真我とは極限の意識である。真我は思索することもない。真我は淡々と正見解を持つ。真我は空と無を超越している。真我は時と場所という概念を超越している。真我はれっきとした領域として存在する。真我とは絶対の存在である。

 真我とは何ものにも変えがたい、すべてを包含する実体である。真我とは意識の拡大に由来する。真我とはあらゆるものに共鳴を起こす。 真我とは固有のものであり、全体を把握する。真我はこちらとあちらという概念で割り切れない。

 真我は燃えるような赤い眼を持つ。真我とは朝日のようなものである。真我は鼓動さえ持たない空間である。真我は私たちの胸の高鳴りと似ている。真我とは一瞬のきらめき。真我は三グナを内在させる。真我とは龍が持っている玉(ぎょく)である。真我は牙をもつ。真我は私たちの心臓に眠っている。真我とは亀の甲羅(こうら)にも例えられる。真我とは雨上がりの虹のように実体のないものにも見える。真我とは思いやりである。真我とは泥の中に埋もれた宝石のようなものである。真我とはどこまでも澄み切った大空である。

 真我は宇宙全体を包含する。真我とは硬い巌(いわお)のようなものである。真我とは渓谷を流れる水のようなものである。真我とは俗から離れた境地である。 真我とは不空成就の境地である。真我とは本当の私である。真我とは目覚めである。

 真我はこの領域とあの領域を自由に渡り歩く。真我とは幸いなる福田(ふくでん)である。真我とはサハスラーラと同一のものである。真我とはかつてない至福の時である。真我とは「全体」を意味する代名詞である。真我とはピラミッドの頂点である。真我とは人間としての概念が出来上がる前の存在である。真我とは引き金を引いたあとの弾丸のようなものである。真我とは空間を切り裂く刀のようである。真我とは割れる前の、陶製の壷(つぼ)のようなものである。真我とは泥を塗ったような存在でもある。

 真我は本来の自己をさらけ出す。

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真我への道 功徳の流れ

(2012/02/14)

 真理に出会い、いざその実践を始めたようとする場合、六波羅蜜に従って布施の実践から修行は始まります。六波羅蜜のところでいいましたように、この布施によって真理を実践できる功徳と縁を築きます。また、大切なお金や品物を手放すこと自体が現象への捕らわれを薄くし、現象に捕らわれることで生じていた苦しみを軽減させ、精神的な飛躍となります。このように真理に対する布施は、真理の道を歩むための大切な土台なのです。

 しかし布施を始めた当初は、布施の功徳が自分のエゴを全うするために使われることがあります。例えば、布施をした金額よりはるかにたくさんのお金が入ってきたり、新規の契約が取れるなど仕事がうまくいったり、恋人ができたり、昇進したり、成績が向上したり。今までは停滞していた状況が急に改善される、そんな現世的な願いがかなう方向に功徳が流れることが実際あります。

 これはどういうことなのかというと、真理の実践を始めたばかりの頃はまだまだ自己の心が現世的な方向に向いているために、そちらに功徳が使われるのです。最初のうちは、これは仕方ないですし、それでも構わないでしょう。徐々に真理のデータが自分のものになっていけば、自然と功徳は自己の霊性を向上させる方向に使われていくことになるからです。

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真我への道 生存の目的とは何か

(2012/02/13)

 私たちはなぜ生まれてきたのでしょうか?何の為に生まれてきたのでしょうか?
真理の眼をもって見るならば、それは前生までに蓄積させたカルマを昇華させるためです。カルマを清算し、フラットの状態に戻すために魂は生まれてくるのです。これこそ、魂が生存する真の目的です。

 しかし、ひとつひとつの魂にはエゴがあり、そのエゴが自分が生まれてくる本来の目的を見えなくさせています。そして「自分はエゴを満たすために生まれてきたのだ」と、いつの間にか生の目的をすり替えてしまうのです。ここでいう「エゴを満たす」ということの核にあるのは「自分の存在を認めてほしい」という欲求です。この欲求を満たすために私たちは生まれ、生存の中にあっては「生きていたい」と欲求するのです。あるいは、エゴがより拡大し「自分は楽しむために生きている」と思いこんだ魂は、楽を貪り苦を忌み嫌いながら生きるのです。エゴを行使するために生きているともいえます。それによって、新たなカルマを蓄積しているということは言うまでもないでしょう。

 エゴは「自己の存在を認めてほしい」と思っているのですから、当然のことながら死を恐れます。自分の存在が消されるからです。存在の中心である肉体を失うことを、エゴは特に恐怖するのです。

 では、自殺はどうなんだと思う人もいるかもしれません。確かに自殺する人には生存欲求はありません。しかしエゴがないかと言えば、そうではありません。自殺はエゴの最たるものです。彼らは「あらゆる他者を完全に遠ざけたい」と願うのですが、それが出来ないために、逆説的な方法として「自分がこの世にいなければ良い」と考えるのです。

 人はエゴを行使するために生まれてきたのですが、まれにそうではない魂がいます。その魂たちは他者を愛する故に、慈悲を増大させんがためにこの世に生まれてきます。そういった魂は「菩薩」といわれます。菩薩にとって、この世での目的は自己のエゴを満足させることではなく、自己の慈悲を強め他者を救済することです。

 一方、自己のエゴを満たすために生まれてきた魂を「凡夫」といいます。これは世間一般に言われる、さげすむような意味合いはなく、単に「普通の人、一般の人」という意味です。また真理以外の教えなどを信じる人たちを「外道」と呼びます。凡夫と外道のどちらの人々も菩薩にとっては救済の対象なのです。

 アセンションを目前にひかえた今現在、待ち望まれる魂は、菩薩の中でも特に真人(まさびと)と呼ばれる人々です。真人とは真理を実践しエゴを極端に減少させることの出来る人のことです。文字通り、真の生きる目的を体現している人々です。彼らは、欲天の第二天界(帝釈天)にいる三十二の御魂が、人類を救うために人間界に降りてきたときに分裂し生じた魂なのです。(詳しくはこちら)

 

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真我への道 修羅天と人間界はどちらが上位か

(2012/02/12)

UFO 人間の一番の特質である情、これを人間社会では尊びます。しかし真理の教えにおいてはこれを穢れとします。それは何故なのかといえば、情によって人は盲目になるからです。

 例えば自分の家族と、全くの他人との間に争いが生じたときに、人は情によって家族の味方をしてしまいます。たとえ身内の者に明らかな非があろうと、心情としては身内の人の立場を擁護してしまうでしょう。さらには身内の者の非を認めることすら出来ないということになります。このように、人は情によって現象をありのままに捉えることができない、真実が何たるか見えなくなるのです。これが人間界を象徴するアナハタ・チャクラ(胸)の穢れです。

 一方、人間よりひとつ上の世界である修羅天においてはどうでしょうか。修羅天は闘争本能が強く、特に自分より目上の者に対して闘争本能をむき出しにします。しかし、彼らは家族と赤の他人との二人が争っていても、人間のように情によって自分の家族の味方をすることはありません。自分の家族の肩をもって闘争するということはありません。両者の間に争いが生じたとしても、どちらが正しいかどちらが正しくないかを正確に判断します。そこに一切の私情は挟みません。

 彼らの闘争本能は、ただ単に自分より明晰である、自分より優れている者を打ち負かしたい、そのことのみを目的として働くのです。これが修羅天を示す、のどのヴィシュッダ・チャクラに生じる穢れです。修羅天にこのような闘争本能があるのは、その裏に他人から自分を理解して欲しい、認めて欲しいといった欲求が常時あるからなのです。

 欲界の各世界は、額のアージニャー・チャクラ以下のチャクラと対応しています。胸のアナハタ・チャクラは人間界に対応し、そのひとつ上にある、のどのアージニャー・チャクラは修羅天に対応しています。つまり修羅天は人間界より上位の世界とされています。これはチベット仏教の見解です。しかし日本の仏教では、修羅天は人間界より下位の世界であるとしています。この違いは、日本の仏教は「他人に危害を加えるという悪業」に重点を置いており、チベット仏教はあくまでも「一人の人間の心がどのような部分に捕らわれているか」ということに主眼を置いているからです。チベット仏教の見解からすれば、物事を歪めることなく相手と自分の力を正確に比べて判断しそれにより闘争に明け暮れるほうが、情によって物事を正しく見極めることが出来ないことより高等な捕らわれ(穢れ)であるとしているのです。

 このような二通りの見解は、もっと深いアーラヤ識のデータが存在しているために生じています。そのデータとは銀河系の中心から見て、修羅天の生存領域が人間の内と外に広がっているということです。この銀河系は、その中心に欲界の中で最も意識が高い帝釈天が存在し、そこから遠ざかるにつれ下位世界になるという構造をしています。つまり、修羅天の生存領域が我々の住む太陽系の外側にも内側にも存在しているということは、人間界の上位にも下位にも修羅天は存在しているということです。このアーラヤ識の根本データがチベット仏教的世界観と日本仏教的世界観を生んだのです。

 そして、人類の発する、良くない感情に基づく行為の中に三悪趣の世界は存在しています。この三悪趣の魂の意識は、それぞれに独自の幻影球体世界を持ち、独特な宇宙空間を作り出しています。

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真我への道 妖怪に首を絞められる

(2012/02/11)

 昔、私が神社めぐりをしていた頃、どこの神社でどのようにして憑いてきたのかわかりませんが、夜寝ていると妖怪のようなものに首を締められるというようなことがありました。

 とっさに私は、マナ識世界にいる、私のグルに助けを求めていました。ほどなくして妖怪は消え去りました。ほっと胸をなでおろした後、私はこのように考えました。確かにグルに助けを求めれば、グルがその妖怪をはねのけてくれる。でも、それが本質的なことなのかと。どうも、そうではないような気がしました。

 また別の夜、同じように寝ている私の首を絞めてくるものがありました。今度は「妖怪ですら自己の心の現れに過ぎないのだ」と思い、一切の抵抗を止めて心の中で妖怪に言いました。「私が悪いのなら、どうぞ、この首を絞めてください。もうどうにでもしてくれてかまいません。」そう思った瞬間、その妖怪らしきものはすぅっと姿が消えていきました。

 自己の心の本質部分に現れてきた悪魔は、自己がそれを乗り越えていくときに自然に消えていくということですね。

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真我への道 功徳と回向

(2012/02/09)

 

 功徳の大切さについては、以前2回にわけて申し上げていたのですが、それに深く関係する回向についてご説明しようと思います。

 功徳を積むということは非常に重要であり必要なことです。そして法施(真理を伝えること)によって得られる功徳は多大であるということをお話しました。では、その功徳はどこからやってくるのでしょうか。

ブーメラン 例えばあなたが友人に真理の法則を伝えた場合は、それによってあなたは功徳が得られますが、伝え聞いた友人は逆に功徳を減らしたことになります。友人は真理のデータという利益を得たわけですが、それに対して功徳という目に見えない代価をきちんと支払っているのです。このように功徳は、お金のように人から人へと流れていくものなのです。しかも、魂を最高の幸福と完全な解放に導く道しるべが真理なのですから、その真理を知るということは魂にとっては最高の利益になるのです。ですから、真理を伝える者は大きな功徳を得るし、伝え聞く者はこの最高の利益を得るために莫大な功徳を渡しているのです。

 正直に言いますと、真理を知ることの出来るほどの功徳を持っている魂は本当に稀です。真理の実践を出来る者はさらにずっと少ない、これが私たち人類のおかれている現状です。私たちの回りにはほとんど煩悩を増大させるようなデータしかないのですから、当然といえば当然なのかもしれません。一度真理に出会ったならば、それを手放さないようにしっかり握っていなくてはいけません。そうでなければ、振り出しに戻って再び功徳を積みなおさなくてはいけないのです。

 せっかく誰かに真理を伝えても、そしていくらあなたが誠意と情熱をもって真理の素晴らしさを語ろうと、その人が真理を実践できるほどの功徳を持っていなければその人は真理を実践するまでに至りません。功徳というものは単にそれを有するか否かで、その魂の歩む道を決定してしまうのです。功徳が少なければ、真理の法則を聞くだけでその人に潜在していた功徳がつきてしまうこともあります。真理を伝える側はそれでも「真理を伝えた」ということだけで大きな功徳を得ることが出来ますが、究極のニルヴァーナに至るためにはすべての魂に真理の実践をしてもらいニルヴァーナに導かなくていけないのですから、それでは本末転倒になってしまいます。他の魂を犠牲にして自分だけ功徳を積んで抜きん出ても意味が無いことです。

 功徳の欠乏により真理が実践できないでは、その魂は救われません。真理の法則を単に知っていても、実際に実践しなくてはその魂は救われることがないのです。教える側にとっても、それは修行本来の目的ではありません。

 ではどうしたらいいのか、そこで功を奏するのが回向です。回向とは真理の実践、特に慈悲の実践や布施によって得た功徳を、他の魂に還元することです。自分のために功徳を使うことなく、他の魂にその功徳を分け与えるのです。その功徳を使ってもらい、どうかみんなが真理に気付き、その実践が出来るように願うことです。

 ここでいえば、対象がいなくては法施はできませんから「法施させてもらえた」ということで相手に感謝し、自分の得た功徳を相手に回向することです。相手は真理を教えてもらったことで大きな功徳を消費しましたが、同時に「あなたに法施をさせてあげた」ということで功徳を得ることことが出来るのです。

 法施のできる人は、必ずこのような意識をもって法施をすることが求められます。回向することによって自分の功徳がなくなってしまうかといえば、そうではありません。回向自体が大きな功徳を生む行為であるため、回向をすることによって自分の持ていた功徳は何倍にも増幅されるのです。このように、功徳そのもの量は回向によって増やすことが出来るのです。

 そして、法施をすることによって自分自身は、より高い世界の存在から新たな、より深い真理の法則を教えていただくというカルマと、そのための功徳を得ることが出来るのです。長くなってしまいましたが、このような理由で毎日の修行の最後には回向を欠かしてはならないのです。

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真我への道 エネルギーの上昇

(2012/02/08)

宇宙遊泳 自分の部屋など、いつも決まった部屋で修行をしている場合、自分自身が修行によってエネルギーを上昇させることに伴い、その部屋の空間自体もエネルギーが上昇する空間に少しずつ変化します。エネルギーが上へ上へと引き上げられるため、自分の身体が軽やかになります。

  長期間にわたってその部屋からほとんど出ないようにすると、意識を下降させるアパーナ気が撤退していき意識は高まります。アパーナ気は排泄をつかさどるエネルギーでもあるため、その気が撤退しているとどうしても便秘になってしまいます。一週間もすると腹部がどんよりする感じになるため、その時はサンカ・プラクシャーラナ・クリヤーをお勧めします。

 その部屋から一歩外に出ると、外部はそんな良いエネルギー状態ではないわけですから周りのエネルギーと同調し、当然自己のエネルギーは低下します。撤退していたアパーナ気も増大します。その状態で再び自分の部屋に戻ってくると、その部屋の空間自体の上昇のエネルギーによって、再び自分のエネルギーは上昇を始めます。身体が浮き上がるような感覚と、綿で出来た床をふわふわと歩いているような、あるいは宇宙遊泳でもしているような感覚になります。これは増大し安定していたアパーナ気が不安定になるためです。しばらくするとアパーナ気は撤退するため、ふわふわする感覚はなくなります。

 このような感覚は何も本人に限ったことではなく、もし霊的に敏感な友達がいるならば、この部屋に入るなり足元が軽やかになり、まるで綿の上を歩いているようなふわふわした感覚になるのが、その人にもわかるでしょう。

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真我への道 へら鮒(ふな)釣り

(2012/02/07)

 若いころ私は釣りが趣味で、特にへら鮒釣りに興じていました。真理というものに初めて触れてからも、それが殺生にあたると知りつつも好きな釣りをすぐに止めることは出来ませんでした。しかし、へら鮒釣りをしていてもやはり真理のことが頭から離れずにいました。

 ふなの釣り餌この世界はカルマの法則にというものが存在し、すべてが原因と結果というものから成り立ってるのだと聞かされても、今自分が釣っているへら鮒にも原因があり、その果報とし動物に生まれて、人間に釣り針で釣られ痛い思いをしなくてはならないカルマを生じさせたのだ」と。こう、自分自身に言い聞かせていました。私は自己の殺生を正当化しようとしたのです。

 しかし何度もふな釣りに行き、その度に苦しみ必死にもがくふなを目にするうちに、カルマの原因により動物として生じた魂であるけれども、今この時自分はその魂を苦しめているのだと認識するようになりました。

どれだけ釣りが好きであったとしても、このように他の魂を苦しめている自分自身にひどく嫌気が差すようになってきました。そして、カルマの果報により苦しめられているふな達を見て可哀想に思うようになりました。

 いくら、ある魂が自己のカルマの果報により動物などの苦しい境遇にあったとしても、私自身が「それはその魂の自己責任なのだ」と見なすことと、それでもその魂に対して哀れみを生じさせるということとは、まったく別のことです。

 より深い見地に立てば、ふな釣りも私の心の現われである現象の一つであり、釣りの対象であるふなにしても、彼らがカルマの果報により苦しんでいること自体も私の心を写し出している幻影に過ぎません。今自分が見せらている幻影に対して、私自身がどれだけその苦しみをひきうけさせてもらうのか、それにより自分がどれだけ苦しんでも構わないと思えるかということ、そこが大切なのです。真理に出会い、しばらくして私はそのことにようやく気付きました。そこでやっと釣竿やその他の釣り道具を手放し、真理というものを本当に実践し始めることが出来るようになったのです。

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真我への道 四正断(ししょうだん)

(2012/02/06)

四正断とは、 今現在為している悪業を断じ、未来これから為す可能性のある悪業の根を断ち切るように努力すること。また、今現在為している善業を増大させ、未来これからなす可能性のある善業の種子を増大させるように努力することをいいます。

 

真我への道 七科三十七道品

今までに紹介いたしました、四念処(しねんじょ)・四正断(ししょうだん)・四如意足(しにょいそく)・五根(ごこん)・五力(ごりき)・七覚支(しちかくし)・八正道(はっしょうどう)の7つを合わせて七科といいます。また、七科の中のそっれぞれの項目を全部あわせると37の項目となり、これを三十七道品といいます。

七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうほん)とは7つの修行法であり、さらに細分化すると37の項目に分かれるということです。

37の項目の中には、切り口を変えただけで内容が重複するものもありますが、それはその項目がそれだけ重要であるからといえましょう。

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首塚大明神守護札真我への道 鬼も、自己の心の現われ

(2012/02/05)

 京都方面の神社参りをしていたときのある夜、こんなことがありました。私は京都の上賀茂神社へお参りをしていた際ふと空を見上げると、雲に大きな鬼の顔が二つ浮かんで見えました。彼らは私を見て、なんだか笑っているようでした。次の日は鬼退治伝説で有名な大江山に行く予定だったので、そのようなヴィジョンが見えたのかもしれません。

 次の日の朝、大江山へと続く老ノ坂の手前にある首塚大明神をまずお参りました。ここは、退治された酒呑童子の首を埋めた首塚を祀っています。そして、そのまま鬼の名所ともいうべき大江山にいくと、鬼の銅像があちらこちらにたくさんありました。それらの鬼の像の近くには、おそらく運送トラックの荷台からこぼれ落ちたのでしょう、道端にイエローページが何冊も落ちていました。これを偶然ととらえることも出来ますがあえて必然であるととらえ、私はそのイエローページを拾い上げ鬼の像と一緒に写真を撮りました。このイエローページに紹介されているお店・会社、そこで働く人々、そこのお客さんすべてを、この鬼たちと結び付けました。

 そして鬼たちに対しては、この鬼たちを一目見る人たちが、あるいはその近くを通りすがる人々が、たとえ本人たちがその時どんな気持ちを生じさせていたとしても、それとは関係なく「彼らが真理というものと絆を持てますように。彼らに真理への気付きが訪れますように。彼らが真理に気付くだけの功徳が積めますように」そういった気持ちを鬼の像ひとつひとつに念じました。この思念は鬼たちを通じてイエローページに記載されている企業・お店につながる人々すべてに波及する、そのようにイメージし祈りました。そして、そういった気持ち、慈悲の実践をする機会を与えてくれた鬼たちにも心より感謝しました。

 一昨日は節分でしたが、「鬼は外、福は内」とはすなわち「鬼を外へ追い出し、福は内にやって来い」と言っているわけですね。しかし、この世界すべてが自己の心の世界であり、鬼ですら自己の心の現われなのです。ですから、「鬼は外、福は内」というような意識は本来真理の修行を志す者にとってふさわしいものではありません。また、鬼を納得させる、説き伏せるというようなことも必要ありません。

 どれだけ福が来ようが鬼が災いをもたらそうが、本質的にはすべての現象に捕らわれてはいけないということです。一般の人たちは災いをこうむっても「それは自己のせいである」と考えることはありません。しかし、実際は災いも幸いも自己のカルマの果報に過ぎません。ですから、どんな災いが起ころうとも、そのために鬼を追い出そうなどと思ってはいけないのです。

大江山の鬼  

 

 

 

 

 

 

 

     
大江山の鬼   大江山の鬼
 

 

 

 

 

 

小さくイエローページが写っていますね。

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真我への道 八正道(八つの聖なる道)

(2012/02/03)

八正道とは真理を実践する者が歩むべき、正しい道です。

正見   真理に基づいた正しい見解を持ち、あらゆる物事に対応していく、聖なる道。

正思惟  正しい真理の見解に基づいて思索していく、聖なる道。

正語   真理に基づいて正しい言葉を語る、聖なる道。

正業   真理に基づいて行為をしていく、聖なる道

正命   真理に基づいて、自己の人生をよき実践にしていく、聖なる道。

正精進  不退転の心をもって真理を実践していく、聖なる道。

正念   真理のデータを正しく自己の潜在意識に蓄積させていく、聖なる道。

正定   真理の実践を為すことにより深い瞑想を極めていく、聖なる道。

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真我への道 整髪料について

みかんの皮のホワイトリカー漬け(2012/02/02)

 修行が進み心身が浄化されてくると、今まで当たり前にしていたことがいかに自分の心身をけがすものであったかということに気付かされます。そのひとつに整髪料があります。市販の整髪料を髪の毛につけると、どんなものでも頭がボーっとしていまい物事が考えられなくなります。

 整髪料は使わないようにするほうがいいのですが、そうもいっていられない人もいるでしょう。そんな人にオススメなのが、みかんの皮をホワイトリカー(アルコール度数35度)に漬け込んだものです。

みかんの皮につく虫 私は無農薬のみかんを食べ終わった後、残った外側の、厚いオレンジ色の皮で作りました。その際みかんのへそは取り除きます。もし、みかんの皮にゴマみたいなものがついていたら、それは生きている虫ですので殺生になりますから、入れないようにしてください。きれいにしたみかんの皮を広口ビンに入れ、ホワイトリカーを注いで、そのまま3ヶ月くらい寝かせました。すると琥珀色になり、柑橘系の香りになります。

 それをスプレーボトルに小分けして普通の整髪料のように使います。これでベタつくことなく、きちんとセットされます。

 このみかんの皮のホワイトリカー漬けは、なんと毛はえ薬にもなるものなのです。

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 真我への道 「真我に至る」ということ

(2012/02/01)

 本当の私そして本当のあなたとはなんなのでしょうか。体?心?それとも魂、近いかもしれませんが正解ではありません。本当の自分とは真我です。私はこの本の中で心のそして魂のさらに奥深くに存在する真我の本当の姿をみなさんに知って頂こうと思っております。そこには本当の安らぎ、そして平安があります。

 人生において楽しいことや喜びは、すべての人が経験するものです。喜びや楽しみを味わい、そして苦しみを乗り越えていく、それこそ人生の在り方だと多くの方が考えているのではないでしょうか。そして誰もがそれぞれの人生の中でもっともっと幸せになりたいと望んでいます。そのために喜びや楽しみは多く、苦しみは少なくと思われる選択を積み重ねています。

 しかし、そういった心の働きは喜びや苦しみに対するとらわれを増大させてしまいます。そしてそういった喜びや苦しみにとらわれることは、実は人間として生きることの意義というものを見えなくさせてしまうのです。

 なぜ自分が人間として生まれ存在しているのか、それは日々の喜びや楽しみ、苦しみを超越したところで理解できるものです。もし、あなたが真剣に魂の存在の意義を求めるならば、目の前の苦しみや楽しみに捕われるべきではないでしょう。

 魂はなぜ存在するのか―それは本当の自分、真我の境地に到達するためです。始まりとてわからないほど遠い過去から魂が求め続けているものです。当然お金をいくら積もうと与えられる類のものではありません。たとえ苦しみや楽しみに捕われず人生のすべてを費やしその追求にあてても、真我の境地はなかなか理解できるものではありません。

  たとえば、魂を堕落させる悪しき三つの要素、三毒といわれるものが存在します。この三毒は私たちの心の深い部分に根差しており、通常の魂は三毒に導かれるままどんどん悪い方向に落ちてしまうのです。ですから、これを断ち切るだけでも大変なことです。人間に生まれた魂がその生涯を修行に投じ、自己の浄化に努めたとします。そして、この三毒から脱却できたとしても、真我の境地に到達するためには最低でも人間として七回生まれ変わり、より一層修行に専念しなくてはならないのです。真我に至る道はそれ程困難であり貴いものなのです。

 この世の現象は自己の心を投影したものです。そのような心の世界において重要なのは社会的に成功することでも巨万の富を築くことでもありません。生きている間、どんなことを繰り返し繰り返し行為するのか、またはどのような意識を反復するのか、どんな業(カルマ)を積んでいるのかが問題なのです。自己の欲望を超えて、あらゆる宗教を超えて真理というものを体得することがすべてなのです。ここでいう真理とは究極の真理であり、菩薩としての真理を指します。自己の修行がただ単なる自己の浄化のための修行であってはいけないのです。

 涅槃、つまりニルヴァーナの境地とは真我の境地のことです。真我はすべてのパワーの源として存在しています。その境地とは相対的二元世界に非ず、絶対的非二元の境地です。そこは内も外もない、明も暗もない、これらの要素を超越しているのです。

 真我の世界を体感してください。そこには生きる上でのすべての疑問や問題を解く鍵が隠されています。そしてきっとあなたの心の奥深くに存在するたくさんの宝物に気づくことでしょう。

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真我への道 七覚支(しちかくし)

(2012/01/30)

覚者(悟りに至った方)に到達するための、七つの土台のことをいいます。

念覚支(ねんかくし)
真理のデータを記憶し、潜在意識にあるエゴ本位なデータを浄化し、真理のデータと入れ替えていくという、覚者に至るための土台。

択法覚支(ちゃくほうかくし)
記憶した真理のデータをもとに、時と場合に応じた、最もふさわしい法則を選択し使いこなすという、覚者に至るための土台。

精進覚支(しょうじんかくし)
ゆるぎない心をもって真理の実践にまい進していくという、覚者に至るための土台。

喜覚支(きかくし)
真理を実践できることの喜びをしっかりと認識し、さらにそれを増幅させていくという、覚者に至るための土台。

軽安覚支(きょうあんかくし)
真理の修行を実践していくことで心身を軽快にしていくという、覚者に至るための土台。

定覚支(じょうかくし)
真理の瞑想修行を深めていくという、覚者に至るための土台。

捨覚支(しゃかくし)
すべての現象に執着することなく無頓着になり、平等心を強めていくという、覚者に至るための土台。

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真我への道 ドーベルマン

(2012/01/29)

ドーベルマン 私は、小さな頃から友達や兄弟とけんかしても殴ったり蹴ったりということが出来ませんでした。取っ組み合いはしても、なぜか相手に大きなダメージを与えるようなことはできませんでした。

 それは夢の中でさえも同じでした。夢の中で、けんかしている相手を殴ろうと思っても腕が重たくて動かないのです。蹴ろうと思っても足が重くて動かせないのです。夢の中ですら相手をやっつけることが出来ないなんて、自分はなんと臆病なんだろうと幼心に悲しく思ったものです。

 今になって思えば、おそらく私は前世から徹底的に暴力から離れており、それを今生も引き継いだのでしょう。そのため私には「殴る蹴る」という暴力のカルマがなく、深い意識においても、そういったカルマを積んではならないという意識が根づいているのではないかと思います。譜面台

 唯一、そんな私が他に暴力を振るうにいたった夢があります。

 若い頃修行を始めて間もなくの頃、書見台(譜面台)に詞章を置き、その前に座って音読の修行を終えたあとのことです。そのまま弛緩瞑想をしていたのですが、いつの間にか眠りに陥ってしまっていたようで、目の前にドーベルマン種の黒い犬が私に向かってガルルッガルルッと吠えまくっていました。とっさに私は両手を使って犬の口をふさぎました。これで噛まれることはないと安心したのもつかの間、この手を離せば噛まれるんじゃないかと気付き、とっさに犬の腹を蹴り上げていました。そのとたん足に激痛が走り、なんと私は書見台を蹴り上げていたのでした。

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真我への道 五根五力

(2012/01/28)

 五根というのは5つの潜在性、ポテンシャルのことです。五力というのは5つの能力、アビリティーのことをいいます。このポテンシャルを大きくする努力が必要です。それは真理のデータを自己の潜在意識により多く蓄積するということであり、それにより多大に真理の実践ができるということです。例えば、10のポテンシャルを20のポテンシャルにしていく、そうすれば10の能力が20の能力としして顕現する、というように。


五根

信根(しんこん)  真理を信じられる潜在性

精進根(しょうじんこん)  不退転の決意をもって真理の修行に対し努力できる潜在性   

念根(ねんこん)   真理の法則を記憶し繰り返し、法則を自分のものにできる潜在性

定根(じょうこん)  深い瞑想に至れる潜在性

慧根(えこん)  真理の智慧を獲得できる潜在性

 

五力


信力(しんりき)  真理を信じることが出来る力

精進力(しょうじんりき)  不退転の決意をもって真理の修行に対し努力できる力          

念力(ねんりき)  真理の法則を記憶し繰り返し、自分のものにできる力

定力(じょうりき)   深い瞑想に至れる力

慧力(えりき)  真理の智慧を獲得できる力

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真我への道 羊肉(ラム・マトン)はエネルギーを上昇させる

(2012/01/27)

 このタイトルを目にして、ほとんどの方は驚かれるだろうと思います。エネルギーを上げる食品があることは理解できても、肉類を食すことでエネルギーが上がるとはなかなか想像がつかないことではないでしょうか。

 実際に修行を始めて間もない人は、ラムやマトンを食べることでエネルギーが上昇します。浄化が進みエネルギーの流れを実感するようになれば、それがよくわかることでしょう。特にマトンは匂いは強いけれど、ラムに比べてもエネルギーが上昇しやすいのです。

 なぜ、羊の肉を食べるとエネルギーが上昇するのか、それは古くから羊が神々に捧げられてきたという歴史があるからです。そのデータが羊の固体だけではなく種全体に刻み込まれているのです。そのデータがアーラヤ識に存在するために、羊肉は他の肉に比べて群を抜いて食べる者のエネルギーを上昇させるのです。

 しかし、ラムやマトンによって上昇するエネルギーは、慈悲の思念や真理の修行によって上昇するエネルギーとは質が異なります。一言でいってしまえば、粗雑なエネルギーというべきものです。その証拠に、修行が進み心身がより透明になれば、羊肉を食べてもエネルギーが上昇することはなく、マトンでさえ他の肉となんら変わらないと感じるようになるのです。

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真我への道 四如意足(四神足)

(2012/01/26)

 如意足(にょいそく)とは現象を意のままにする力、つまり神通力を手にするために、あるべき姿を示しています。四如意足(しにょいそく)と四神足(しじんそく)は同じものです。

欲如意足(欲願神足)
すべての魂を救済するために、ニルヴァーナに到達し仏陀になることを強く望むこと。それを決意すること。

勤如意足(精進神足)
自己の安穏を求めず、一心不乱に修行を進めること。

心如意足(心神足)
真理の法則を記憶することに日々集中し続け、潜在意識のエゴ本位なデータを、真理のデータに入れ替えること。これによりエゴを滅却していくこと。そして、修行の目的地であるニルヴァーナに到達することを思念し続け、それを確信すること。

観如意足(観慧神足)
この世界のすべては幻影である。なぜこのような幻影が生じているのか、真の智慧を持って思索し、幻影の意味を理解すること。現象に捕らわれている自己の意識を徹底的に思索し、真の智慧をもって目的地に到達すること。

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真我への道 甘露の原理

(2012/01/25)

甘露(アムリタ)の経験についてお話しようと思います。甘露というのは、インドでは不老不死の霊薬とされています。これはおとぎ話や神話の話ではなく、修行上の霊的な経験として存在しています。実際に、修行が進めば甘露が降り注がれる経験をすることができます。

 一般的に修行を進めていくと、この甘露の経験をすることができるといわれています。特に、徹底的に懺悔(ざんげ)を行うことで甘露の経験につながります。懺悔を徹底的に実践すると意識を下降させるアパーナ気が逆に上昇に向かい、頭頂にエネルギーが充満してきます。それが満ちたりると、ひんやりとした、冷たいものが頭頂に落ちてきます。そして、頭頂が冷たくなり不死の甘露が各チャクラを浄化してゆきます。

 修行中や瞑想中以外で、この甘露を経験するようになったのは、病院のソファに座った時が初めでした。大きな病院の待合室にある、ごく当たり前のソファに座るなり、いきなり頭頂がしびれ、冷たいものが溢れ出しました。不死の甘露が落ちてきたのです。

 これはどういうことかといいますと、本来は修行を一生懸命に行うことによって頭頂にエネルギーを充満させるわけですが、私の場合は煩悩を満たすことがありませんでした。よって、各チャクラよりエネルギーをロスすることもなく、チャクラを自分から汚すことはありませんでした。それにより浄化のために甘露が使われることがなく、常に不死の甘露が満ち満ちていて、それが当たり前なっていました。

その状態で、多くの人が座るソファに腰を下ろしたことにより、そこに残された多くの穢れ(煩悩的なエネルギー)が各チャクラから入ってきたのです。その穢れを浄化するために、何の集中することも無く自動的に甘露が落ちてきたのです。事実、この不死の甘露によって各チャクラは清浄になったのでした。

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真我への道 五下分結と五上分結から離れニルヴァーナに至る

(2012/01/24)

 

 ニルヴァーナに至るためには、自己が身にまとっている捕らわれをひとつひとつ外していかなくてはいけません。その無数の捕らわれ、一体どこから手を付けていけばいいのか。それはすでに古の聖人によって明らかにされています。私たちはこの法則にしたがって自己を縛っている捕らわれの意識を切っていけば、確実にニルヴァーナまで導かれるようになっています。

 それを五下分結(ごげぶんけつ)と五上分結(ごじょうぶんけつ)といいます。五下分結とは人間以下の下位世界に魂を結びつける、5つ捕らわれの意識であり、五上分結とは人間より高い世界に魂を結びつける5つの捕らわれの意識です。人間より高い世界とはいっても、ニルヴァーナまでの途中経過であり、無常の世界であることには変わりません。解脱のためには、やはり五上分結からも離脱しなくてはいけないのです。

五下分結

有身見(うしんけん) 無明により「自分」という存在が実在していると感じること。これにより自己保全の意識が生じ、排他的意識が生じる。激苦地獄を生む意識。
戒禁取(かいごんじゅ) 無明から生じた意識であり、真理ではない決め事を守ろうとする意識。例えばお百度参りなどが、これにあたる。これにより魂は低位の霊域にいざなわれる。
疑(ぎ)
真理の法則に対する疑念。これにより動物界が形成される。
貪欲(どんよく) 貪り。
瞋恚(しんに) 怒り。

五上分結

色貪(しきとん) 形あるもの、美しい形状・美しい容姿に捕らわれていること。
無色貪(むしきとん) 形なきもの、美しい心・美しい声・音楽にとらわれていること。
掉挙(じょうこ) 感動こそ素晴らしい、この人生を感動多きものにすることこそ正しく、素晴らしいのだとする心。道徳を守ることは正しい行為であるとする心。
慢(まん) 自分は完璧だと思い、満足する心。
無明(むみょう) 無智なるがゆえに真理に気付けないこと。または、自己の観念ゆえに真理を否定する心。二元の法則のすべてが幻影であることがわからないこと。


 この順番に、捕らわれの意識をなくしていきます。下の世界に通じる道から断絶しなくてはいけません。よって、五下分結から切っていきます。

 特に、下から三つの「有身見(うしんけん)」「戒禁取(かいごんじゅ)」「疑(ぎ)」を合わせて三結といいます。三結とは、魂を三悪趣(激苦地獄・迷妄地獄・貪り地獄)へといざなう、悪しき要素です。この三結を完全に切ることができれば、いかなることがあろうと、志半ばで死を迎えようと真理から離れないようになります。ですから、真理に気付いた者はまずは三結から脱することに努めなくてはいけません。そして生死を越え、ニルヴァーナへと至る道筋を確固たるものにしていかなくてならないのです。

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真我への道 今夜は雪

(2012/01/23)

今夜は、私の家の周りは雪が降っています。もう、5センチくらい積もったかな。朝までにどのくらい積もるかな。

こんなふうに平地に降り積もる雪は、地熱をさげて地震が起こらないようにしてくれている・・・かもね。

竜神様、がんばってくださいね。

 

真我への道 「私」とは何か

(2012/01/21)

「私」とは一体なんでしょうか。「私」というものは、どこからどこまでが「私」なのでしょうか。どこまでを指して「私」と認識しているのでしょう。私の肉体こそが「私」といえるのかもしれません。では、考えてみてください。私の腕だけを指して「私」といえるのでしょうか、私の足だけを指して「私」といえるのでしょうか、私の脳だけを指して「私」といえるのでしょうか。では、私の心こそが「私」なのでしょうか。

 この幻影球体世界において「私」なるものとは単なる主体を意味するものでしかありません。そして、この幻影球体世界においては身体さえもが、感覚器官よってのみ知覚されるだけの幻影なのです。感覚器官においてのみ「私」の存在は認識されます。

 なぜ、私たちはこの「私」なるものを必死に守っているのでしょう。果たしてその必要があるのでしょうか。なぜ「私」なるものは、かくまでに喜びを追い求めるのでしょうか。なぜ「私」なるものは、これほどまでに苦しみから逃れようとするのでしょうか。

 

真我への道 五蘊無我(五蘊:5つのちり。これら5つの要素には実体が存在しない)

 五蘊というものは五つの集まりであり、この五蘊によって「私」は形作られている、このように私たちは感じています。しかし、はたしてそれが正しい見解なのか考えてみましょう。


これは主体である「私」、あるいは「私の身体」をいいます。この「私」なるものが実存していると感じるために、生きているというだけで喜びが生じます。


これは感覚器官を指します。私たちには眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官が備わっており、この感覚器官を使って感覚を認識し、私たちはそれに対して様々な喜びを得ているのです。


これはイメージです。何かの言葉を聞いたときにイメージが作られます。イメージすることを喜び、楽しいと感じます。


これは意志のことです。これは何かのイメージを持ったときに、そのものに対して「何かを為したい」という意志。そして「私は何々が出来る。とてもうれしい」と、この行為できることを喜び、楽しむ心の動きが生じます。


観念をさします。「こうすれば、こうなる。ああすれば、ああなる。あすこには何々がある、ここにはこんなものがある」このようにして色々な観念を潜在意識に蓄え、真理というものを知らず観念をどんどん固定化していきますます。そして、このように形成された自分の観念を用いて、「自分はとても素晴らしい世界に住んでいる」あるいは、「こんな時にはこんな感動を呼ぶ。だから、とてもうれしい」と喜びを感じるようになります。

 

 この五蘊、色・受・想・行・識は、私たちに喜びを与えてくれます。しかし、それは同時に苦しみも与えます。

 例えば、が与える苦しみとは、主体である「私」なるものを守ってきたが、それが守られない状態になったとします。逃れようと思っても逃れられない。「私」が存在する限り、それはとても苦しいことです。

 例えば、つまり感覚器官が苦しみを呼ぶこともあるのです。感覚器官を使って理解したものが苦しみを与えるのです。嫌なものを聞く、見る、味わう、触れる、あるいはいたみそのもの、それらはとても苦しいものです。逃げ出したくもなるでしょう。

 、イメージにしても同じです。イメージするものが気持ち悪いものであったり、吐き気がするようなものであったり、あるいは恐怖そのものであったり。イメージそのものに苦しめられます。

 次の、意志も同様で「何々をしたい」と思っても、それが出来ない状態であれば、苦しみが生じます。また、それが出来る状態であり、それが当たり前となっていたのにもかかわらず、突然それが出来ない状態となったとしましょう。そこで渇愛が生じ、苦しみに襲われます。

 最後のつまり観念ですが、例えば自己の観念が覆されるようなことがあればとても苦しい。自己の持っている観念にしたがって「これはこうなんだ、これは正しいことなんだ」と思っていても、それを正当に覆されることはとても苦しい。自分の観念が間違いだったことを知ることは、とても苦しい経験です。

この五蘊というものは、「私」を形成しているものと思われています。しかし五蘊は、私たちに苦と楽の両方を経験させます。この五つの集まりはある時は苦しみであり、あるときは喜びであるのです。このように条件によって変化するもの、本質ではないものには実体があるといえません。つまり、空であり無我であるといえるのです。私たちを形成するものに実体はないのです。五蘊というものは幻影であり、真我の領域には存在しないものなのです。

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真我への道 過去の自分とのエネルギー交換

(2012/01/20)

 日々の修行を休まずたゆまず行い、常に心を真理と慈悲から離さないでいれば、確実に自己のカルマは変化してきます。しかし実感としては、昨日の自分と今日の自分は一向に変っていないような気がします。それどころか、修行を始めると怒りや嫌悪、貪り・性欲などの煩悩が強くなったように感じられることもあるでしょう。しかし、別にそれは修行が後退したというわけではありません。

 私たちは、無始の過去より延々と現象に捕らわれ、自己の穢れを形成してきました。そして、その穢れを膨大に蓄積させています。修行を始めれば、真理のデータを取り入れ新たな穢れの発生を抑えるようになります。またすでに蓄積させてしまった穢れに関しては、それを強いエネルギーによって切り崩し、昇華させていくことができます。この強いエネルギーが上昇することによって、自己の穢れがスシュムナー気道にどんどん崩れ出てきて、自分の今現在の意識にその穢れ(煩悩的思考・欲求)が浮かび上がってきます。

 そのため自己の煩悩が増大したように感じられるのです。それが自分の修行は進んでいないのではないか、後退しているのではないかと感じてしまう理由です。しかし、これは穢れを昇華させる前段階です。もともとその穢れは自己のものであり、どこからか降って出てきたものではありません。そして穢れを意識の奥底に眠らせているだけでは、その穢れは昇華されることは絶対にできません。表に現れ出た煩悩的意識に心を乗せないで淡々と修行に専念する、もしくは慈悲の思念を続けていけば、自己の持っているカルマは徐々に変わるのです。

 修行によってカルマが変化した証拠として、過去の自分とエネルギー交換をするとナーディーの詰まりを感じます。例えば衣替えをして半年間着ることのなかった服を着れば、半年前の自分とエネルギーの交換をします。無論、他者の洋服を着ることがあれば、強く交換します。しかし、たとえ過去の自分であっても修行によって急速にカルマが違ってきているために、他者とエネルギーの交換をするのと同じようにナーディーが詰まりエネルギーが滞ります。しかし過去の自分の穢れも他者の穢れも同様に、修行によって昇華することが出来ます。

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真我への道 イオン治療器

(2012/01/17)

タカダイオン先日、友人に電子治療器なるものを教えてもらいました。マイナスイオンにより、万病の元である活性酸素を無毒化していく、家庭用の医療機器です。「タカダイオン」(医療用具承認番号15800BZZ00780)という商品です。膠原病などにも効くそうです。

 その機器が原爆症に効果的という研究結果があるということを知りました。この機器は、放射能によってダメージを受けた細胞を正常化するのだそうです。福島の原発問題のために急激に需要が高まっているとのことでした。

 類似品は多く出回っているようですが、それらは交流式の製品であり、効果があるのは直流式のものだけのようです。

 食品添加物と同様に放射能もなるべく遠ざけ、修行に、慈悲の実践にまい進していくのがいいだろうと思います。

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真我への道 共用の椅子に座ると他者のエネルギーが入ってくる

(2012/01/16)

修行により自己の浄化が進んでくると、この世界の中で自分と他者との間でいかにエネルギーの交換をおこなっているのか、ことあるごとに理解させられます。それを理解できるのは自分の浄化が進み、修行をしていない人より抜きん出たからこそです。それまでは周囲の人たちと横並びであったために、エネルギーの交換をしていても気付くことがなかったのです。

 例えば、公園のベンチや電車の座席、病院の待合室のソファーなど共用の椅子に腰掛けると、その椅子を使った多くの人とエネルギーの交換がされます。私たちのエネルギーというものは、椅子に座るとそこに残留思念のように残ります。その椅子に座れば、自分のおしりから他者の残したアパーナ気が入ってきます。修行者は通常アパーナ気が撤退していますが、外からアパーナ気が入ってきてそれが優勢になると、自己の意識は低下してしまいます。共用の椅子に座ると足が重だるくなったり、下に引っ張る重力が増すような感じがするようになるでしょう。これを少しでも軽減させたいのなら、自分専用の座布団を携帯しどこでも使うようにすると、かなりエネルギーの交換は薄れます。

 このように書きますと、共用の椅子やベンチに座ることに抵抗を感じるようになってしまうかもしれませんが、食品添加物の項目で書いたようにどんなに意識が低下しようと、また修行をすればいいだけです。他者とエネルギーの交換をしどんな穢れを引き受けても、それを修行によってクンダリーニを上昇させ昇華できるのです。

 私たちはこの世界にいる限り、あらゆることで他者とエネルギーの交換を行ています。何もしなければ、他者と自分のエネルギーは均一になり、修行を始める前の状態に戻ってしまいます。しかし修行をしていけば、ただ普通に生活するだけでも自動的に他者の穢れを吸収します。慈悲をもって修行を続ける限り、この世界で現実に他者の苦しみ(穢れ)を引き受けるということを実感できるようになります。

 何度も言うように、この世界は自己の心の現われであり、他者の穢れは自分のものにほかなりません。その穢れをひとつひとつなくし心を透明にしていく、私たちはそれを修行によって体感していけるのです。

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真我への道 サンカ・プラクシャーラナ・クリヤー(Shankha Prakshalana Kriya

(2012/01/15)


 以前紹介しました、エネルギーを上昇させるお茶やお水をたくさん飲むと、排泄のために使われるアパーナ気というエネルギーが撤退し、便秘になることがあります。そんな時にはサンカ・プラクシャーラナ・クリヤーという身体浄化法を行って排便を促しましょう。これを行えば、下剤を使わなくても大丈夫です。


@ぬるま湯2リットルにあら塩大さじ1.5〜2.5を入れ、溶かします。ここでレモンの絞り汁半個分を入れ均一になるように軽く混ぜます。レモン汁によってより効果的に腸内が浄化されます。しかし、なければレモン汁は入れなくても結構です。

Aこれを出来るだけたくさん飲みます。ガジャカルニーはすぐに吐き出しますが、今度は吐かずに胃から下に下がるまで待ちます。本来は塩水を飲んだ後、アーサナをとった方が腸が動きより早く排泄が促されます。しかし、大量の塩水が入ることで自然に腸は動き出しますので、何もしなくても問題はありません。

B便意が出てきましたら、トイレに行って排泄を済ませます。この時の便はおそらく通常と変わらないかと思います。

C同じ濃度のあら塩の入ったぬるま湯を用意し、また出来るだけたくさん飲みます。2回目以降はレモン汁は入れません。便意を感じたら、トイレに行きます。だんだん便がゆるくなっていきます。(ぜひ洋式トイレを使用してください。和式だと大変なことになります。)

D時間をおいて同じものを出来るだけ飲みます。これを繰り返し、合計10リットルくらい飲みます。その間、便意を感じたらトイレに行ってください。最後には、飲んだ水が透明なまま排泄されます。この状態になったら腸内が浄化されたということです。

E最後にぬるま湯1〜2リットルを飲んで、ガジャカルニー(いったん胃に入れてすぐに吐き出す)をします。

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真我への道 食品添加物について

(2012/01/13)

 私たちが普段口にする食品には、多くの有害物質が含まれているといわれていますね。 食品添加物、例えば化学調味料・保存料・着色料、その他にも危険視されている遺伝子組み換え食品、残留農薬、放射能汚染…食品をめぐる危険には多くの人が神経を尖らせています。一方では、そんなこと全く気にしない人もいます。では、真理を実践する者は食品に含まる有害物質、特に食品添加物に対してどのように考えるべきだと思いますか。

 食品に含まれている化学調味料は、かなり強い毒性を持っています。東南アジアでは、野犬狩りをするために味の素(グルタミン酸ソーダ)をたっぷり振りかけたステーキ肉を使うそうです。それを食べた野犬は全身が麻痺してしまうということでした。もちろん、日本の食品にはそれほど化学調味料を使うわけではありません。しかし、私はごく微量の化学調味料が入った食品を食べても、舌がしびれ荒れてしまいます。よって、なるべく化学調味料は摂らないようにしています。また、お弁当などに使われる保存料ソルビン酸Kなども毒性が強いので避けています。

浄化の修行をしている者は身体的にも浄化されていますから、ごく微量の有害物質であっても敏感に反応します。全身の気の管であるナーディに穢れが生じ、エネルギーが滞ります。ナーディが詰まった状態になるのです。そのため、修行者やヒーラーには自然食品や有機野菜しか食べない人もいます。

 しかし、この食品添加物で起こるナーディーの詰まりは、慈悲の実践により他者の苦しみを引き受けたときに起こる症状となんら変わりはありません。どういうことかといいますと、他者と関わる事でお互いのエネルギーが連動し、相手の穢れが入ってくるのです。その時自分の浄化が進んでいればいるほど、相手が煩悩的であればあるほど、相手の煩悩(穢れ)によってナーディーが詰まります。

 しかも、他者の煩悩を引き受けることで起こるナーディーの詰まりと、食品添加物によって引き起こされるナーディーの詰まりを比べたなら、煩悩によるものの方がはるかに大きいのです。それほど煩悩は毒物であって、その毒性というのは強いのです。

 これらのナーディーの詰まりは、修行によって穢れを昇華すれば再びきれいに通すことが出来ます。食品添加物の毒性であろうと、他者の穢れであろうと関係なく修行によって昇華できるのです。ですから、修行している限りは食品添加物の毒性に対してそれほど神経質になる必要はありません。修行していない一般の人のように、食品添加物の毒を体内に蓄積させることはないのです。「食品添加物はなにがなんでも避けるべきものではないけれど、なるべく避けたほうがよいもの」、その程度にお考えいただければよいかと思います。食品添加物を避け自然食品だけを受け付けるというのは、度が過ぎればそれが“捕らわれ”になってしまうからです。

 しかし、同じ穢れが入ってるならば、相手の穢れを引き受け慈悲を培うことの方がはるかに意味のある事です。添加物の入った食品を漫然と食べることによって穢れ、それが修行によって昇華されたとしても、そこに精神的な成長は何もありません。それならば、なるべく食品添加物など毒性の強いものを避け、その分は他者の苦しみを引き受けることにまわすべきではないしょうか。本来、修行は他者の煩悩の穢れ(苦しみ)を引き受けるためにあるのですから。(他者の穢れとは言っても、それは自己の穢れにほかなりません。)

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真我への道 功徳のちから

(2012/01/13)

以前、功徳というエネルギーが存在し、それを使って人生を思い通りに繰り広げられるということを話しました。しかし功徳の力はそれだけではありません。なぜなら、人生が思い通りに行かない人、不幸な人は功徳が全然ないというわけではないからです。その人も自分の功徳を持っているし、しっかり使っています。実は「生きる」ただそれだけで功徳はどんどん消費されているのです。

 例えば、無謀な運転をしても全く事故に遭わない人がいますね。そういう人は思いっきりスピードを出そうが、よそ見運転をしようが、安全確認を怠ろううが、事故を起こしません。その人は「自分は運転がうまいから」と思っているかもしれませんが、そうではありません。知らないうちに自分の功徳を思いっきり使って、事故を避けているだけなのです。そのまま功徳を浪費し使い果たせば、事故を引き起こすことになるでしょう。

 例えば、歩道を歩いていたらいきなり車道から車が突っ込んできたとします。自分は寸前のところで助かったけど、前を歩いていた人は亡くなってしまったとします。きついことを申し上げるようですが、その 差は単に“功徳があったのか、なかったのか”それだけなのです。

 それが事故などではなく故意の殺人であっても同じことです。誰かの恨みを買って殺人の対象にされる、それも功徳がないためです。私たちは生きているだけで、多大な功徳を使っています。功徳によって守られているのです。もっとはっきり言ってしまえば、功徳がなくることは死を意味します。ですから命を保つために、私たちは知らぬ間に多くの功徳を使い功徳の貯金をすり減らしているのです。功徳がいかに大切なものか、おわかりいただけたかと思います。

 なるべく功徳を浪費しない生き方とは、慎重に一番安全と思われる道を通ることです。そして、注意深く万事に当たるべきでしょう。自分の運を試すような生き方はするべきではありません。また、基本的に自分の事は自分ですることです。自分の使ったものは自分で片付けるべきですし、自分が必要なものは自分で用意すべきです。しかし、時間的に技術的に自分で出来ない場合、または相手がそうしたいのであれば、してもらったことに対してきちんと感謝することです。それに見合った報酬を渡すことです。

 生きるために使う功徳、その余剰分の功徳を使って私たちは人生の幸福をあがなっているのです。今「節約」が流行っていますが、節約すべきなのは時間でもお金でもなく、功徳なのです。すべての人が、功徳を意識して生きるようにならなくてはいけないと思います。もしそうなれば、人を騙(だま)して甘い汁を吸おうとする人も、身勝手な人もいなくなるでしょうから。

 真理に従って生きる者も同様です。常に功徳を意識して生きるべきです。自分の持つ功徳を無鉄砲な生き方をしてすり減らしているようではいけません。そんなことをしていれば、修行を進めるための功徳がなくなるのは必然です。真理を実践するために、実に多くの功徳が使われているのです。ですから自分の功徳というものを意識せずに修行を行っていくと、必ず真理が見えなくなります。どういうことかというと、功徳がある時はまず真理を信じることができます。例えば、功徳があれば私の語る言葉を「本当かもしれない」と思うことができます。しかし、功徳が尽きてくると強烈な疑念、「たわ言に過ぎない」という思いがわき上がってきます。そして、せっかくめぐり会った真理から離れてしまうのです。理性的に考え熟慮した上で「真理ではない」という結論に達したとしても、それすら功徳が切れた現象に過ぎません。こうして多くの人が功徳が尽きて真理から離れていきました。いったん真理の流れから離れたら、また真理の流れに戻ってくるのに、どれほど多くの功徳を積みなおさなくてはならないことか。それだけで無数の生が費やされることになるのです。

 私は、真理を実践してもらうにあたって、必ずその人の霊性を高めるような浄化の修行と、功徳を積めるような修行を組み合わせて伝えるようにしています。例えば、以前紹介しました「三宝帰依真言」は浄化を進めるものですし、「経験の構成」真言は利他を培い功徳が積めるようになっています。2つを一緒に実践していくことで、確実に修行を進めることが出来ます。浄化も大切ですが、慈悲を培っていくことのほうがより大切です。

 今日、こんなことがありました。私の本に出会い2ヶ月前から修行を始めてくれた女性から電話がかかってきて訴えられました。修行をすると浄化が起こって苦しくて、毎日の修行ができないでいる、どうしたらいいでしょう、そんな内容でした。この人はもともと霊性が高く、エネルギーにもかなり敏感でした。修行の効果、エネルギーの上昇も敏感に感じ取っているようでしたが、それで修行が出来ないというのは明らかに功徳が足りない状態です。その人には以前から功徳を積む必要がありましたから、そのようにアドバイスしていたのですが、なかなか実践出来ないでいました。“功徳を積む修行をしてください。日々誰かのために動いてください。慈悲を思念してください。”その他に“お友達でも誰でも、私の本(『真我の料理教室』)を渡してあげてください。”そのように伝えました。その人は、私との電話をきった後しばらくして、アドバイスにしたがって本屋さんに電話をかけ私の本を5冊注文したそうです。もちろん誰かに渡すためにです。

 その後、その女性からまた電話がかかってきて、興奮した声でこんなことを教えてくれました。本屋さんへの注文の電話を切ったとたん、急に強いエネルギーがやってきて、それが他では感じたことのないほど強いエネルギーだったこと、サハスラーラ・チャクラが開くような感じがしたことなど。そして最後に「いろいろやってきたけど、とうとう本物(真理)に会ったのね」そんな言葉が聞かれました。その人は思い切りがいい人で、その後も同じ本屋さんで3冊も注文してくれたそうです。

 今日のこの出来事は、法施(真理の法則を他者に伝えること)がどれほど素晴らしく、いかに多大な功徳を積めるかを教えてくれています。まだ本を誰かに渡したわけでもなく、そうしようと思って本を注文するという行動を取っただけで大きな変化がありました。そこで彼女自身が大きなエネルギーを感じたことで、急激に真理に対する信、私の言葉に対する信が生まれたのです。これが功徳のちからなのです。このまま功徳を積み続ければ、自然と真理の流れに身をゆだね、彼女は自分でも予想だにしなかったほどの高い世界にいざなわれることでしょう。

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真我への道 声の変化

(2012/01/12)

 日頃から真理についてばかり語っている人と、日頃うそや綺語(不必要な言葉)、悪口ばかりしゃべっている人の声を比べてみると、その二つの声の質には、はっきりした違いがあります。

 真理を背景とし正しい言葉を話している人の言葉には力が宿ります。現象をより良く変えていく力があるのです。そのような声を聞いた人は知らぬ間に意識が上昇し、修行が進みます。一方、反対に日頃正しくない言葉や煩悩的な言葉を話す人の声を聞くと、聞いた人の意識はいつの間にか低下し、修行が進むことはありません。このような現象は、声を聞いただけでも意識の連動が生じるために起こります。カルマの交換が起こっているともいえます。

 ですから、うそや不必要な言葉、誰かの悪口は慎むようにしましょう。そして、いつも真理を思い、正しい言葉を語るようにしていってください。

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真我への道 心を内側に向ける 

(2012/01/11)

 今、世界情勢は最悪の時を迎えつつあります。このサイトでも以前は予言をしたりしていましたが、予言が当たるか当たらないかというのは本来あまり重要ではありません。 そこに集中しすぎて外側の現象に捕らわれてしまっていては何もなりません。

例えば戦争が起こるだとか、貨幣経済が崩壊するだとか…そういう危機はこれから生じてくるかもしれませんが、それすらこの幻影球体世界の中の変化に過ぎないのです。あくまでも自分の心が映し出した幻影に過ぎません。

 自己の慈悲を強めていくならば、あるいはクンダリーニが何たるか、あるいは真理の修行の何たるかを見極めていくならば、外側の世界のことは重要ではありません。すべては自己の心の中のことであり、自己の心の中に眼を向けるべきなのです。心の内側に意識を向けてこそ、瞑想は活きてきます。

 みなさんも外側の現象に心奪われるのではなく、心を内側に向けて自己の性格、身・口・意における行動をしっかりとチェックしましょう。そして、しっかりと焦点を真理というものに合わせ、実践していってください。

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真我への道 修行法の伝授と漏洩の違い 

(2012/01/10)

 指導者から伝授された修行法を弟子が第三者である他者に漏洩するということは何を意味するのでしょうか。

 まず、修行法というものがどういうものであるかということを説明しなくてはいけません。指導者から修行法を与えられた弟子はその行法を実践することにより、急速に自己の穢れを昇華することができます。修行法を実践することにより、指導者と弟子の間で非常に強くカルマの交換が生じるからです。その修行法が真理の法を伝えるものであるならば、真理の叡智が弟子の潜在意識に入ってきます。その分、指導者には弟子の持つ迷妄なる地獄のカルマが入っていくことになります。穢れの昇華というものは、このように自分より高い意識にある方とのカルマ交換によってのみ可能なのです。師が自分の穢れを引き受けてくれることによってのみ、弟子は穢れを昇華できるのです。弟子が一生懸命修行すればするほど、このカルマの交換は強く起こり穢れは昇華されます。

 弟子が修行法を第三者に漏洩するということは、弟子とその漏洩の相手である他者との間でカルマの交換が起こるということです。相手の地獄のカルマが移行し弟子にその地獄のカルマが現れたり、あるいはそのカルマが蓄積されます。その無智なる地獄の経験、迷妄地獄の経験はとてつもなく恐ろしく強烈です。大抵の人はその恐ろしさを真っ向から受け止めることができないでしょう。ですから、絶対に伝授された修行法は漏洩してはいけません。相手が家族や親しい友人であってもです。

 では指導者が、自分の師によって与えられた秘密の修行法を自分の弟子に伝授をした場合、漏洩ということに当たらないのでしょうか。弟子と第三者、指導者と弟子、両方ともカルマの交換が行われることは何も変わりません。教えた者に地獄のカルマが必ず移行します。違いは、指導者には初めから弟子の地獄のカルマを受け取る覚悟があるということです。弟子に代わって地獄の経験をするつもりで修行法の伝授や勧請(かんじょう)を施しているのです。指導者はその強い意志によって、現象に対して捕らわれない心によって難なく地獄の経験をすることができるのです。これが漏洩と伝授の違いです。

 やはり慈悲の太陽神の加護なくしてはすべて漏洩にあたると考えられますので、修行法を第三者に漏らすことは決してすべきではありません。

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真我への道 食(じき)への捕らわれを外すにはどうしたらよいか(2

(2012/01/09)

 十年以上前から私はコンビニに行っても、あるいはスーパーに行っても何か漠然とした買い物への欲求があるだけで「今日はこれを買って食べようか」などと思っても、いろいろと考えてしまいなかなかその商品を実際に買う気になれません。お惣菜を見ても「ああ、これは身体を汚す酸化した油がきついだろうな」と思ったり、原材料を見て「これは身体に良くない添加物が使われているからやっぱり良くないな」と思ったり。そういったことがなくても「これを食べたからといって、食後に満足感は得られないだろうな」などと考えてしまいます。ぐるぐる広い店内をめぐって、いろんな商品を物色してみるものの結局買うものがないという状態です。昔は、もちろんそんな事はなくて普通に自分の食べたいもの、好きなものを買えたのですが、今は食べたいものというものがほとんどありません。これはひとつひとつの食品に対する、自分の観念が変わってきたせいです。

 自分の好物に対して「これは美味しい食べ物だ」と感じることも、単なる自己の観念のデータでしかありません。その観念(潜在意識)のデータが変われば、好物でさえその他多くの食品と同じです。そうなれば、実際に食べるべき食品というものは非常に少ないということに気が付かれるでしょう。

 食べ物に対する捕らわれとはまさにそういったものです。実際、ほとんどの食品は身体を汚すものばかりです。ただ単にムシャムシャ、ポリポリと食べるだけでなく「この美味しいと感じる感覚はどういったものか、この食品は果たして自分の身体にとって本当に必要なものなのか」しっかりと吟味しながら食べてみると良いかと思います。

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真我への道 食(じき)への捕らわれを外すにはどうしたらよいか 

(2012/01/08)

人はそれぞれ、自分の好きな食べ物、美味しいと思う食べ物がありますね。しかし、そんな当たり前と思われがちな食への捕らわれですらいつかは離れなくてはなりません。

 好きなものを食べるとき、出来るだけ高い世界にいる神々を観想し、自分の身体を使って食物を神々に供養しているのだと思って食べましょう。自分が食べているのではなく、高い世界の神々が召し上がっているのだと考えましょう。そうする事によって、神々の高い意識、捕らわれのない意識が連動し捕らわれが外れやすくなります。

 しかし、どうしても美味しいもの、好きな食べ物への捕らわれが強く根深い場合は、どうしたらいいでしょうか。その食べ物を食べる時「美味しいな、嬉しいな」と思って食べていたのでは、いつまでたってもその捕らわれは外せません。

好きなものを食べる時には「いつかこの捕らわれをなくすんだ。いつかこの捕らわれをなくすんだ。これに捕らわれている限り衆生済度などもってのほかだ。これに捕らわれていれば必ず渇愛が生じ自分は苦しむことになる。いつかこの好きな食べ物への捕らわれを外すんだ」と思うようにしてください。このように心の中で思うだけでも大変な効果があります。

その言葉通りにしっかり考えなくとも、食べ物というものは本来そのように見るべきものなのです。食事のとき、そのようにぱっと思うだけでも十分です。そうすることによって何ヶ月、何年かの後にはきっと食への捕らわれが外れてくるでしょう。

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真我への道 四預流支(真理の流れに心身をゆだねる、4つのプロセス) 

(2012/01/07)

  1. 三宝帰依の実践。
  2. 潜在意識の、自己本位なデータを真理のデータに入れ替えていくこと。
  3. 真理のデータに照らし合わせて自己の行為を思索すること。
  4. 実際に真理の実践をすること。

この四預流支の実践がしっかり出来るようになれば、たとえ死後、転生をしても真理の流れから離れることなく次の生も真理を実践することができるのです。

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真我への道 ガジャ・カルニ(Gajakarni)ガジャ・カルニ 

(2012/01/06

 ヨガの浄化法ガジャ・カルニ(Gajakarni)をご紹介しようと思います。この浄化法を行うことにより、粘液体質が改善されます。消化の炎を強め、エネルギーを頭頂にまで集めます。

 胃の中に何も食物が入っていない時を選んで行います。まず、ぬるま湯(微温湯)2リットルに対して、塩大さじすりきり1〜1,5杯を入れ溶かします。ペットボトル等2リットル以上の容器にぬるま湯を入れ、一気に飲んでください。二リットル以上、できるだけ多く飲みます。小柄な方や女性は一度に2リットルは飲めないかもしれませんが、なるべく多く飲むようにしてください。

 飲むときの姿勢は、しゃがみこんで踵(かかと)を床に付けて胃を圧迫させる形を取るのがいいでしょう(踵が床に付けられないようなら、つけなくてもよい)。これは、胃の中でぬるま湯がたまらないでどんどん下がってしまうのを防ぐためです。

ガジャ・カルニ できるだけ多くのぬるま湯を飲んだら、今度はそれを吐き出します。吐くときは足を肩幅くらいに開いて腰から全屈させます。そして腹直筋をまわすようにして、ぬるま湯を吐き出します。これが出来ない人はおなかを膨らましたり凹ませたりしてペコペコさせるてください。気持ち悪くなってきたら、そのまま口外へと吐き出してください。それでも吐けない場合は人差し指と中指の2本を舌の奥に差し入れ、舌を圧迫し吐き出してください。この時、つめでのどを傷付けないようにしてください。

 これを2リットル×3回で合計6リットル分繰り返してください。必ず最後の2リットルは塩分無しで行い、同じようにできるだけたくさん飲み、すぐに吐き出してください。
10リットルでガジャ・カルニを行う場合でも、そのうち最後の2リットルは塩分無しで行ってください。量が増えても最後の塩分無しは2リットルに変わりはありません。

 慣れないうちは吐き出すのに時間がかかり、どうしても胃から下がってしまいます。慣れれば、難なくぬるま湯を吐き出すことが出来るようになります。

 できるだけたくさんのぬるま湯を胃の中に入れて胃を膨らませると、胃壁の繊毛を広げられます。油ものなど多く取り過ぎて胃壁が荒れていると、その時に繊毛の奥深くからうっ血した血が流れ出します。これは、胃が硬直しているために胃に滞留した血液が流れ出すためです。心配することはありません。

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真我への道 蓮華座について(2)

                                         (2012/01/04)

 なぜ修行中、蓮華座を組んだ方がいいのかといいますと、それはエネルギーと関連しています。

 アパーナ気という、足裏から下に向かって放出されるエネルギーがあります。蓮華座を組むと両方の足裏が天井を向きます。そうしますと、足裏から放出されるアパーナ気が頭のほうに向かうことになります。つまり、下方に向いていたアパーナ気が上昇のエネルギーに転ずるのです。そしてアパーナ気がクンダリーニ・エネルギーを上へ上へと押し上げるようになります。ですから修行中に蓮華座を組めば、より効率よくエネルギーを上昇させられるのです。
 
 蓮華座とは別の座法ですが、シッダアサーナという座法があります。蓮華座と同じように両膝を曲げ、それぞれの踵(かかと)を会陰と恥骨において性器を挟むようにします。これは踵から出るアパーナ気を性器に連動させ、クンダリーニを上昇しやすくさせます。

次に難易度は高いのですが、両足裏を合わせ、その両足の踵を会陰に付けるようにする座法もあります。これも同じように、アパーナ気を会陰から上昇させクンダリーニを上昇させます。

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祐徳稲荷神社     真我への道 三大稲荷
   
(2012/01/03)
     
 

 千本鳥居で有名な、京都の伏見稲荷大社を訪れたときのことです。伏見稲荷は本社・末社をあわせれば相当な数にのぼり、千本鳥居に代表されるように鳥居も数え切れないほどあります。特に本社の裏にある稲荷山にはかなり急な傾斜なところもありましたが縦横無尽に参道がはりめぐらされ、無数の小さな社で埋め尽くされています。まるで区画整理されていない墓地のようでした。そこはあまり人が参拝しませんし、お世話をしている人もほとんどいないように思われました。 

 私は本社はもちろんのこと、稲荷山にある無数の小さな社、そのほとんどにひとつひとつに手をあわせ、衆生済度のために祈りを捧げてきました。何時間もかけてひとつひとつの小さな社が祭っている神様全員と繋いで、救済の手助けをしてくださるようにお願いしました。数の多さもさることながら、人の手の入っていない社、きちんと敬われていない神様はなかなか繋がりづらく、わかっていたことですがとても大変でした。



また九州を旅した時ですが、それまで旅をともにしていた友人と長崎で別れ、ひとり電車で佐賀県にいきました。そして駅でバスに乗り換え、のどかな田舎町をバスでゆられながら鹿島市の祐徳稲荷神社にのんびりで向かいました。この祐徳稲荷神社は伏見稲荷と比べれば規模は小さいですが裏山に末社があり、そこに至る参道には鳥居がたくさんありました。伏見稲荷のことがありましたから「ここも大変なんだろうな」と覚悟して行ったのですが、末社の数自体もたくさんではなく、手入れもされているようで大した労もなくそこの神様と繋げることができました。

 

笠間稲荷  茨城の笠間神社は他の稲荷神社と違い裏山はなく、多くの神社と同じような感じでした。隅々まで手入れが行き届き、私が訪れた日はちょうど何かの祭事に当たったようで多くの参拝客がいました。ここでも同じように衆生済度の祈願をしましたが、なんなく神様に繋がりました。やはり、きちんと敬われている神様とそうではない神様は違うものだなと思ったものでした。

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真我への道 石積み

                                         (2012/01/02)

 昔私は知り合いと二人で、ある山の上にある神社にお参りに行きました。その社まで続く坂の途中、砂利道の横にはたくさんの灯篭が並んでいました。その足元には小石を積んだものが数多くありました。ずらーっと並んだ山積みの小石を見て、私は「あぁ、誰かが願掛けしたんだろうな」と思いながら、その灯篭に願を掛けた人の思念が自分に入ってくるような感じがして何だかとても嫌な感覚がしました。そして私の知り合いも、おそらく同じような感じを受けたのでしょう、そこを通る時その小石の山を蹴散らしていました。そうしましたら、小石を払い退けられて灯篭たちが喜んでいるように感じられました。石積みを作った理由が願掛けではなく単なる遊びであったとしても、思念がそこに入るという意味では結果は同じことでやはり作った人の穢れが入ってしまいます。

何ヶ月か経ってのち、おとずれた別の神社で同じように小石が積み上げられたものがありました。あの時感じたような嫌な感覚はあるものの、また違ったように受け取れたのです。

 誰かがその小石を積み上げ、そこにはその人の貪りの意識が確かに込められていました。しかし、それが私が感じたように願掛けのために積んだものであれば、それがどれだけ煩悩的な願いであろうが、どれだけマイナスのエネルギーを発していようが、どれだけそれがしんどかろうが、よく見れば灯篭たちはそれを黙々と受け入れているようでありました。小石に込められた貪りの意識に取り込まれる事なく、石を積んだ人たちの穢れをしっかりと受け止めていると感じられました。それどころか灯篭たちは、その人たちと縁が生じたことを喜び、その縁を大事にしているということが伝わってきたのです。私はもう、積み上げられた小石たちを取り除いた方が良いという意識には到底なりませんでした。

 そして、やはりこの世に生きている限りは菩薩として衆生のために働き、慈悲の念を強く抱きながら衆生のために精一杯生きることこそ素晴らしいのだと、こう思ったのです。

 

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真我への道 すり寄ってきた猫

                                         (2012/01/01)

 新宿の、とある神社にお参りに行ったときのことです。本社のお参りを済ませたあと、末社のほうにもお参りしようとそちらに向かったところ、境内にいた三毛猫がすり寄ってきました。

 おそらく野良猫なのでしょう、しばらく私のズボンにすがりついてゴロゴロ、ニャーニャーと甘えていました。「お前は何が言いたいんだろうね?」猫はおなかが空いて食べものをねだっていたのでしょうが、あいにく何も持っていませんから、まとわりつく三毛猫をなだめて末社に向かいました。

 そこまで行ってみたところ、この末社がかなり穢れを蓄積させているような感じを私は受けました。普段はそんな事はしないのですが、鈴の真下の基礎のコンクリートに手をあて穢れを自分に取り込み末社を浄化しました。それから「全ての衆生が真理を実践し、全ての衆生が慈悲を尊び、意識を上昇させますように」いつも通りすべての魂の救済祈願をして末社を後にしました。

 本社に戻ろうと歩き出したましたら、さっきの三毛猫がまだいました。さっきはこっちが困ってしまうほどじゃれついてきた猫が今度は私の顔を見るなり、フギャーと叫んで背中を丸めて威嚇しはじめました。なんだかものすごく怒っているようでした。「なんだ、この変わりようは?」とこっちも驚きました。私と距離を置いてからもなお、三毛猫は私が気に入らないようで睨み付けていました。

 その時、わたしは末社がため込んでしまった穢れを取り込んで穢れの塊のようになっていました。彼ら動物には、そのような気の変化がわかるのでしょうね。

 

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真我への道 蓮華座について

                                         (2011/12/28)

修行の際、組める人は蓮華座(結跏趺坐)を組んでください。蓮華座が難しい人は簡単に片足だけを太ももに乗せる組み方(半跏趺坐)でも構いません。蓮華座は、自分の組みやすい方の足を下にしてください。足が途中で痛くなったら途中で左右の足を組み替えてください。

半跏趺坐

 

真我への道 料理とエネルギーについて(2

                                         (2011/12/27)

数日前に、料理した人のエネルギーが料理に入るということをお話しました。それだけ聞くと、浄化の修行を進めている人は誰かの手料理を食べることを嫌悪するようになってしまうかもしれません。しかし、菩薩行を行っている者は、それではいけません。

 料理にエネルギーがこもるのであれば、それを利用して慈悲の実践をしていくべきでしょう。浄化が進めば、誰かの手料理を食べることによって頭痛や身体の痛み・倦怠感を感じることがあります。例えば、アナハタ・チャクラに捕らわれのある人が作った料理を食べれば、はっきりと胸に痛みを感じることがあります。浄化が進めば進むほど、一般の人とのエネルギー的な隔たりは大きくなりエネルギーを交換した時の痛みも強く感じられます。しかし、それを実感できるまでに自己の浄化が進んだことを喜びつつも驕(おご)らず、穢れが入ってくることを嫌悪せず料理を作ってくれた人の穢れが入ってきたら慈悲を持ってそれを受け入れてください。他者の穢れを自分が引き受けることによって、その分その人が苦しみから解放されたことを喜んでください。

 そして、あなたの目の前にいる他者はつまるところはすべて自己の心の現われであり、彼らの穢れも他者のものではなく、本来あなた自身のものです。自己に内在する穢れが、他者の手料理を食べることをきっかけに崩れ出てきただけなのです。ですから、その穢れが自分に戻ってきて、それを昇華するチャンスに恵まれたことを感謝しなくてはなりません。嫌悪することなど何一つ存在しないのです。

 お釈迦様やそのお弟子は托鉢などをして信者の布施によって食事をまかなっていました。それは、手料理を慈悲をもっていただかなくてはいけないのと同じ理由です。一般の人は自分で穢れを昇華することはありませんから、その人たちの食物を受け取る事でその人たちの穢れも一緒に引き受けます。それを出家僧は自己の穢れとして修行により昇華していくのです。出家僧はそれにより功徳を積むことができますし、食物の布施をした信者も布施を積むことができます。このような仕組みによって多くの人が真理の実践ができるようにお釈迦様は取り計らったのです。

 自分が料理をしそれを修業していない一般の人に食べてもらうという機会があるのなら、その時は慈悲の思いを込めて調理してください。自分の最良のエネルギーがその人に行くように、それによってその人が苦しみを軽減させることができるように、自分とのエネルギー交換によりその人がいつか真理にめぐり合うように、そのような思念を持って調理しましょう。逆に煩悩的な意識をもって調理するようであれば、自分の煩悩的な意識が移行し悪業を積むことになってしまいます。

 これは調理以外のことでも同じです。何をするにも、自分が今行っている行為は果たして慈悲によるものなのか、そうでないのか真理に照らし合わせて考えなくてはなりません。それができるようになったとき、あなたの経験する世界はまったく別のものに変化していることでしょう。

 もし、あなたが自分以上に修行の進んだ師や先達に自分の手料理を召し上がってもらうようなことがあるのならば、自分の穢れをその方たちが引き受けて下さるということですから、謙虚さと感謝とをもって細心の注意を払い調理すべきでしょう。神様に捧げるお供物も同じです。自分にできる精一杯の努力をして、なるべくおいしいものを捧げるほうがいいのです。神々や師に対する帰依は自分の進むべき道を照らしてくれます。

 

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真我への道 初詣に行く予定の方へ

                                         (2011/12/26)

 お正月、初詣に神社へ行かれる方も多いかと思います。例年はご自分やご家族のことで願掛けされるのでしょうが、2012年のお正月はどうぞすべての魂のためにご祈願してください。

「この神社に初詣に来る一般の人が真理の実践ができますように、どうぞ真理に結び付けてくださるようお願いいたします。その功徳により、神様ご自身も真理の実践ができますように。」

このように神社の神様にお願いしてください。ひとりでも多くの方が菩薩としてこのような祈りをささげることは非常に意味があることだと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

真我への道 剃髪の利点について

                                         (2011/12/25)

皆さんも感覚的にお気づきかもしれませんが、私たちの髪の毛は記憶を蓄える性質があります。髪の毛を切ると、とってもさっぱりしますね。それは髪の毛とともに過去の記憶が断たれるために気持ちが軽くなるためです。

 例えば髪の毛が一日0.1ミリ伸びるとしたら、その0.1ミリの髪の毛はその日一日の現象を瞬間毎に記録しているのです。自分がその瞬間に経験した現象が髪の毛に刻み込まれています。その部分の髪の毛に集中し瞑想すると、その時自分が何をやっていたかということがよくわかります。

 1ケ月、2ケ月、もしくは1年、2年と髪を伸ばし続けるのは、1ケ月前、2ケ月前、もしくは1年前、2年前という過去の現象に捕らわれて引きずっている状態です。より正確を期せば、この世界は私たちの心の現われですから過去を引きずっているというよりも、一ヶ月、二ヶ月前の現象とその髪の毛がオーバーラップしている状態であり、過去と現在が常に連動し合っている状態といえましょう。

 この世界にはプラーナというものが存在しています。私たちはこのプラーナを摂取することで自分の生命を維持しています。プラーナは空気の中に、また食物の中にも含まれています。私たちは空気を吸うことで、また食物を摂ることで体内にプラーナを取り入れ、それにより生きているのです。このような意味においてプラーナは私たちの身体を維持する栄養のようなものとお考えくださってよいでしょう。

 呼吸や食事以外に、このプラーナを私たちは髪の毛からも取り入れています。髪の毛がちょうど皮膚呼吸しているとお考えいただければよいかと思います。過去の記録の蓄積である髪の毛をフィルターにしてプラーナを摂取すると、過去の自分の意識がよみがえります。髪の毛が蓄えている過去の情報に現在の状況が影響を受けているのです。例えば自分が過去に現象に捕らわれていれば、現在も過去と同じように現象に捕らわれやすくなってしまうということです。

 修行者が剃髪にするということは過去の自分の記録を引きずらないですむというメリットがあります。そうすることで、現在の意識が現象に捕らわれにくく、新たなカルマを積まないですむようになります。 お釈迦さまの弟子の男性出家修行者にとって剃髪は当たり前でした。その流れを汲んで日本仏教のお坊さんも剃髪にするのが当たり前になっています。しかし、なぜ剃髪になったほうがよいのかという事は日本のお坊さんには見えないことでありましょう。

※話として載せたまでで、剃髪をおすすめしているわけではありません(念のため)。

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真我への道 薬について

                                         (2011/12/24)

 病気になったら、大抵の人は薬を飲みますね。ちょっとした風邪ならあたたかくして休めば直るけれど、そうでなければ薬や痛み止めを飲んだりぬり薬を付けたりして治そうとします。

 しかし実はカルマ的に見たら、これはあまり良いことではないのです。人がなぜ病気になるのか、それはその人にその病気のカルマがあるからです。時に例外はありますが、ほとんどの場合は病気のカルマによるものです。特に修行の道に入った者が病気を経験するならば、それはすべて浄化作用です。自己の穢れが昇華される前に表に出てきた状態です。自己の奥深くに潜在している穢れはまず表に引っ張り出さなくては浄化されないのです。

 この浄化作用である病気を薬で押さえ込んだらどうなるでしょうか。せっかく表に現れた穢れを再び潜在意識にしまい込むことになってしまいます。薬や積極的な治療は病気の症状を消したり軽減したりしますが、病気の根本的な原因である穢れはなくなりません。いつかその穢れは再び現象化してきます。つまり、薬や治療は単に現象を遅らせるだけなのです。しかも「苦しいのはいやだ、病気はいやだ。逃げたい」という意識により苦しみに集中してしまっています。この集中により、その現象が再びやってきたとき病の症状はより深刻に苦しいものとして感じられます。

 やって来たカルマを乗り越える方法は逃げないこと、それが良いカルマでも悪いカルマでもそこに集中しないことです。淡々とそれを受け入れることです。命に関わる病、危篤な症状・深刻な事態に発展する恐れがないのなら、なるべく薬は飲まないことをお勧めします。中学生くらいまでのお子さんは、親の判断で勝手に薬を使わないと決める事は出来ませんし、みんなと同じように薬を使ったり予防接種を受けたりするのは仕方ないかと思います。しかしカルマというものを考慮するならば、職場や家庭において他の人の迷惑にならないのであれば、出来る限り薬に頼らないようにすべきでしょう。

 私は数年前から視力が急速に衰え、今は顔のすぐ前に手をかざしてもそれすらよく見えません。誰かに会っても顔も見えません。不便なことは不便ですが、この眼を薬を使って治そうとか、神通力を使って見えるようにしようとか、そういう思いにならないのです。眼が悪くなり始めた時両目に激痛とひどい充血がありました。電気の光を見ることが出来ず、ごくわずかな光だけで何日も過ごさざる得ないこともありました。このままいけば失明することもあるかもしれません。しかし、たとえそうなっても治療するつもりはないし、自己のカルマだと思えば逃げる気にもなりません。おそらく現象が私の視力を必要としないのでしょう。

 多くの方にとって共感しがたい話かもしれません。しかし、お釈迦様の二大弟子のひとりに神通第一(弟子の中で神通力が抜きん出ていて並ぶものがいなかった)と評されたマウドゥガリヤーヤナ(目連)という方がいますが、私は人生の最後を迎えた時の彼と同じ心持なのです。

 街で托鉢(たくはつ)をしていたマウドゥガリヤーヤナは異教徒たちの襲撃を受け袋叩きにされます。瀕死のマウドゥガリヤーヤナは、神通を使って何とか帰還しましたが、酷い有様を見て幼馴染のシャーリプトラ(舎利弗)が聞きます。「なぜ神通第一といわれた君が神通を使って逃げなかったのか」マウドゥガリヤーヤナは「自分は業が重く、たとえ神通を以ってしても宿業から逃れる事は出来ない。」と答えたそうです。そしてお釈迦様に辞して後、自己のカルマの解放を喜びつつ故郷で死を迎えます。その後、お釈迦様も毒キノコを食べ食中毒を起こし涅槃されます。マウドゥガリヤーヤナにしてもお釈迦様にしても、神通によって自分に降りかかる災いを避けることは簡単であったはずです。しかし、そうしなかったのはやはりカルマというものを受け入れていたからでしょう。

私も聖者方にならい、自己の最終的なカルマの清算の段階に入りつつあるのだと思い、それを喜びととらえています。他の人にそのようなことを強要するつもりはありませんが、カルマの何たるかを見切っている私にとっては、こうするのが最終的なニルヴァーナへの道だと思っています。

 

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真我への道 無常 

                                         (2011/12/23)

 この人間界というものは、苦しみ多き世界です。想像してみてください。あなたが優しい家族の中で愛されて成長し、良い大学を出て良い仕事に恵まれ、素晴らしい恋人を得てその人と家庭を持ち、やがて可愛い子どもにも恵まれたとしましょう。この世の喜びを謳歌しています。しかし、その時こそ自分の心を見てください。果たして自分は家族に、仕事に、名誉に、幸福そのものに執着していないだろうか、と。いつの日か、自分は愛するものと必ず引き離される。その時、自分は苦しまないでいられるだろうか、と。

 生き別れになるのか、死によって引き裂かれるのか、それはわかりません。しかし、いずれにせよ自分が執着すればするほど、愛するものとの離別の苦しみは大きくなります。

 例えば、あなたが誰もが羨むもの、素晴らしいものを持っていると想像してみてください。それは豪華な家でしょうか、高価な車でしょうか、それとも高性能の機器、有名な美術品・骨董品、素晴らしい音を奏でる楽器、あなたが好きなものなら何でもいいのですが、それを所有しそれを眺めたり触れたりすることで、あなたは喜びと楽しみを十分に味わっているとしましょう。毎日磨いたりきれいにしたりメンテナンスを欠かさないで大切にしていたとしましょう。しかし、その時にこそ考えてみてください。今自分に喜びを与えてくれているものはいずれ壊れたり、色あせたり、傷ついたり、盗まれたりする。その時、自分はこの執着によって苦しむことになるのではないか、と。

あなたの愛する恋人、その人はスタイルも良く、顔も美しく、声も美しい。心優しく誰からも愛されるような性格であったとしましょう。友達に自慢できる、素晴らしい恋人であったとします。しかし、考えてみてください。果たして、その人の素晴らしさ・美しさは永久に続くものだろうか、と。男性も女性も年齢とともに容姿は色あせ、シミやシワができ髪の毛も薄くなります。若いころのスタイルは崩れ、肉が落ちギスギスになるかもしれませんし、おなかだけがぽっこり出るかもしれませんし、どんどん太ってしまうかもしれません。年齢を重ねなくとも、不慮の事故に遭って顔や身体に傷や火傷を負い、美しさを失うこともありえます。性格さえ変化するかもしれません。もしくは、もともとの性格に裏表があったけれど、それにあなたが気付かないだけだったのかもしれません。それでも、あなたは醜くなった恋人を以前と同じように愛し続けられるでしょうか。

 そんなことがなくても、その恋人に心変わりがないと言い切れるでしょうか。死の瞬間まで自分だけを愛してくれるなんて保証はどこにもありません。あなたは、裏切った恋人が自分以外の人間と愛し合う姿を直視できるでしょうか。逆に、あなたがより美しい人やふさわしい人に出会い、現在の恋人を疎ましく思うようになるかもしれません。

 どんなに素晴らしい家庭であっても同じです。家族と和気あいあいと楽しく暮らそうと、それを災害や事故・事件で一瞬にして失うかもしれません。そんなことがなくとも、家族の中で利害が相反すれば、家族であろうと相手を邪魔に思うかもしれません。それが骨肉の争いに発展しないと誰がいえましょうか。

 どんなに素晴らしいものであっても、あなたの心がそこから絶対離れないなんてことはありません。そのものに飽きたり、新しいものに目移りしたりします。そうなってしまえば、今まであなたに多くの喜びと満足をあたえていたものであっても、現在のあなたにとっては見劣りするものになり下がります。

素晴らしい経験、例えばあなたが今まで味わったことのないほど美味しい食べ物を食べたとしますね。こんなに美味しいものが世の中にあったのか!と思って、それを食べ続けたとしたら、そこに必ず執着が生じます。そして「もっと食べたい、もう一度食べたい」という思いが湧き上がります。これが渇愛です。状況が変化しその食べ物をもう二度と食べられないとしたら、あなたは渇愛によって苦しむことになります。

喜びの裏には、必ず苦しみがひそんでいます。私たちは喜びだけを純粋に味わうことはできません。なぜなら、この世界は変化し続けているからです。

あなたに幸福をもたらしているものがこの先ずっと変わらない、そしてあなたの心も変わらない、そうであれば私たちは苦しみを経験せずにいられるでしょう。しかし、現実には現象は刻一刻と変化し、全く同じ現象を経験することはありません。この世が変化する限り、私たちは苦しみから逃れることができません。これを仏教では、無常といいます。

 私たちは生まれてから「煩悩は喜びである」「喜びを追求することで幸せが得られるのだ」という情報ばかりに接してきました。この情報を周りからどんどん取り込み、煩悩を肯定する観念を構築し潜在意識を穢してきました。しかし、真理は「煩悩は苦しみそのものであり、煩悩的な喜びを手放すことで本当の自由と幸福を得る」ということを教えています。

自分のエゴを全うしようと欲望を追求する限り、人は苦しみから逃れることは出来ません。喜びを求めているつもりが、実際には苦しみを引き寄せているのです。

 煩悩を断ち切ることはその時は苦しいでしょうが、それにより潜在する煩悩も減少していくので将来自分が経験する苦しみも少なくなります。それはちょうど、喜びを追求し煩悩を増大させ、結局自己の苦しみを増大させる、苦しいがゆえにまた喜びを求めるという悪循環の真逆の道です。

あなたが自分の苦しみに集中すると、その意識があなたの周囲に連動します。しかし、逆に自己の苦しみを乗り越え、他者の苦しみを引き受けたいという意識であれば、その意識が周囲の人々に連動します。あなたの周りの家族や友人、同僚の意識を慈悲の意識に近づけることができるのです。そのようにして、日本中が慈悲の意識になればよいと思います。それがこの日本を浄土に変えるということなのです。

 

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真我への道 懺悔の薦(すす)め

                                         (2011/12/22)

解脱・悟りに至るために必要なもの、それは慈悲・帰依・慙愧の念です。慙愧の念についてはまだほとんど触れていなかったので、今回は慙愧の念、そしてそれを実際の修行法にした懺悔についてお話しようと思います。

 慙愧(ざんき)の念、慙は賢者の教え、あるいは真理に照らして自らの行為を反省することであり、愧とは道徳的な教えにのっとり悔い改めることです。私たちは真理のものさしと道徳的なものさしを使って常日頃から自己の行い・言葉・心をつぶさに観察し、真理や道徳にそぐわない部分は改めていく必要があります。しかし、人はどうしても自己中心的な思考に陥りやすく、事ある毎に「自分が、自分が」という意識が出てきます。その結果として自己と他者の区別を増大させてしまうことが多いものです。そういったエゴを拭(ぬぐ)い去るためには、懺悔を行い慈悲を培う必要があるのです。

懺悔というものは「私はこんな悪業を為してしまった」という経験や「私はこんな善業を為したんだ」という経験からくる、現象への捕らわれをなくすためのものです。たとえ良い思い出、素晴らしい出来事であっても、それに捕らわれることは、この世界に対する執着を増大させ解脱の障害となります。ですから、まずは悪業についての懺悔から始めて、それが出来るようになったら次に善業・良い現象に捕らわれてしまったことについて懺悔をしていったらいいと思います。

例えば悪業に対する懺悔の場合は、聖なる対象に自己の罪を悔い改めそれを告白します。しかし懺悔を行っても、その対象の方があなたの罪自体を引き受けてくれるわけではありません。因果(いんが)の法則によって悪しき行いの結果はあなたに必ず返ってきます。しかしながら懺悔を行うと、懺悔を受けてくださる対象の"捕らわれのない意識"が連動し、データとして自分の意識に入ってきます。つまり、懺悔をすれば現象に捕らわれなくなるために悪業の結果生じてくる業(ごう)の果報によって苦しむことはありません。そして、その業を乗り越えやすくなるのです。

善業に捕らわれた意識を懺悔した場合は、未来その善業の果報である喜びがやってきても、その喜びに頓着しなくなります。喜びに対する執着がなくなっているので、たとえその喜びが消えたとしも渇愛が生じず苦しまなくてすみます。

懺悔によって自分の行った行為の結果を受け入れ、それを乗り越えるだけの強い心を持っているのか、それともエゴに翻弄(ほんろう)され新たな捕らわれの原因を生み出し蓄積させてしまうのか、それは大きな違いです。その蓄積によって魂の方向性というものが決まってしまうのです。 

それでは具体的に懺悔の方法を説明します。まず大切なのは、懺悔を受けてくださる聖なる対象です。如来(にょらい)・仏陀(ブッダ)・菩薩(ぼさつ)あるいはそれらの意識を具現化している導師(グル)が対象になります。懺悔を受けてくださる対象が自分と同じ穢れを有していたならば、その穢れが移行するだけで懺悔が効果を発揮することはありません。懺悔を受けてくださる対象はお釈迦さまを始めとした聖者、如来といった方々、もしくは会員になっていただきました方については私がその役を務めようと思います。

 お会いしたこともない、どこにいらっしゃるのかもわからない如来方に対して、まるでその方が自分の目の前にいるように集中して懺悔する事は難しいかと思います。集中が少なければエネルギーの連動自体も少なくなり、したがって懺悔の効果も小さくなってしまいます。また、仏画や像に向かって懺悔することにはあまり抵抗はないでしょうが、生身の人間である第三者に自分の醜さや過ちを赤裸々に吐露するのは羞恥心が邪魔をし、かなり勇気が要ることです。しかし、それでも自分を守ることをやめ懺悔することで、より懺悔の効果が出ます(実際は、私はかなり現象への捕らわれが薄いので、何を懺悔されても全く気にしないのですが)。

 懺悔の具体的内容を声に出して告白します。包み隠さずなるべく細かく、より具体的に行うことで効果が出ます。申し訳ない、もう二度と同じ過ちは犯さないという強い気持ちで行います。告白の後「二度とこのような間違いは犯しませんのでどうかお許しください。そして、この悪業の結果としてどのような苦しみが自分にやってきても構いません」と宣言します。

懺悔を受けると、私はアナハタ・チャクラが詰まり呼吸困難で苦しくなります。アナハタ・チャクラは現象そのものに対する捕らわれを司っています。昔の悪業に対しての懺悔を受けると、懺悔をした人が現象に捕らわれ悪業を為したのですから、その当時の捕らわれの意識が連動するのです。このアナハタ・チャクラの穢れを昇華するためには、かなりの苦労を要します。こんなことを書くと懺悔しようという気持ちがなくなってしまうかもしれませんが、私が大変な思いをするということは懺悔をした人の修業が急速に進むということですから、それは私にとっても嬉しいことです。そして、懺悔を受けることは私自身の魂の器を広げることにもなるので、それは気にしないでください。

基本は仏典にある十戒(じゅっかい)に沿って懺悔を行います。次に、社会的あるいは道徳的に問題のある行為についても同じように懺悔を行います。あなたが心に引っ掛かっていることは、そこに捕らわれがあるということですから、大小に関係なく、たとえ良い思い出であったとしても懺悔してください。 
そうすることにより思い出にも残らないような小さな捕らわれさえも、どんどんなくなっていきます。本当に深くて強い懺悔ができるようになると、あなたは驚く程多くの現象が懺悔に値することに気が付くでしょう。ヨーガのポーズや呼吸法などでも、クンダリーニのエネルギーを上昇させることができます。しかし強い慙愧の念を伴った懺悔ができるようになるのなら、上昇するエネルギーはその比ではありません。そして懺悔は悔い改めの意識が強ければ強いほど、その行為の結果は早く返ります。行為の結果は早く返れば返るほど、乗り越えやすい形で返るという傾向があるのです。

しっかりとした懺悔ができるようになると、聖なる対象に深くおわびする気持ちがわきあがってくるものです。そして同時に、懺悔の対象となった行為に関わった他者に対して、自己の穢れをあぶりだしてくれたことに深い感謝の念がわきあがってきます。そして多くの他者によって自分が生かされていることに改めて気付くでしょう。これにより、現象自体が大きく変化していきます。

 

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真我への道 料理とエネルギーについて

                                         (2011/12/21) アトラス・パスタマシーン

 料理を作ると、必ずその料理に料理を作る人のエネルギーが入ります。特にカレーやシチューなどは長時間煮込みながら焦げつかないように、まめにかき混ぜます。知らず知らずのうちに、私たちはかき混ぜながら念を送っているのです。

 料理をする人が修行と無縁でありナーディー(全身の気の管)に滞りがあれば、そのナーディーの穢れが料理に移入します。それを食べれば、もちろん食べた人にエネルギーが移入してきます。しかし料理を作る時に、例えば慈悲を培う利他のマントラを唱えると、どうでしょうか。その時は慈悲の念が料理に込められるようになります。

 固形物の場合、かき混ぜなくても手の平からエネルギーが入ります。ご飯を両手で包んで圧迫するとおにぎりが出来上がります。おにぎりに対してぎゅっと圧をかける時、一緒に念が入るのです。

 カレーやシチューと同様におにぎりを握る人のナーディーが滞っていると、そのナーディーの穢れがエネルギーとしておにぎりの中に封入されます。そのエネルギーは食べる人に連動するのですが、それはおにぎりを握った人のスシュムナー菅の穢れとおにぎりを食べる人のスシュムナー菅の穢れが同調しオーバーラップすることで連動してきます。それを食べる人が、おにぎりを作った人よりもナーディーがきれいに通っていれば、おにぎりを握った人の穢れがシュシュムナー菅に穢れとして生じます。そして、その穢れが一気に上昇し昇華に向かう時に頭痛が生じます。そのおにぎりをおいしいと感じても、頭痛はそれとは無関係に起こります。

エネルギー分布 ですから、おにぎりを外で買う時は手造りのお弁当屋さんのものではなく、機械で作ったコンビニのおにぎりエネルギー的には一番楽です。

 なぜ、お母さんのおにぎりがおいしいのか、それはお母さんが愛情を込めているからです。この愛情にアナハタ・チャクラ(情)の念だけでなくスヴァディスターナ・チャクラ(子どもに対する愛欲)の念もこもっています。スヴァディスターナ・チャクラの、物事を良く見せようというエネルギーが働き、おいしくなるのです。

 パンや麺類をつくるために生地を手でこねた場合も、同じように作る人の穢れが生地に入ります。おいしいものを作ろうと頑張れば頑張るほど、その人のエネルギーが入ります。これは仕方がありません。

 まだ手でこねる場合は良いのですが、うどんは足で踏んで生地をこねます。足腰で踏んでこねる場合はアパーナ気を使うため、腕でこねるのと比べものにならないくらい多くの穢れが入ってきます。アパーナ気とは下半身の運動で使われるエネルギーです。

 以前、讃岐で私はかま玉うどんを食べました。その時、頭痛どころか顔がどす黒くなり目の周りは紫色っぽくなりました。それほど強烈なカルマ交換が起こり、エネルギーの滞りが生じたのです。そんな状態になったのにも関わらず、あまりの美味しさにお替りをして、ふらふらになってしまったことがありました。私がまだ味に捕らわれていた頃のお話です。

  こね工房  
 

どうしても手造りうどんという方は、これをどうぞ。

オークションで15000円前後で購入できます。

 

 

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真我への道 君が代

                                         (2011/12/20)

 十数年前の冬のある日、友人に「巣鴨プリズン跡に行ってみないか」と誘われ、他の人も誘い私たちは総勢5人で靖国神社を参拝した後、巣鴨プリズン跡に行きました。「永久平和を願って」」

 

 あまり知られていませんが、巣鴨プリズン跡というのは東京・池袋サンシャイン60のビルが建っている一画です。この地には戦時中は思想犯などを投獄していた拘置所がありました。戦後は戦犯を収容する巣鴨プリズンに姿を変えました。そこには処刑場が併設されていました。この処刑場で戦後A級戦犯とされた人たち7名とB・C級戦犯54名が処刑されたそうです。さすがに、そこは建設用地にはならず東池袋中央公園となりました。当時をしのばせるものは『永久平和を願って』という石碑のみです。

 私たちはその石碑を見てから、公園内の遊水場の滝を見に行きました。その時こわおもてのお兄さんやおじさんが9名ほどやってきて、私たちが先ほどまでいた石碑にたむろしていました。その後、その人たちが散り散りになって、公園全体に広がりました。私たちはそれをいぶがしがりながら、もう一度石碑のほうに戻りました。そうしましたら、おそらく皇居の方向なのでしょう、彼ら全員がひとつの方角を向き、君が代斉唱を始めました。私も同じようにその方向を向き、一緒に斉唱を始めました。私の連れも私が歌っているのを見て斉唱に加わりました。

 偶然にも、私以外の四人はみなネイビーブルーのフラノコートを着ていて、なんとなく海軍のコートのようにも見えました。それからしても、彼らの仲間に見えたかもしれません。しかも、飛び入りで右翼団体と斉唱するやつがいるなんて思いもしないでしょうから、他の人々の目には完全に私たちも彼らの仲間だと映ったことでしょう。

 君が代が終わり私たちはまた遊水場にもどると、先ほどの右翼の一人、若い人がやってきました。そして私に話しかけてきました。「兄さん、ちょっといいかい?うちのおやっさんが聞いて来いっていうもんだからさ。兄さんたち、なんでここに来たの?何の会?」私はちょっと言葉に困りましたが、「霊示を受けたから来たのです」と素直に答えました。その若い人は、その答えに妙に合点したようで「おっ、そうですか。霊の会の人でしたか」と繰り返して、彼のおやっさんに報告しに帰っていきました。その後すぐ、彼がまたやって来て「自分らはこれから靖国神社にいきますが、一緒に行きませんか」と誘ってくれました。私は、せっかくだけど自分たちはここに来る前に靖国神社でお参りをしてきた旨を伝えて遠慮しました。

 

 彼らとはそれっきりでしたが、なかなか面白い出来事でした。この日は12月23日、今上(きんじょう)天皇の誕生日でした。あとで聞いたところによると、今上天皇が皇太子であった1948年、GHQ(アメリカ進駐軍)は見せしめのために12月23日を選んで戦犯71名の処刑を行ったそうです。

 私は天皇家についても天皇制についても別になんとも思っていないのですが、彼らにとったら同じような思想の持ち主に思え共感したのでしょう。しかし私自身が彼らと君が代斉唱したのは、過去に日本の国を守るために命を犠牲にした魂に礼を尽くそうと思ったがためでした。

 そして君が代につても、それを否定する人も見受けられますが、私は素晴らしい国歌だと思っています。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで

 深いデータに基づいて、この歌詞を私なり解釈するならば「きみが代」の「き」はイザナギ、「み」はイザナミを示しています。この二神は国生みの神であり、この二神の世が「千代に八千代に」非常に長い期間にわたって続くことです。そして、「さざれ石の巌となりて」とは、さざれ石(小さな小石)が数多く集まりひとつの巌(大きな石)を形成する。さざれ石は角礫岩といい、実際に小石の間の石灰質が固まって大きな岩となったものです。
この深い意味は、多くの小さな魂が集まりひとつの大きな魂となって神の世に帰っていくことなのです。

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真我への道 (1)アセンションの意味とは

                                         (2011/12/14)

 地球規模の意識大変革が2012年12月冬至をきっかけとしてその後5年半のうちに起こる、そしてその助走期間に人類は未曾有(みぞう)の苦しみを味わうことになるとお話してきました。このような発言は皆さんの不安をあおるようで申し訳ないとも思うのですが、この意識大変革が起こることは既に決定づけられています。

 できましたら、これを自己の意識変革のための素晴しいチャンスであり、それまでの暗黒期は自己の心の内奥に潜んでいた穢れが表に出る浄化期間であると肯定的にとらえていただきたいのです。実際にこの欲界全体(天界・修羅・人間・貪り地獄・迷妄地獄・激苦地獄)を巻き込んだ、壮大な地球規模の意識大変革計画は悠久の時をかけて少しずつ進められてきたものです。私たちがこの時代に生き、この意識大変革を我が事として経験できるのはあり得ないような僥倖(ぎょうこう)なのです。

 しかし、そうであってもアセンション自体はひとつの過程に過ぎず、通過点です。アセンションの後も絶対世界である究極のニルヴァーナへの道程はまだまだ続きます。アセンションして終わりということは、絶対にありません。

 しかも、最終地点であるニルヴァーナに到達するまでは私たちの経験する世界はすべてが幻影であり、いかなる出来事も幻影球体世界の中の物語でしかありません。もちろん、アセンションも幻影のひとつです。しかし、あなたの幻影球体世界の物語の中にアセンションが用意されているということは、何かしらの意味があるということです。この意識変革の時に自分がどのような立場でどのような役割を果たすかによって、アセンションの後の道程も全く違ったものに変化することでしょう。

 今これをご覧になっている方に、私は強く申し上げたいのです。あなたはアセンションにおいて、誰かに付随して受動的に意識変革を果たす魂ではないのだということを。あなた自身が多くの魂をひっぱり、彼らを意識上昇に導かねばならぬ魂であるということを。

 そのためにこのアセンションは用意されていると言っても、決して過言ではありません。そうでなければ、アセンション自体が形だけのものとなってしまうでしょう。この記載をご覧になっているあなたは、すべての魂を救うためにこの世界に生まれた三十二の御魂、もしくはそれに続く14万4千人の真人(まさびと)のいずれかであることはおそらく間違いないでしょう。

 今まで申し上げていましたように、アセンションは彼らによって口火が切られることになります。あなたに必要なのは「自分は救済のために生まれた魂であり自らの肩に多くの魂の命運がかかっている」という自覚です。あなたが目覚めることにより、あなたは多くの魂を救うことが出来るのです。

 

真我への道 (2)三十二の御魂と14万4千人の真人

 14万4千人という人数に既視感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。これは、新約聖書の最後にある、唯一の予言の書『ヨハネ黙示録』第7章に記さています。ざっと申し上げれば、このような内容です。

 ユダヤ12支族からそれぞれ1万2千人ずつ、つまり1万2千人×12で14万4千人が神に選ばれました。神の御使いの手によって、聖別された証として14万4千人は額にしるしを押されます。彼らは純潔な者、神に忠実なる者、そして口に偽りなき者、傷なき者でした。14万4千人以外の人々は神との契約を守らなかったことにより滅ぼされます。そして生き残った14万4千人は神とともに1千年にわたる神の御世を享受することを許される、このように記されています。

 これは何を意味するのでしょうか。本当に14万4千人だけが救われ、他の人々は自ら犯した罪によって滅ぼされるのでしょうか。多くの宗教がこの14万4千人に対して、様々な解釈を付けています。実際に額面通り14万4千人のみが救われるというものや、例えではないかというもの、また14万4千人の意識が変革することで地球の全体意識に連動しすべての人々が意識変革を果たす、最初の起爆剤としての最小人数であるというもの。

 諸説ありますが、私のインスピレーションはそのどれとも異なります。少しわかりづらいかもしれませんが、ご一読くだされば多くの方が納得されるのではないかと思います。

 これは例えですが、私達の身体はおよそ60兆個の細胞から構成されています。その細胞のひとつひとつが意思を持っているとお考えください。細胞は自分の魂を信じて疑わず、自分が単なる細胞のひとつであることが見えない状態です。そして肉体の主である「あなた」の存在(高次の存在)に気付かず、自分は完全な固体であると信じています。上から下を見ればその存在はわかりますが、下から上を見上げても高次の存在はわかりません。

 同じようなことが、人の身・口・意についてもいえます。実は自分が今生(こんじょう)培った身・口・意の行為、その集積によって三悪趣(激苦地獄・迷妄地獄・貪り地獄)が存在します。それらは私たちから見ると単なる感情や行為にしか見えないものですが、その集積の立場になってみると自己の魂というものが実在しているように感じています。感情や行為は、それぞれ一人前の固体であるという意識を持っています。先ほどの例でいいますと、意識を持った細胞にあたります。このように高次の世界から見れば、単に感情や行為という実体なきものに見えるものであっても、ひとつひとつの感情や行為という低い世界のレベルで見れば自分が実在しているように感じているのです。しかし、人間の方から彼らを見ても単なる感情や行為がそこにあるだけで、意識を持った魂というものは何ひとつ存在していないように感じます。

 ひとりの人間がその生涯でなす身・口・意の行為は無数にあります。実際に身体を使って行為することだけでなく、発する言葉のひとつひとつ、一瞬一瞬の思いも全部がひとつの行為であるとされます。その行為ひとつひとつが意識を持つと考えましたら、人間ひとりに対して無数の三悪趣の魂に枝分かれするということです。高い世界の魂は、それよりも低い世界に移行すると分化します。このように魂はこれ以上分けられないものではなく、低い世界にいけば分化していきます。

 この感情や行為は、三悪趣の世界の住人として位置づけられます。私達の身・口・意がそれぞれ意思というものを持ってしまったがゆえに、それらは周りの世界に実体を見出しています。すると、そこには苦しみが発生します。実体があると感じるからこそ、現象に捕らわれ苦しみを感じるのです。しかも、それらが感知するのは人間界とは比べ物にならない、恐ろしい苦しみであり、それが延々と続いているのです。

 さらにいいますと、これは人間より下の世界についてのみ当てはまることではありません。同じことが神と私たちの関係においてもいえます。私たちは、誰もが自分はこの世界に実在していると思い込んでいます。「自分はこんな外見で、こんな性格で、こんな好き嫌いがあって、こんな声をして、ここにいるんだ」と思っています。つまり、自分いう存在に実体を見出しています。しかし、人間以上の高い世界の神から見たら、実在している人間などありません。ただ、そこには神から見た「自分(その時の神)の意識」があるだけなのです。そして、神がこの人間界に降りてくるとしたら、神の御魂は複数の人間に分化することになります。

 ここまで申し上げればお分かりになる方もいらっしゃるでしょう。第二天界である三十三天(とうり天)に存在していた三十二神は自己の深い意識の中に苦しんでいる魂を見出し、彼らを救うために地球に降りてきました。その時、三十二神は真人として生まれ変わりました。三十二神のうちの一神が人間になった時、4千5百人の人類の魂となります。神である一つの魂が4千5百人の人間に分化したのです。つまり、三十二神全員で14万4千人の真人(人間)に生まれ変わりました。

 そして一神が4千5百人に分化することで、より多くの他者と関わり彼らと縁をつなぎました。おそらく、それは亡国の後世界中に離散したユダヤ人の如く、世界中に広がる必要があったのです。ユダヤ人は各地に根を下ろし、あるものはその地に同化し、あるものは民族のアイデンティティーを保ち続けました。同じように真人も世界中に広がり根を下ろし、その地で多くの魂と縁を持ちました。この縁によって、三十二神であった真人はこれから救済を始めていくのです。

 真人14万4千人以外の地球人に関してですが、この人たちの魂は実は本来三悪趣に生まれるべきものでした。それほど三悪趣のカルマの強い魂なのです。しかし、なぜ今生彼らがこの地球で人間としての生を受けたのかといいますと、三悪趣の魂がこの地球で真人と接点を持つようにするためです。14万4千人の真人と縁をつなぎ、彼らに救済されるためにこの地球に生まれてきたのです。

 このようにいうと非常に差別的に聞こえるでしょうし、誤解される方もいらっしゃるでしょう。しかし、先ほどの話を思い出していただきたいのです。本来三悪趣にあるべき魂というのは、実は人の感情や行為が意識を持ったものです。彼らは真人の魂がさらに分化したものに違いないのです。ですから、三悪趣に堕ちた哀れな魂を救うためというより、自己の心の奥深くに苦しむ魂を見出しその救済のために真人は地球に降りてきたといえます。アセンション自体がそのために用意されたのです。自己の身・口・意の悪しき要素、それによって苦しんでいる魂を救うためにアセンションという物語があなたの幻影球体世界に設定されたのです。

 そして真人であろうと煩悩に引きづられ悪業ばかりを積んでいれば、三悪趣は免れません。もちろん真人はそれを承知で降りてきているわけですが。結果論かもしれませんが、そのような運命になるのならその魂は真人ではなかったといえます。逆に、今は自己の幸福ばかりを追求し非常に煩悩的に見える人、十分に楽しんでいるような人でも、約束された魂である真人なのかもしれません。実は自分では気付いていないだけで、楽しんでいる振りをして自分を誤魔化しているだけなのかもしれません。運命の道筋は決まっていますが、実際にどのような現象になるかは未だ決定ていないのです。

 

真我への道 (3)真人のこれから

 真人は、このアセンションを成功させ多くの魂を救うという使命感を持って地球に生まれてきました。この地球に生を受けた後は、普通の人間として暮らしていたはずです。家族や友人、同僚に交わり、楽しみや苦しみを共にしてきたことでしょう。しかし、人生のどこかにおいて真理にめぐり合い、人生を転換する時が訪れます。その時から、自己の煩悩を削ぎ落とし、今まで多くの人と交わることで築き上げた縁を真理の縁に変えていかなくてはなりません。

 もう少し具体的にご説明いたしましょう。真理に目覚めるまでの人生の中で、私たちは楽しみや苦しみを仲立ちに多くの人と繋がってきました。例えば、家族とは情を仲立ちとし、恋人とは愛欲を仲立ちとし、敵というべき存在があったならばその人とは憎しみを仲立ちとし繋がっていました。この繋がりこそが縁であり、仲立ちとなってそれらを繋ぐものが煩悩です。私たちは、煩悩によって多くの人々と繋がっているのです。

 しかし一度真理に目覚めれば、煩悩が苦しみそのものであること、そして煩悩こそが私たちをこの世界に繋ぎとめる足かせであるという真実を理解するはずです。今まで築いてきた他者との縁も、煩悩を仲立ちにしたものから真理を仲立ちとする縁に変えていかなくてはいけません。それは周りの人よりいち早く真理に目覚めたあなたが、煩悩にいまだ振り回され自己の苦しみに埋没している、縁ある人々の苦しみを吸収していかなくてはいけないということです。つまり慈悲に基づく縁にシフトさせていくのです。

 苦しみに埋没し真理に気付かない彼らに慈悲を施し、彼らの、苦しみで曇った眼を晴らさなければなりません。それが真理に気付いたものの役目です。徹底的に他者の苦しみを引き受ける慈悲の実践をしなくてはいけないのです。

 あなたの周囲にいる人々を救うことのできる魂は、あなたしかいません。私が救えるものならそうしたいのですが、私では駄目なのです。お釈迦様の言葉に「縁なき衆生は度し難し」という言葉がありますが、お釈迦様ですらご自分と縁のない魂は救えないのです。つまり、あなたの家族や友人・知人、あなたと縁ある人々はすべて、他でもなくあなたによって救済されるしかありません。

 縁ある他者に慈悲を施し彼らの苦しみを引き受けるという実践を14万4千人の真人がエゴを捨て徹底的に行うことで、この地球規模の意識大変革は果たされます。14万4千人がそれぞれ自分に縁ある人々の苦しみをすべて引き受け背負うことで、すべての魂が自己の苦しみを乗り越え高い世界に移行することが可能になるのです。そのために、選ばれた14万4千人はその時が来るまで慈悲を思念し続けねばなりません。少しでも多く、他の苦しみを引き受けなくてはなりません。そうでなければ、この地球規模意識大変革は必ず失敗します。このアセンションはすべての魂が意識変革を果たすために、この苦界を越え梵天に移行するために用意されたものです。お膳立てをしたのは欲界の神々ですが、それさえより高い世界の神に誘導されただけに過ぎません。どれほどこの14万4千人に大きな期待がかけられているか、それは計り知れません。

 また14万4千人の真人自身も、どれほどの覚悟を持って人間界に転生してきたことか。本来は天界に存在していた彼らがこの地球に生まれることは、実はとても大変なことです。天界の記憶を失い普通の人間として生まれ煩悩にまみれて生きる、そのまま普通の人間として真理を理解することなく煩悩の中で一生を終えることだってあり得るのですから。それでも、すべての魂を救わねばならない、救世主のお役に立たねばならない、その一心で危険を顧みずこの地球に転生することを選んできているのです。

 ですから、すべての魂を、第六天界を含めた欲界を超えた梵天界に引き連れていかなくてはなりません。ひとりとて取りこぼしてはならないのです。救世主のもとにすべての魂を集結させるのです。すべての魂とともに救世主に導かれ、この苦しみの世界である欲界を後にするのです。そして、誰もいなくなった世界に幕を閉じなくてはなりません。そうでなければ、アセンション自体に意味がなくなってしまうのです。

 真人たちはこの人間界に生まれることを決意した時、既に一度おのれを捨ています。いま一度自己を捨て、真理の実践に身を投じなくてはいけません。何としても私たちはこのアセンションを成功させねば、そうでなければ私たちは一体何のために生まれてきたのでしょうか。

 

真我への道 (4)帝釈天がすべての魂を高い世界に送る 

 なぜ、これほどまでに14万4千人に少しでも多く他者の苦しみを引き受けなくていけないと主張するのかといいますと、それはアセンションの仕組みとも関係しています。

ヴァジラ

 実際にアセンションを迎えた時、多くの苦しみを背負った真人は救世主に導かれ、まず第二天界である三十三天に上ることになります。三十三天は銀河の中心であるブラックホールに存在しています。三十三天の中心である神は帝釈天であり、この帝釈天がアセンションの第一の要なのです。救世主自身も帝釈天の化身なのです。

 そして欲界を超えるためには、帝釈天の導きが不可欠です。欲界の頂点に君臨する第六天界の神でさえ欲界から離脱するためには、帝釈天に従わねばなりません。それゆえ帝釈天は欲天の王とされています。

 しかし、なぜ王であるはずの帝釈天が欲界の頂点である第六天界ではなく、第二天界という下から二番目の天界に存在するのでしょうか。私の本にも書いたのですが、帝釈天率いる三十三天が第二天界に位置しているのには理由があります。それは、第三天界の閻魔大王の裁きを受けるためです。閻魔大王は自分より下の世界にいる魂を善悪によって裁き、「悪業多き魂は地獄へ、善業多き魂は天界へ」というようにその魂の転生する世界を決定しています。三十三天の魂は、他者の為した悪業も自分のものして引き受けてその悪業に対する裁きを受けます。そして、たとえ身代わりになって地獄に落とされても構わないという強い慈悲の心を持っています。他者の悪業はあくまでも他者のものであるとし自分の善業のみで閻魔大王の裁きを受けたならば、その魂は第四天界に転生することでしょう。しかし、そのように自己の善業を積むことだけに集中し他者の積んだ悪業を他者のものであるとしか見られなければ、その魂は第二天界以上の世界には行けても、欲界を超えることは出来ません。他者の悪業も我が事として喜んで罪を引き受けるような自己犠牲を伴った慈悲を持つ事によってのみ、魂は欲界から抜け出すことが出来るのです。つまり真人に求められるのは、このような心を再び取り戻すことなのです。

 欲界の王である帝釈天(たいしゃくてん)は三十三天の真ん中にそびえ立ち、ヴァジラ(金剛杵)を振り回しています。その回転音が三十三天中にブーン、ブーンと響き渡っているのです。帝釈天や三十二神は、私のインスピレーションによると非常に大きい体をしています。いわゆる巨人です。帝釈天はその巨体を使って、光の帯状のものでヴァジラを身体の側面でブンブン振り回しています。

 帝釈天が振り回しているものは投石器に似た、光の帯ようなものです。この投石器とは古代より世界中で武器として使われてきたものです。チベットでは現在も遊牧民が牧羊のために使っているようです。使い方を説明しますと、投石器のひもの一端はループ状になっています。ひもの中央は他の部分よりひもが太くなっています。通常はこの部分に石を包むのですが、帝釈天は石の代わりにヴァジラを包んでいます。それから、手からすり抜けないようにループを手首に通しひもを固定し、もう一方の端は手に握ります。そして体の側面でぐるぐると投石器を回し十分に回転速度がついたら、しかるべき地点で握っていたひもを手放します。すると、遠心力によってひもの中央に包まれていた石が遠くまで飛んでいきます。手首に固定された投石器だけが手元に残るという仕組みになっています。このような投石器に似た光の帯を使って、光より早い速度で帝釈天はヴァジラをはるか彼方まで飛ばしているのです。

ヴァジラを飛ばす帝釈天 












しかし、なぜ帝釈天がヴァジラ(金剛杵:こんごうしょ)を彼方まで投げ飛ばす必要があるのか、ヴァジラとは何なのか、おそらくこれを聞いただけでは全くご想像がつかないかと思います。私の見たヴィジョンの意味合いをご説明させてください。

 帝釈天が彼方に飛ばしているヴァジラとは「金剛(ダイヤモンド)=絶対壊れることのないもの」であり、真人の金剛の身・口・意を表しています。慈悲に対する金剛の身・口・意、慈悲の太陽神に対する金剛の帰依の身・口・意を表しているのです。帝釈天は真人の意識をはるか彼方の世界へ送り出しているのです。この欲界を跳び超えさせ、遠く梵天の世界まで。

 そして、真人が地球で他者の苦しみをたくさん引き受ければ引き受けるほど、帝釈天によって遠くまで飛ばされ、より高い世界に上がることが出来ます。他者の苦しみを引き受け背負うことで真人の身・口・意の比重が増します。その重みによって遠心力が大きくなり、より遠くまで飛ばされるようになります。

 この地球でいかに他者の苦しみを引き受けたか、それによってその後に自分が達する世界の高さが決定されます。ですから、真人がエゴを捨て他者の苦しみを少しでも多く引き受けたいと思うことが大切なのです。他者の苦しみを背負えるだけ背負って、帝釈天に高い世界に送り出してもらわなくてはなりません。

その実践は、今しか出来ません。本当に世界が苦しみに覆われる前に、自分の苦しみだけで精一杯になる前に、少しずつ自分自身が苦しみに強くなって誰かの苦しみを引き受けられるようにならなくてはいけないのです。これを読んでくださいました、あなたが一日も早く他者の苦しみを自分のものとすることが出来るようになることを願います。

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